  人魚姫
  
  
      
  手塚がはしごを登り切り、壁の向こうへ身を乗り出して下を覗き込むと、小さめのセーフティマットの横に立つ不二がひらひらと手を振っていた。 
      不二に頷いてから辺りを見回し、特に危険がないと判断すると、振り返ってリョーマに声をかける。 
      「いいぞ。登ってこい」 
      「ういっス」 
      リョーマがリズミカルな音を立てて登ってくるのを見てから、手塚は壁を乗り越えて反対側のはしごを下り始めた。 
      「気をつけて、手塚」 
      「ああ」 
      床まであと1メートルほどになったところで、手塚はセーフティマットに飛び降りた。 
      「何か、あの男の気配のようなものはするか?」 
      「いや、まだこっちの方まで来てないんじゃないかな」 
      「…そうか」 
      手塚は小さく溜息を吐くと、リョーマの方を見遣った。 
      「大丈夫か?」 
      「なんとか」 
      慎重に壁を乗り越えて降りてくるリョーマに、手塚は手を差し伸べる。 
      「気をつけろ」 
      「ういっス」 
      そう返事をして、リョーマは手塚がしたようにはしごの途中から飛び降りた。 
      「わっ」 
      セーフティマットが沈み込んでバランスを崩し、思わずリョーマは手を差し伸べてくれていた手塚の腕に縋りついた。しっかりと力強く身体を支えてもらい、リョーマはちょっと恥ずかしそうに手塚を見上げる。 
      「……すみません」 
      「いや」 
      リョーマが無事にセーフティマットから降りると、手塚は思い出したように不二を見た。 
      「…すまない。余計なことをした」 
      「え?何が?」 
      「………いや」 
      怪訝な顔で首を傾げる不二を、手塚は一瞬じっと見つめてから、視線を辺りに流した。 
      しんと静まりかえるステージ裏の通路には、物音ひとつしない。 
      ショーの公演中以外はあまり使われることのなさそうなこの通路は、あまり広い通路だとはいえない。そのため大道具のような大きなものは置いていないが、何役もこなす脇役の役者の使うものだろうか、パイプハンガーに吊された衣装が何カ所かに置いてあった。 
      「あの男はこっちに向かったのだろうか」 
      「…どうだろうね。でもこの通路はステージに沿うようにぐるりと繋がっていそうだから、動かずにこの辺に隠れていれば、歩いてくるかもしれないよ」 
      「隠れると言っても……」 
      手塚は前後の通路に目をやってから小さく溜息をついた。 
      「隠れられそうなところ、ないっスね」 
      リョーマが手塚の言葉を継いで溜息をつく。 
      「でも、その箱の横とか…」 
      そういって不二はリョーマの後ろの方にある大きな段ボール箱を指さした。 
      「ああ、これなら、オレは入れそう。周助サンも、後ろの箱なんかいけそうっスよ?」 
      「そうだね」 
      不二がクスッと笑って、自分の後ろにある箱に歩み寄った、その時、箱が、動いた。 
      「うわっ!」 
      「不二!」 
      「先輩ッ!」 
      箱を放り出すようにして現れたのは、例の、爆弾魔だった。 
      「あれ?間違えて捕まえちゃった」 
      小太りの男は、細い目をさらにいやらしげに細めてニヤリと嗤った。 
      「そこのガキと、このお兄さん、交換してあげるけど、どうする?」 
      男は嗤いながら、捩り上げた不二の腕をさらにグイッと絞り込んだ。 
      「痛っ」 
      「先輩ッ!」 
      「待て!」 
      リョーマが身を乗り出すのを手塚が制した。 
      「でもっ!」 
      手塚に制止されたことが納得できないかのようにきつい瞳で見上げてくるリョーマを、手塚も強い瞳で見つめ返した。 
      「熱くなるな。お前の悪い癖だ」 
      「……っ」 
      その手塚の一言で、リョーマはハッとしたように口を噤んだ。 
      手塚はそんなリョーマを見て小さく頷くと、リョーマを背に庇いながら男に向き直った。 
      「この子をどうするつもりなんだ」 
      「どうって、そんなの、決まってんだろ?」 
      男はまたいやらしく嗤う。 
      「…ならば、この子を渡さなかったら、不二をどうするつもりなんだ?」 
      「………そうだねぇ……コイツで今すぐ、吹っ飛ばしちゃおうかなぁ」 
      そう言いながら男は自分のポケットから小さな箱のようなものを取り出した。 
      「これね、俺が作ったんだ。まだ未完成品なんだけど、一応手榴弾だよ」 
      「!」 
      手塚とリョーマは男の持つものを見て青ざめた。 
      「この信管を抜くと5秒で爆発するんだ。小さいけど、半径10メートルくらいは軽く吹っ飛ばせるよ」 
      「二人とも、僕のことはいいから逃げて」 
      「バカを言うな、不二!」 
      「そうっスよ!逃げられるわけないじゃないっスか、先輩!」 
      手塚とリョーマの言葉に、不二はニッコリと微笑んで首を横に振った。 
      「いいんだよ、その子が助かるなら、僕はどうなっても。手塚、その子を連れて早く行って」 
      「不二……お前……」 
      「そうだよ、僕はその子がとっても大切なんだ。ずっと僕のそばに置いておきたいくらいに。…だから、僕は存在しない方が、その子のためだよ」 
      「何言ってんスか、先輩!」 
      リョーマは手塚を押し退けるように前に出て不二に叫んだ。 
      「先輩がいてくれたから、今までオレは頑張れたのに!何でそんなこと言うんスか!」 
      「………僕は、『人魚姫』と同じだから」 
      「え…?」 
      目を見開くリョーマの後ろで、手塚はきつく眉を寄せた。 
      「本当はね、キミが現れることは前の晩から知っていたんだ。夢の中で、誰かにキミが現れるって言われてね」 
      「夢…?…知ってた……って…」 
      「その夢の中で言われたんだよ。もしもキミが、一緒にいる間に僕のことを好きになってくれたら、僕の想いは成就するって。でももしキミが僕を好きになってくれなかったら………」 
      「そんな…」 
      リョーマはフラフラと不二の方へ歩き出した。 
      眉を寄せて不二を見つめていた手塚は、リョーマを止めるのが一瞬遅れた。 
      「…待てッ!リョー…」 
      気づいて、手塚が手を伸ばした時にはもう遅かった。 
      リョーマは、捕まえられているはずの不二の手によって、捉えられていたのだ。 
      「先輩!?」 
      「捕まえた」 
      不二にきつく両手を掴まれて引き寄せられ、リョーマは何が起こったのか、瞬間、理解できなかった。 
      「な、に……?」 
      「人の話は最後まで聴かないとね、越前」 
      「え…?」 
      リョーマの大きな瞳を覗き込んでニッコリと笑う不二の笑顔に、リョーマは戦慄を覚える。 
      「…やはり、その男と手を組んでいたのか、不二」 
      「あれ?知っていたような口ぶりだね、手塚」 
      「いや、知らなかったさ。さっき、その子の…いや、越前の口から、お前のコロンの話を聴くまでは、な」 
      不二は微笑みを消してふと眉を顰めた。 
      「コロン?」 
      リョーマは、手塚に「越前」と呼ばれたことに驚愕し、動揺している。そのリョーマに、不二は優しく問いかけた。 
      「手塚になんて言ったの?越前」 
      「………花の…香りがするって……」 
      「花の香り?」 
      訝しげに眉を寄せた不二は、しかし次の瞬間、ハッとして手塚を見た。 
      「その香りは『薔薇』じゃないのか?不二」 
      「………」 
      不二はリョーマを腕の中に閉じこめるように抱き締めると、手塚にきつい視線を向けた。 
      「それだけで僕を不審に思う辺り、さすが手塚だね。そう、僕から花の香りがするとすれば、たぶん薔薇だろうね。あの見事な薔薇の中に、しばらくいたから」 
      「………」 
      手塚は黙って不二を見据える。 
      「薔薇の中にいたって……あ、あの花壇?…でも、どうして……」 
      「キミたちがちゃんとこの建物に目星をつけて向かうか、監視していたんだ。もし全然気づかないようなら僕が姿を現して、ここに来るように誘導する予定だった」 
      見上げてくるリョーマに優しく微笑みかけながら、どこか楽しげに不二は言った。 
      「ちゃんとここに向かってくれたから、僕もキミたちの後ろからここに向かったんだよ」 
      「え、でも、オレたちが入ったところしか出入り口はないって……」 
      「ああ、そんなこと言ったっけ?要塞じゃあるまいし、そんなわけないでしょう?」 
      クスクスと笑い続ける不二に、リョーマはだんだんと落ち着きを取り戻した。 
      「…騙してたってことっスか、不二先輩」 
      「今も騙しているかもよ?」 
      グッと、リョーマの瞳に強い光が宿った。 
      「放せ!」 
      「放さないよ」 
      「くっそぉ!」 
      不二の腕の中で藻掻くリョーマを、不二は何でもない顔で完璧に押さえ込んでいた。 
      「本当は僕、毎日トレーニングを続けていたんだ。だから、子どものキミじゃ、僕の力には敵わないよ」 
      手塚がリョーマを助けようと足を踏み出した途端、不二は手塚に冷たく鋭い瞳を向ける。 
      「動かないで、手塚。動いたら、越前と一緒に死ぬから」 
      「不二……っ」 
      ギリッと、手塚は唇を噛んだ。 
      「そうそう、さっき言いかけていた言葉、続きを聴きたいだろう?越前」 
      「え…?」 
      剣呑な瞳で見上げてくるリョーマに、不二はいつものように微笑みかける。 
      「もしもキミが僕のことを好きになってくれたら僕の想いは成就する。でももしキミが僕を好きになってくれなかったら、の続き」 
      リョーマはありったけの力を瞳に込めて不二を睨んだ。 
      「キミがどうしても手塚のことを忘れられずに、僕のことを好きになってくれないのなら、手塚を消してしまえばいいんだって、教えてもらったんだ」 
      「!」 
      「確かにそうなんだよね。そうすれば、僕がキミの中で一番になれるし、キミの過去は直接ここと繋がって、ひとつの世界になる。完全に、キミは僕のものになるんだ」 
      信じられないものを見るような目で、リョーマは不二を見つめた。 
      これが、本当に、あの不二なんだろうか。 
      確かに、中学時代からどこか他の人間とは違う、つかめない部分を持っていたことは認める。あの乾ですら、この男のデータが取れないと嘆いていたほどだ。 
      だが、人間的には、どこかねじ曲がった男というわけではなかった。弟を大切にし、弟のために怒り、肉親だけでなく、友人もとても大切にする男だったはずだ。自分のことで怒らなくとも、他人のことで本気で怒れるほど、思いやりの深い男だったはずだ。 
      「アンタ………本当に、不二先輩?」 
      カルピンのこともある。もしかしたらこの不二は、例の親玉が化けているだけなのではないかと、リョーマは思った。いや、思いたかった。 
      「うん。僕は本物の不二周助だけど?」 
      「嘘だ」 
      「まあ、本物かどうかは、あとでじっくり確かめればいいでしょ?そのためにも、邪魔なものは片づけておかないとね」 
      不二の柔らかな視線が手塚を捉え、鋭く冷たい凶器のような瞳に変わる。 
      「…待たせたね、さあ、手塚を吹っ飛ばしてもらおうか」 
      「逃げろ、部長!」 
      「やっと出番が来たね。待ちくたびれたよ」 
      男はニヤリと嗤いながら手榴弾の信管を抜こうと指をかけた。 
      『そうはさせないんだよ!』 
      「おあっ?」 
      男の身体が硬直した。 
      リョーマが男の変化に驚いて背後を見ると、ソウマが立っていた。 
      「ソウマ!」 
      『遅くなってすまない、リョーマ。もうコイツは捕まえたから、大丈夫……っ?』 
      だが言葉の途中で、ソウマは妙な顔をした。 
      「ソウマ?」 
      『何だ、この感じ……力が、思うように出せない……』 
      リョーマの目の前で、ソウマの表情がどんどん苦痛に歪み、やがてその場に崩れるようにソウマは倒れてしまった。 
      「ソウマ!」 
      手塚を睨んだままだった不二が、チラッと背後に視線を流した。 
      「あなたが『親玉』さんですね?」 
      ソウマの上で、空間が奇妙にねじ曲がった。 
      『ハジメマシテ、不二クン。オ目ニカカレテ光栄デスヨ』 
      「僕も。なんてお礼を言えばいいのか…」 
      それは人の形をした、得体の知れない『黒い物体』だった。形は人を成してはいるものの、まるでよどんだ空気がひとつの場所に固められたようにゆらゆらと揺らめき、表情も何もない。 
      ただ、瞳に当たる部分だけが、うっすらと赤い光を放っていて、それがギロリとリョーマに向けられると、リョーマは微かにビクリと身体を揺らした。 
      『サア、不二クン、仕上ゲヲシマショウカ。ホラキミ、手塚ヲ、吹キ飛バシナサイ』 
      「はい、じゃああの手塚とか言うヤツ、動けないようにしておいてくださいねぇ」 
      「部長!」 
      リョーマが大きく目を見開いて、あらん限りの声で叫んだ。 
      「逃げろってば、国光っ!!!」 
      「く…っ」 
      手塚の身体は金縛りにあったように動かなかった。 
      「リョーマ……っ」 
      「国光!」 
      男が、笑みを浮かべながら、信管を引き抜いた。 
      「1…2の…3っ」 
      カウントをとって、男の手から手榴弾が手塚に投げつけられた。 
      見開くリョーマの目に、手榴弾がスローモーションのように手塚に向かって飛んでいくのが映った。 
      「大丈夫だよ」 
      「…え」 
      リョーマの耳元で不二の言葉が幻聴のように聞こえた。思わず瞬きをしたリョーマの瞳から涙が弾ける。 
      『ナ、ナンダ?』 
      「あれ?」 
      そこにいた全員が、いや、倒れているソウマと不二以外の全員が目を見張った。 
      手塚に向かって投げつけられた手榴弾が、手塚の1メートルほど手前で宙に浮いたままピタリと動きを止めたのだ。 
      『バーカ、《あの人》が手榴弾の時間を止めたんだよ』 
      「ソウマ!?」 
      倒れたはずのソウマがいつの間にか起きあがり、爆弾魔を光る糸でがんじがらめにしていた。 
      『オ前、ナゼ?、私ハマダ拘束ヲ解イテイナイ…』 
      『誰が誰を拘束したって?アンタ、自分の欲のせいで身体だけじゃなくて、ノーミソも形なくなっちゃったんじゃないの?』 
      『バカナ…!』 
      驚いて硬直してしまったリョーマを、不二がそっと解放した。 
      「不二先輩……?」 
      「ごめんね、痛かった?」 
      呆然と見上げてくるリョーマに、不二はいつもの微笑みに少しだけ困ったような色を添えて、その顔に浮かべていた。 
      「ごめんね、全部ソウマくんと打ち合わせ済みなんだ。…手塚も大丈夫?」 
      「……ああ」 
      未だに眉をきつく寄せながら、それでも手塚は不二に頷いて見せた。 
      「あ…」 
      その手塚の瞳が、自分の斜め前辺りに固定され、驚いたように見開かれている。 
      「部長?」 
      「君は、誰だ?」 
      手塚はその空間に向かって声をかけている。だが答えはもらえなかったようで、手塚の瞳は、『それ』を凝視したまま、ソウマの方へ移動した。 
      『キ、キサマカ……ッ』 
      人の形を成していた黒い物体が、ある一点に吸い込まれるように、徐々に消えてゆく。 
      「ソ、ソウマッ!どうなってんの?これ」 
      『ん?ああ、リョーマには見えないんだね。《あの人》が親玉を捕獲してるんだよ』 
      「捕獲?」 
      ソウマは爆弾魔と繋がる光る糸を自分の腕に巻き付けながら、リョーマに微笑んだ。 
      『これくらいのね、小さいクリスタルの中に魂を閉じ込めるんだ』 
      これくらい、と言ってソウマは親指と人差し指で7〜8センチの大きさを示した。 
      『コイツいろいろな空間を渡り歩くし、狡賢いし結構すばしっこいからなかなか捕まえられなかったんだけど、油断しているところを狙えば捕まえるのは簡単なんだ。元々は弱っちいヤツだから』 
      そんな会話の間にも、黒い物体はどんどん吸い込まれていく。 
      『ウアァァァ…』 
      そうしてついに、耳障りな断末魔と共に、黒い物体は一箇所に吸い込まれて跡形もなく消え失せた。 
      辺りが何事もなかったかのように静まりかえる。 
      「その男は吸い込まないの?」 
      リョーマが爆弾魔を指さすと、ソウマは『うん』と頷いた。 
      『コイツには、まだやってもらわなきゃならないことがある。だから、リョーマと一緒に、あの瞬間に連れて行くよ』 
      「あ……でも……」 
      ふと、表情を曇らせるリョーマに、ソウマは怪訝そうな瞳を向ける。 
      『どうかした?』 
      「部長に……オレがリョーマだって、バレた……から……もう戻れないんじゃ……」 
      『あー……そのことか…』 
      溜息を吐くソウマに、リョーマは縋るような瞳を向けた。不二も傍らで、ソウマのいる方を見つめている。 
      『そんな目しなくたって大丈夫だよ。ちゃんと帰れるから』 
      「え?でも…」 
      『詳しいことはあとで説明するからさ。心配しなくていいよ、リョーマ。それにしてもアンタの先輩、すっごい演技力だね。途中本気でヤバイかと思った』 
      心底恐れ入ったというようなソウマの声音に、リョーマは視線を不二に向けた。 
      「先輩……何が本当で、何が嘘なんスか?」 
      「それは俺も聴く権利があるな」 
      手塚がいつの間にかリョーマの傍に来ていた。 
      リョーマと手塚から、恨みがましい視線を浴びて、不二は降参したように両手を上げた。 
      「夢で越前が僕の前に現れると言われたのは本当。越前が僕を好きにならなかったら手塚を消しちゃえばいいって言われたのもね」 
      「………」 
      目を見開くリョーマに、不二は寂しげに微笑む。 
      「でもまさか本当にキミが現れるとは思っていなかったから、驚いたのも、本当」 
      「不二先輩……」 
      「それからしばらくはあの『親玉』からのコンタクトはなかったんだけど、三日後にソウマくんがそこの上司さんと合流するって言うのをどこかで聞いて焦ったらしくて、またコンタクトとってきたんだ」 
      「え?どうやって?」 
      身を乗り出すリョーマに、不二はまた笑った。 
      「夢で、あの声だけが響いてきた。そこで今日の段取りを決めたんだよ」 
      「夢で?声だけ?……ぁ、だから、初めましてって?」 
      不二は「うん」と言って頷いてから、手塚を見た。 
      「手塚に向けた殺意は嘘。越前のことは好きだけど、その好きな人が誰を一番好きか、僕はわかっているつもりだったから」 
      「不二…」 
      「手塚を抹殺しても、越前の心は手に入らないのはわかっているし。そんなコトするより、手塚の傍で幸せそうに笑う越前の笑顔を見ている方が、僕は嬉しいよ」 
      不二にニッコリと微笑まれてリョーマは項垂れた。 
      自分と手塚のことばかりに気をとられていて、不二の想いには全く気がつかなかった。一番近くにいて力を貸してくれていたのに、ひどくないがしろにしたようで、申し訳なさが込み上げてくる。 
      「でも、演技するのはちょっと楽しかったかな。手塚のこと思いっきり睨んでみたり。ああ、ソウマくんとの打ち合わせはやっぱり夢の中でしたんだよ。あの親玉に気取られないようにするのは大変だったみたいだけど。夢って、やっぱり不思議な空間だね」 
      クスクスと笑う不二に、リョーマは視線を戻した。 
      「……不二先輩だったら、あっちの大舞台で芝居してもいけるんじゃないっスか?度胸ありそうだし」 
      「うん、気持ちいいだろうね」 
      そう言ってまた笑っていた不二が、ふと、笑みを消した。 
      「そういえば、この空間、なんでこのまま維持しているの?『親玉』はもう力をなくしたんじゃ…?」 
      『ああ、それは、《この人》が空間を支えているからだよ』 
      《この人》と言ってソウマは自分の背後を指さした。だがリョーマには何も見えない。 
      「そうか…だからソウマくんの声も聞こえるままなんだね」 
      「え?ソウマの声が聞こえるんスか?」 
      「うん。越前も『親玉』の声聞こえていたでしょう?手塚にも聞こえているはずだよ。それに、その上司さんの姿も見えているよね?」 
      「……上司?ああ、その黒い……?」 
      「え?どこ?」 
      手塚の視線を辿ってみるが、リョーマには何も見えない。だがリョーマがキョロキョロとしていると、ふわりと心地いい声が響いてきた。 
      『今回は皆さんにいろいろご迷惑をおかけしたようで申し訳ない。ソウマの上の者として謝罪させて頂く。本当に、申し訳ない』 
      (この声……似てる……?) 
      呆然としたように目を見開くリョーマに、ソウマは小さく微笑んだ。 
      『リョーマ、もう行こうか?』 
      「え?明日なんじゃないの?」 
      『それは親玉をおびき出す口実。リョーマの、本当の時間を取り戻しに、行こうよ』 
      「ソウマ……うん、行こう!」 
      瞳を輝かせて頷いてから、リョーマはふと、傍らに立つ手塚を見上げた。 
      「……もうバレちゃったからいいよね、国光。アンタの元には、ちゃんとこの世界の越前リョーマが戻ってくるから、待っていて」 
      「リョーマ…」 
      手塚は複雑な想いに瞳を揺らめかせた。 
      「いつからわかってた?もしかして最初から?」 
      「いや。最初は本当に、ただ似ているだけかと……だが、あの夢の中でお前が言った言葉で、もしやと、思った」 
      「オレの言葉?」 
      手塚は頷いて、表情を和らげる。 
      「夢の中のお前は、俺があの高架下のコートに、『いつも昼頃に行く』ということを知っていた」 
      「あ…」 
      「そのあともいろいろさりげなくカマをかけてみると、あっさりと乗ってきたからな」 
      「…ふーん、そーゆーことしてたんだ」 
      上目遣いに見つめてくるリョーマに、手塚は苦笑した。 
      「だが、お前は不二と一緒になって必死に隠そうとしていたろう?だから、たぶん、俺に話してはいけない事情があるのだろうと思った。だから、何も訊かなかった」 
      「それは……不二先輩以外に話したら、この世界から出られなくなるっていわれていたから…」 
      「もういいんだ。リョーマが、また俺の元に戻ってきてくれるのなら、俺はそれだけでいい」 
      「国光……」 
      リョーマは大きな瞳を揺らしながら、暫し手塚を見つめた。そうして、ふと、思いついたように、瞳に光を宿す。 
      「国光。今度の日曜日、1時24分に、あの観覧車のところに行ってみて。そこで、この世界の越前リョーマはアンタと再会できる気がする」 
      「あの、観覧車へ…?」 
      手塚の顔が微かに歪む。だが、そっと目を閉じた手塚が再び目を開けた時には、その迷いは消え去っていた。 
      「わかった。日曜の、1時24分、だな。観覧車乗り場で待っていればいいのか?」 
      「うん。ソウマ、できるよね?」 
      『オフコース。ノープロブレム』 
      視線を向けて確認してくるリョーマに、ソウマは微笑みながらそう言った。 
      「何?その発音。外見はオレとそっくりなくせに、発音はまだまだだね」 
      『うるさいな。オレはアメリカで育ってないんだから仕方ないだろ?』 
      「え?」 
      『もう行くよ、リョーマ』 
      はぐらかされたように感じながらも、リョーマは頷いていた。 
      「じゃあ、もう行くよ、国光。それから不二先輩。また、すぐ逢えるけど」 
      「ああ」 
      「そうだね、また逢えるね、越前」 
      不二が、いつもの微笑みを崩して俯いた。 
      「楽しかったよ。キミは、大変だったろうけど……僕は、楽しかった」 
      「不二先輩…」 
      「幸せになるんだよ、越前。キミの世界の手塚と」 
      「ういっス!」 
      不二に微笑みかけてから、リョーマは手塚に向き直った。 
      「国光、約束、覚えてる?」 
      「約束?」 
      「オレが戻ったら、オレのこと……」 
      頬を染めるリョーマを見つめて、手塚も仄かに頬を染めた。 
      「ああ、覚えている。忘れるはずがないだろう?」 
      「もう、待たせないから」 
      手塚は微笑んでリョーマを優しく抱き締めた。 
      「…ありがとう、リョーマ。いつの時代でも、どの世界でも、きっとお前だけが、俺の生きる意味になる。そのことを、忘れないでくれ」 
      「うん……国光、大好きだよ……」 
      ギュッと抱き締め返してくるリョーマの身体をそっと離して、手塚はリョーマの額に口づけた。 
      「その唇は、お前の世界の俺のために、もう触れないでおく。元気で、リョーマ」 
      「ありがとう、国光。この世界のオレによろしく」 
      『じゃ、さよなら、不二先輩、それから、この世界の手塚サン。このリョーマのことは、任せて』 
      ソウマの声に、手塚と不二は深く頷いた。 
      『ソウマ、リョーマくんと二人で先に行っていてくれ。後始末をしてから、俺もこの男を連れてすぐ行く。この男の《戒め》を此方へ』 
      ソウマに指示をする聞き慣れた声に、リョーマはその声の主の姿を安易に想像できた。 
      (そうか…ソウマの世界でもあの人は『先輩』なんだ…) 
      『行くよ!リョーマ』 
      「うん」 
      リョーマの視界が、あの爆発の瞬間のようなまばゆい光に包まれ始める。 
      「またね、国光、不二先輩!」 
      頷く手塚と、何か叫んでいる不二の姿が光に溶け込んでいく。 
      『リョーマ、またちょっとの間、息止めていて、行くよ、1、2の3!』 
      リョーマが息を止めるのと同時に、二人の視界は真っ暗な闇に変わった。 
      だが、今度の闇に、リョーマは全く恐怖を感じなかった。 
      むしろ、同じところへ帰れるという安堵感が胸に湧き上がってくる。 
      『あと少しだよ、リョーマ』 
      ソウマの言葉に頷くリョーマの視界に、小さな光が見え始める。 
      深い海の底から外界を目指しているような錯覚に、リョーマは目を細めた。 
      HAPPY-ENDの『人魚姫』がいてもいいのではないかと、そんなことを思いながら。 
      
 
 
 
 
 
  
      続
 
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      20050317
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