還るべき場所




『出るよ』
そう言ってソウマはリョーマの腕を掴む力をさらにぐっと強めた。
リョーマの視界がまた光に包まれる。
「…っ!」
あまりの眩しさにリョーマは目を閉じる。
瞼さえ突き抜けてくるような強烈な光がおさまり、リョーマがもう一度目を開いた時、そこは薄暗い水族館の中だった。
「?ここは…」
リョーマが不思議そうに傍らのソウマを見上げると、ソウマはリョーマの腕をしっかりと掴んだままニッコリと笑った。
『とりあえず、帰還成功。ただ、時間はあの瞬間より少し前なんだ』
「前?なんで?」
『いきなりあの瞬間に出たって何にもできないだろ?少し前に出て、タイミングを計らないとね』
「タイミング?」
ソウマは笑みを消してリョーマを真っ直ぐに見つめた。
『いい?リョーマ。これからオレの言う通りにして。チャンスは一度きりなんだ。間違えんなよ?』
「……わかった」
神妙な顔で頷くリョーマに、だがソウマは柔らかく微笑んだ。
『な〜んてね、大丈夫。タイミングはオレが計るから、アンタはオレがいいって言うまで動かなきゃいい』
「え?」
『リョーマ、腕時計、見てみて』
リョーマは言われた通りに自分の腕時計に目をやった。時計は、まだ1時24分を示したままだ。
「動いてない…」
『そう、まだリョーマの本当の時間は動き始めていない。その時計が動き始める時、リョーマは本当の意味で、この世界に帰ってこられるんだ』
リョーマは顔を上げてソウマをじっと見つめた。
『オレがこうしてリョーマに触れている限り、リョーマはまだこの世界に属していないことになってる。タイミングを計って、オレがこの手をリョーマから離せば、その時は全部が元に戻っていくはずだよ』
「オレが元に戻ったら、ソウマはどうなるの?」
『べつに。また元通りに〈仕事〉するだけ』
「また、会える?」
『会わない方がいいよ。その方が身のためってヤツ』
そう言いながらも寂しげに微笑むソウマを、リョーマは瞳を微かに揺らしながら見つめていた。
「ソウマ……この世界に戻る前に、訊いておきたいことがあるんだけど」
『…………』
真っ直ぐに見つめてくるリョーマの瞳を真っ直ぐに見つめ返し、少し視線をずらしてからソウマは小さく溜息を吐いた。
『やっぱ、気になる?オレのこと』
「うん」
『そうだね、話してもべつに支障はないし……』
もう一度ふぅっと溜息を吐くと、ソウマは傍にある水槽を眺めた。
『…何から話せばいいのかな。ねえ、リョーマ、《世界》っていうのは、大きく分けて《物質的世界》と《精神的世界》の二つから成り立っているって、知ってる?』
「え……いや、わかんない」
『だよな。リョーマがいるのは《物質的世界》で、オレが属してるのは《精神的世界》なんだ』
それは何となくわかる、とリョーマは思った。
そしてその二つの世界は、それぞれが独立して存在するというよりも、どこか隣り合わせに存在するのではないかということも。
そう、例えば人の『肉体』に、目には見えぬ『心』があるように。
『人間の魂ってのは、元々二つがひとつになった形で存在しているんだ。それが、《人間》として《物質的世界》に生まれ落ちる時、その二つのうちのどちらかが選ばれ、選ばれなかった方は《精神的世界》に属することになるわけ。ところが、どうやら《物質的世界》に落ちた人間ってのはそのことを忘れちゃうみたいでね。でも、そのことを頭の片隅に覚えていた人が、自分たちの都合のいいように置き換えて〈人は自分の片割れを求めて生きてゆく〉とかロマンチックに言うわけ』
「じゃあ、ソウマはオレの……?」
『うん。オレとリョーマは、人間になる前段階での双子って言えばいいのかな。そう言う感じの関係』
「じゃあ、人間はみんな、自分とそっくりな『天使』がいるわけ?」
訝しげに眉を顰めて言うリョーマに、ソウマは笑いながら首を横に振った。
『大昔はそうだったみたいだけど、今は違うらしい。人間の『精神』もどんどん進化してきていて、いや、退化、って言うべきかな。二つでひとつとはいえ、昔の魂はそれぞれが独立できるほどしっかりと形があったんだ。なのに最近ではどちらか一方の魂しか…いや、時には二つとも正常に育たないらしくて、『天使』になれるほどしっかりとしている魂は、一年に生まれてくる命のせいぜい五百分の一くらいなんだって。その中のひと組が、オレたちってわけ』
「じゃあ、あとの魂はどうしているの?」
『二つくっついたまんま《物質的世界》に落とされる。だから時折、《物質的世界》で眠っていたはずのもう一つの魂が自我を持っちゃって、二人分の人格を持つ人がいたりする。滅多にはないことだけどね』
リョーマは「じゃあ、二人以上の人格を持つ人はどうなんだろう」と思ったが、それはその人の置かれた環境からくる精神的な問題なのだろうと思うことにした。
ソウマはゆっくりと歩きながら、ふうっと溜息をついた。
『昔はね、自分の片割れを導けばいいだけだった。でも今はオレたちみたいな《天使》がどんどん減ってきていて、結構忙しいんだ』
「……ふーん……」
『だいたいわかった?オレの正体』
自分と同じ顔でニッコリ微笑まれて、リョーマは曖昧に頷いた。完全に理解できたわけではないが、何となく、わかったような気になった。
つまり、本来ソウマのような《天使》たちは、自分の片割れを天界という場所に導くために存在していたのだろう。だが、《天使》の数が減少してしまっている今、自分たちだけではなく、他の魂たちを導く仕事まで負うことを余儀なくされているということだ。
ただ、なぜ魂を天界に送り戻さねばならないのかは、きっとソウマ自身にもわかってはいないだろう。それに触れるということは、この世にあるすべての生命の仕組みの領域にまで入り込むことになるからだ。その領域はあまりに高度且つ複雑すぎて、その仕組みに組み込まれているに過ぎない『魂』たちには、とうてい理解のできないものだろう。
きっとそれは、神と言われる存在の作り出した、永遠なる生命の循環なのだ。
「でも、あの『親玉』は、なんであんなふうになっちゃったわけ?」
『詳しいことはわからない。けど、たぶん、アイツは《天使》としての役割に堪えうるだけの《心の力》を持っていなかったんだと思うよ』
「心の力?」
ソウマは頷いた。
『魂回収して天界に送り出すのって、結構いろいろきついこともあるんだ。人間としての自分に強い未練を持っている人とかは、特にね』
何かを思い出したのか、一瞬ソウマの表情が暗く沈んだ。
『だから、そう言うのが、嫌になったんじゃないかな、アイツ。それでこの世界の仕組みごと変えようとして、まずは《秩序の破壊》を狙ったんだと思う』
「ああ……そうだったんだ……」
『爆弾魔のアイツの方は、たぶん《未完全体》の魂だ。未成熟なまま《物質的世界》に放り出されて、たぶん環境のせいで歪んで育っちゃったんだ』
「…そういえばあいつと『あの人』まだ来ないの?」
話に出てきたところであの爆弾魔のことをふと思い出し、リョーマはソウマに尋ねた。
『んー、もうすぐ来ると思う。あの人、オレができない後始末をあっちで色々やってくれているから…』
「後始末?」
ソウマはちょっと悔しそうに眉を寄せた。
『オレはまだまだあの人に敵わないことが多い。リョーマに、あっちで正体をバラすのは不二って先輩だけにしろって言ったのも、そのせいなんだ』
「え?」
リョーマは目を見開いた。そのことも、リョーマが訊いておきたいことのうちのひとつだ。
『普通の人間が、今回みたいに時間を移動してしまった場合、元の時間に戻る時は、移動した先でその人に関わった人の記憶を、全部書き換えなきゃならないんだ』
「………書き換える…?」
ソウマはリョーマを見ずに頷いた。
『オレが一度に記憶を書き換えられるのはせいぜい二人。三人以上は、少し時間をおかないとできない。そのタイムラグが、歴史を変えてしまうことだってある。でもあの人だったら、一度にたくさんの人の記憶を書き換えることができるんだ』
「書き換えるって……まさか、オレの記憶も……?」
ソウマはリョーマを真っ直ぐに見た。そして、頷いた。
『あっちの世界に行ったいきさつなんか、覚えていていいことはひとつもないだろ。トラウマになるだけだよ。リョーマにはリョーマの世界での記憶だけあればいいんだ』
「………」
『ただ、今回は、あの10年後の世界も《確定》してしまった分、あの世界に繋がるリョーマを作り出さないとならない。そのためのタイミングを、今、計ってる』
二人の視界が、ふっと明るくなった。ゆっくりゆっくり歩いているうちに、外に出たのだ。もうすぐ、観覧車乗り場が見えてくるはずだ。
『あの親玉は、今はもう力をなくしたけど、あいつの仕掛けた空間の歪みは、この世界にはまだ残っている。だからまずは、あの時、空間の歪みのせいでリョーマが見たモノを、今、オレたちがその通りに行動して書き換える。視覚的なものだけの書き換えならば、これが手っ取り早くていいんだ。ほら…』
ソウマは観覧車乗り場にできた列を指さした。まだ人影は小さくてよく確認はできないが、その列の中に、遠目で見ても判別のつく二人組が見える。
「あれは…」
『リョーマは列に並んでいる時、自分とそっくりな人影を見たと言ったよね。まずはそれを書き換える。その人影は、元々はあの親玉が空間を歪めて繋げて《リョーマが夢で彷徨っていた時》の姿を、10年前のリョーマに見せたものなんだ。だからそれを、今、ここにいる《未来から戻ったリョーマ》にすり替えるんだ』
「じゃあ、オレが見たのはソウマじゃなくて、オレ自身だったの?」
訝しげに眉を寄せて、だがリョーマは、数日前に見た『夢』を思い出した。
確かにあの妙にリアルな夢の中で、自分はいきなりこの場面に出てきた。そして列に並びながら手塚と楽しげに語らう自分を見たのだ。あの時、目があった気がしたのは、気のせいではなかったということだ。だがそうなるとかなりややこしい事態になっていることにリョーマは気がついた。
「変な時間の循環になっているんだ…」
『うん。だからそれを断ち切らないとね。その後もまた複雑に書き換えるから、それはこの人にやってもらう』
「え…」
『待たせたな、ソウマ』
誰もいなかったはずの場所から唐突に声が聞こえて、リョーマは勢いよく振り返った。
「あ……」
そこにいるのは一瞬手塚なのかと、リョーマは思った。だが何かが、どこかが、手塚とは違う。
いや、よく見れば、違いは明らかだった。
その人は手塚よりも髪が長く、何よりその髪色が闇夜を思わせる漆黒だった。そしてその瞳は、新月の闇を切り取ったような、艶やかな黒曜石そのものだった。
身を包む服も、何もかもが静かな『闇』を思わせるような深い深い色をしている。
『うまくいった?龍影』
「りゅうえい…?」
龍影、と呼ばれた手塚に似た男は、ソウマに向かって静かに頷いて見せた。
『手塚と不二の記憶は書き換えておいた。その子の家族も巧く調整した。後は、その子がちゃんと『分かれて』くれればいいだけだ』
「書き換えた…んですか?国光の記憶も?」
龍影はリョーマを見つめて静かに頷いた。
「じゃあ、どうやって国光は、あの世界のオレと再会するんスか?日曜日に観覧車乗り場で再会する約束したのに」
『それは問題ない。10年後の日曜日、二人はここで必ず再会する』
手塚と同じ顔で、そして同じ声で、淡々と告げられ、リョーマはなぜか胸が切なく軋んだ。
『ソウマ、もう一人の《越前リョーマ》を作り出す話は、彼にはもう話したのか?』
『だいたいは。でも詳しい話はオレにもよくわかんないから、アンタから説明してもらおうかと思って』
当然だと言わんばかりに説明を任せられて、龍影は大きく溜息を吐いた。
『元々この男は自分の仕掛けた爆弾の暴発に巻き込まれることになっていた。だから、この世界を正常に動かすために、まずはそれを実行する』
龍影の言葉に、光る糸で繋がれた爆弾魔がひいっと声を上げた。
『問題はもう一つの世界の方だ。この男が作った爆弾の暴発に、この男と共に『もう一人の越前リョーマ』は巻き込まれてもらう。だが、死にはしない。消えもしない。ただ、長い眠りにつくことになる』
「長い眠りって…?」
『爆風に吹き飛ばされた際に転倒し、頭の打ち所が悪く、身体は生きているが、意識を取り戻さない状態』
「植物状態ってこと…?」
艶やかな黒曜石の瞳を、リョーマは縋るように見つめた。その黒曜石の主は、一度ゆっくりと瞬きをしてから、やはり淡々と言葉を綴る。
『《越前リョーマ》の両親は、10年間、リョーマの悲痛な姿を手塚に見せないように隠し、手塚に対してリョーマは死んだと告げる。だが、10年経ったある日、奇跡が起こる』
「越前リョーマが、目を覚ますんスね?」
リョーマの強い瞳に見つめられて、龍影は微かに目を細めながら頷いた。
『君が関わったことで、手塚と不二の記憶はあまり書き換えることはできなかったんだ。だが、君は両親や他の人間とは接触していない。だから、手塚と不二以外の人間の記憶はかなり自由に組み直すことができた。これが俺の作ったシナリオだが………何か不満はあるか?』
「ないっス」
瞳を揺らしながら、リョーマは微笑んだ。あの世界の手塚が、あの世界のリョーマと再会できるなら、そして幸せになってくれるのなら、何も文句などない。
「ありがとうございました!」
深く頭を下げるリョーマに、龍影は小さく目を見張った。
『……やはり、ソウマの片割れだな。純粋であるが故に、揺るぎなく強い意志を持つ魂……国光が惹かれるのも無理はない、か…』
「え?」
『いや…』
顔を上げたリョーマがきょとんと龍影を見つめると、それまで表情のなかった氷の彫刻のようなその顔に、一瞬温かな笑みが浮かんだ。
『間もなく時が来る。先にこの男は記憶を書き換えてこの世界に放つ』
「その男は、死ぬんですか?」
リョーマの問いに、龍影は眉を顰めた。
『なぜそんなことを訊く?』
「その男が、少しでも命の大切さに気づくことはないんスか?今まで犯してきた罪を認めて、傷つけた人たちに少しでも申し訳ないという気持ちを持つことは、期待できないんスか?」
『…………』
『リョーマ…』
ソウマは小さく眉を寄せて龍影を見上げた。龍影は、じっとリョーマを見つめている。
「オレは、10年後の世界で、あのひどく傷ついた国光を見て、自分の命より大切に想うものが奪われた人のつらさを、初めて知った気がします。それは、苦痛とか簡単な言葉で表せるような生易しいものじゃなくて、もっと深くて、もっと強い、どうしようもない喪失感と絶望感なんです。そんな思いをした人があの国光の他にもたくさんいるんだってことを、その男にもわからせてやりたい。わからせて、自分のしでかしたことの重大さを、突きつけてやりたい!」
リョーマの真っ直ぐな瞳の放つ強い光が、闇を映していた黒曜石に、ふわりと輝きを与えた。
『…わかった。その件に関しても、俺に任せてくれるか?』
「はいっ」
龍影はソウマに視線を移すと小さく微笑んだ。
『お前が躍起になって、この少年を元の世界に戻してやろうとした理由がわかった気がする。あと少しだ、気を抜かずにいけ』
『……はい!』
嬉しそうに返事をするソウマに、龍影は一瞬眩しげに瞳を細めた。そうしてから気持ちを切り替えるように目を閉じ、再びその瞳を開いた時には、元の、深い闇を映す黒曜石に戻っていた。
『いいか、始めるぞ』
『はい!』
龍影は光る糸を男から外し、いきなり男の頭蓋骨を掴むかのように頭を鷲掴んで何やら小声で呟いた。すると、男の身体が微かに光を放ち、直後、霧散した。
『行くよ、リョーマ』
「うん」
リョーマがふと龍影を見上げると、冷たい黒曜石が、仄かに和らいだ。
『さらばだ、越前リョーマ。俺の片割れを、よろしく頼む』
ニッコリと微笑んでリョーマが頷くと、龍影も頷きながらふわりとその姿を消した。
『……気づいてた?リョーマ。龍影、わざとリョーマに姿見せていたんだよ。さっきの最後の一言が、本当は言いたかったんだ、きっと』
クスクスと笑いながら小声で言うソウマをチラッと見てから、リョーマも「うん」と頷いた。何となく、そんな気がしたから。
そうしてもう一度龍影のいた場所に目をやり、そこから視線を流したリョーマは、ふと、列に並ぶ手塚の背中を見つけた。
(国光……もうすぐ、アンタのところに帰るから……)
今すぐ走り出したい気持ちをぐっと堪えていると、手塚の肩越しに自分と目が合った。
「ソウマ、『オレ』と目が合ったよ」
『OK。あの人の…龍影の《書き換え》が始まった。後はリョーマのしなきゃならないことはないよ。オレが、この手を離せばいいだけ』
「ソウマ…」
揺れる瞳でソウマを見つめていたリョーマが、言葉を発しようと唇を開いた途端、列の後ろから警官たちが現れて、辺りは騒然となった。
ソウマは少し緊張しているのか、ふうっと大きく溜息を吐く。
『リョーマ。もしかしたら、もう一人のリョーマが生まれる時、少し息苦しいかもしれない。でも堪えて。大丈夫だから』
「うん」
少しくらい息苦しくても、そんなことはちっとも苦痛ではないと、リョーマは思う。
手塚と離れていた時間を思えば、そして、手塚をあんなにも悲しませたことを思えば、どんな苦しみだってちっぽけなものに思える。
『…オレさ、生まれたての頃はリョーマが羨ましかった。オレも人間になってみたかったなって、思っていたから』
「え…」
小さく目を見開いて、リョーマは傍らのソウマを見つめた。
『だけど、龍影と出逢って……オレに龍影がいるように、リョーマには手塚がいるって思ったら…なんか、オレたちにはそんなに違いはないのかなって、思えてきた』
「……」
ソウマが静かに語る間にも、周りの状況は緊迫感を高めてきている。武装した警官や爆弾処理班らが走り回り始め、列に並んでいた客たちが避難させられ始める。
『大切な人がいて、その大切な人の傍にいられて、一緒に微笑んでいられるだけで、すごく幸せなことなんだよね』
「……うん」
『世界が違っても、どんなに時が流れても、きっとリョーマと手塚は、必ずお互いを見つけることができるよ。……オレは、そう思う…』
ふっと足下に視線を落として小さく微笑んでから、ソウマはゆっくりと顔を上げ、リョーマを見た。
『オレは龍影が好きなんだ。だから、もっといろんなことを覚えて、強くなって、あの人と共にいられるように、もっと頑張ってみる』
「ソウマ……」
『リョーマも、それから手塚も、寿命が来るまでまだまだずいぶん長い時間があるからさ、その時まで…お別れだ』
晴れ晴れしく微笑むソウマの笑顔に、リョーマは大きく目を見開いた。
あの瞬間が、すぐそこまで来ている。
『バイバイ、リョーマ。幸せになれよ…』
ソウマの手がゆっくりとリョーマの腕から離れてゆく。
「ソウマ…っ、ありがとう!」
叫ぶリョーマに、ソウマがニッコリと微笑んでくれた。その笑顔が揺らめき、だんだんと周りの風景に滲んでゆく。
「ソウマ……」
記憶は、すぐになくなりはしなかった。
だが、どこか意識に薄い膜が張られているような、奇妙な感覚がある。
そのリョーマの視界に、観覧車乗り場に佇むソウマの姿が目に入った。
(あ……ソウマがいる……なんで、あんなところに……)
「ねえ……あんなところにいて大丈夫なのかな…」
自分の口が、傍らの手塚に向かって勝手にそんなことを口走った。
「あんなところ?向こうに誰かいるのか?」
「?見えないの?乗り場のところに、オレとそっくりな………あれ?」
自分の身体が勝手に動く。手塚を見上げ、もう一度乗り場の方を見遣って、目を見張るのだ。
(あれ、このシーン、どこかで……)
記憶が、だんだん曖昧になってゆく。
(あれは、誰だった?オレに似た…)
「越前?」
「もしかしたら、観覧車に乗っちゃったのかも!」
勝手に動く口が話す内容に手塚が目を見開き、警官を呼び止めた。
「すみません、もしかしたら、誰かが観覧車に乗り込んでしまったかもしれません」
「え?本当ですか?」
「連れが人影を見たらしいのです。越前、詳しく話せ」
リョーマの身体はやはり勝手に頷いて前に進み出る。
「オレとそっくりなヤツがあそこに立っていたんですけど、目を離した隙にいなくなっていて、どこにもいないから、もしかしたら乗っちゃったんじゃないかって…」
「わかりました。君たちはここに居なさい!」
そう言って走ってゆく警察官を見送るリョーマの耳に、小さく、声を潜めて嗤うような耳障りな声が聞こえた。
「バーカ。もうすぐ爆発するんだから、今から行ったって間にあわねぇよ」
「!!!」
リョーマの身体がビクリと撥ねた。
(振り向いちゃいけない)
誰かが頭の中でそっと語りかけてきた気がした。
すると、リョーマの身体が、後ろに引っ張られていくような感覚があった。驚いて足下に視線を落とすと、だが、自分の身体は立っている位置から少しも動いてはいなかった。
なおも引っ張られるような感覚に、ぐっと足を踏みしめて堪えていると、なぜか息苦しさを感じ始めた。
『部長、後ろの太った男、捕まえておいて。犯人みたいだよ』
どこか遠いところで、自分の声が聞こえる。
そうして今度は強く前に引っ張られるような感覚があった。だがやはり、自分の身体は動いていない。
(あれ…?)
リョーマはぱちぱちと瞬きをした。
自分の身体からうっすらとした影が離れてゆくのが見える。
『越前!』
遠くで手塚が自分の名を叫ぶ。
『そっちに行っちゃダメだ!爆弾は時限爆弾なんだ!』
叫びながら走ってゆく自分の後ろ姿が見えた、気がした。だがその後ろ姿は、まばゆい光の中へと溶け込んでゆく。
(この光……前にどこかで…見た…?)
眩しい光の中で、リョーマはふと、観覧車を見上げた。
(え………?)
観覧車のひとつに、自分とよく似た人影を見つけた。
だが、自分とはどこかが違う。
(何が違うんだろう……)
さらに強まってゆく光の中で目を凝らすと、その観覧車の中の人影の傍に、もう一人誰かがいるのが見えた。
(あれは……国光……)
一瞬、リョーマの頭の中を大量の映像が駆け抜けていった。
今よりも少し髪の短い、大人びた不二の笑顔。
雨の中に佇む手塚の姿。
自分とよく似た、薄い髪色の少年の真剣な瞳。
車のハンドルを握る手塚の横顔。
そして光の中で自分に向かって微笑み、手を振る手塚と不二の姿……
(これは、………なに…?)
観覧車の中の『自分』が、傍らの人物と、楽しげに微笑み合っている。
それは、少し大人びて見える自分と、穏やかに微笑む、大人の男の空気を纏った手塚。
(ちゃんと逢えたから、もう大丈夫)
誰かがそっと耳元で、そう囁いたようにリョーマは感じた。
(そうか……もう、大丈夫なんだ……全部……大丈夫……)
「どうした越前?」
「え?」
覗き込んでくる手塚の瞳が心配そうに揺れている。
「こんなことは滅多にないことだからな……だが大丈夫だ。俺がいる」
「あ……うん」
長い長い、夢から冷めたような心地がした。
ボンヤリと手塚を見つめていると、手塚もリョーマを見つめ返し、ふわりと微笑んでくれた。
「……おかしいな。もう時間なのに、なんで爆発しないんだ……っ」
リョーマの後ろで、少し焦ったような男の声がした。
その声は手塚の耳にも届いたらしく、不審そうに振り返る手塚の視線を逃れるように、その声の主は舌打ちをしてその場から離れていった。
「すみません、あの男が今妙なことを言っていたのですが」
すかさず手塚が近くの警官に、今さっき聴いた不穏な言葉を伝えた。
「…わかりました。ありがとう」
警官は手塚に礼を言ってから、立ち去ろうとする男の方へ歩いていった。
「君、ちょっと待ちなさい」
警官に呼び止められて、男はいきなり全力で走り出した。
「待て!」
追いかけながら警官は無線で連絡をし、何人かの警官たちがその男のあとを追っていった。それから少しして、小さな破裂音が聞こえた。
その捕り物騒ぎに人々はもちろん気づき、ざわざわと会話が飛び交う。
「今の音、なんだろう?」
「何かが破裂したような……ピストルの音とも違うしな…」
その時、リョーマと手塚の傍にいた警官の無線が鳴り、近くにいた人々は皆その無線の声に耳を傾けた。
『こちら星野、他数名。容疑者確保。えー、自ら携帯していた手榴弾のようなものが暴発して、右手を軽く負傷した模様。念のため救急車の手配頼む。繰り返します、容疑者確保。どうぞ』
辺りにどよめきが起こった。
「さっきのあの男が犯人だったんだ」
「そのようだな」
目を見開いて男の走り去った方を見つめるリョーマに、手塚は苦笑した。
「手を離さなくてよかったようだ。お前も飛び出して追いかけていくのではないかと、少し心配になったぞ」
「そんな無謀なコトしないっスよ」
クスッと手塚に笑われて、リョーマはプクリと頬を膨らませた。
「申し訳ありませんが、本日は緊急事態のためここを完全閉鎖させて頂きます。係の者の指示に従って、混乱のないよう、正面ゲートよりお帰りください」
水族館の職員も数名出てきて慌てた様子で誘導を始めた。
「今日は帰るしかなさそうだな、越前」
「ういっス」
あーあ、と残念そうに溜息を吐くリョーマに、手塚はそっと視線を向けた。
「………うちに来るか?」
「え…?」
繋いでいる手塚の手から、少しずつ早くなる手塚の鼓動を、リョーマは感じた気がした。
そうしてリョーマは、先程自分がレストランで考えていたことを手塚に告げるチャンスが来たのだと、そう思った。
ちゃんと決意を固めて観覧車の中で言おうと決めたのはついさっきのことなのに、なぜだかもうずいぶん前からその決意をしていたような気がする。
黙り込んでしまったリョーマに、手塚は小さく微笑んだ。
「いや、もう少し近くで遊んでいくか。その方が…」
「行くよ。アンタの家。すぐ行きたい……行っても…いい?」
手塚が驚いたようにリョーマを凝視した。
「越前…?」
リョーマはさっと頬を赤らめると、慌てて俯いた。
「も、……もう、待たなくていいから。その……オレ……」
リョーマの手を握る手塚の手に、ぐっと力がこもった。
「…焦らなくていいんだぞ?俺はいつまででも…」
「ダメだよ、約束なんだから!」
「約束?」
「え?」
自分で口走った言葉に、リョーマは驚いて目を丸くした。
「ぁ、その、自分で決めたことだから……っていう意味っス」
適当に誤魔化してみたが、「約束」という言葉は、確かにリョーマの心の中に存在している。その「約束」を、誰と、いつ、どんな言葉で交わしたのかは思い出せないが、リョーマにとってはひどく大切な「約束」のような気がした。
「………」
手塚は食い入るような瞳でリョーマを見つめる。
その視線を感じ、俯いていたリョーマも、グイッと顔を上げて手塚を見つめ返した。
ゾロゾロと正面ゲートに向けて歩いてゆく人の流れの横で、二人は時を止めたようにじっと見つめ合った。
「焦っているとかじゃないっス」
静かな声で、リョーマは言った。
「オレは、アンタのことがすごく好きだ。アンタの傍にいると、すごく嬉しくて、楽しくて、……幸せだなって、思うんス」
「越前……」
「オレがどんなに幸せを感じているか、アンタに教えたい。そして、アンタにも、幸せを感じてほしいんス」
手塚の瞳がふっと和らいだ。
「俺も幸せだと思っている。お前と出逢えて、お前と分かり合えて、想いを通わせている今を」
リョーマの瞳が嬉しそうに輝く。
「俺が幸せだと感じる想いをお前に伝えたい。そして、それを伝えることで得るお前の喜びを、また俺に伝えて欲しいと思う」
こくりと、小さくリョーマが頷いた。
手塚が、そっと目を伏せて柔らかく微笑む。
「不思議だな……正直言って、ついさっきまでは、お前とこうなって、本当によかったのかと考え込みそうになっていた。お前も、時折迷っているように見えたんだ。なのに、あの観覧車を待っている間に……お前の瞳から、迷いが完全に消えた気がする」
リョーマは目を見開いた。
「だから、俺も、自分の想いに、何も疑うところはなくなった」
「………部長…」
「キザだと言うかもしれんが…」
そう断ってから、手塚は改めてリョーマを真っ直ぐに見つめた。
「たとえいつの時代に生まれたとしても、どの世界に生きるとしても、きっとお前だけが、俺の生きる意味になるように思う」
「!」
リョーマの身体が大きく揺れた。
手塚の言葉に、心の奥の大切な部分が激しく揺さぶられたのだ。
「例えどんなに離れて生きることになっても、俺は必ずお前の元に還ってゆくだろう。そしてこの心は、どんな時も、お前と共に在りたいと、思う」
じわりと、熱い塊がリョーマの胸に込み上げてきた。
他の誰かがそんな言葉を言ったなら、それは一笑に付して終わるかもしれない。
なのに、手塚の唇から発せられた言葉は、重く熱く深く、リョーマの心の一番奥に、するりと入り込んできた。
「………ホンッと、………キザだね」
そう言いながら微笑むリョーマの睫毛に、光る粒が弾けた。
「…帰ろう」
「ういっス」
手塚にぐっと手を握られて、リョーマもギュッと握り返した。
見上げれば、そこにはリョーマの大好きな手塚の笑顔がある。嬉しくて嬉しくて、リョーマは泣きたいほど心が熱くなった。
これから生きていく上で、きっと様々なことが二人に降りかかってくるのだろう。
だが、互いが互いの、唯一の還るべき場所ならば、何も恐れることなどない。
手塚が、普通に握りあっていた手をそっと解き、しっかりと指を絡み合わせて握り込んできた。
指の一本一本まで手塚に包まれているようで、リョーマの鼓動が加速してゆく。
「いい天気っスね」
「ああ」
二人はゲートに向かって歩きながら空を見上げた。


青く澄み渡った空には、雲ひとつない。
それはまるで二人の心そのもののように、どこまでも限りなく、透明に広がっていた。









                            



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20050322