  遊園地
   <2> 
      
  翌日も快晴だった。 
      いつも不二が職場へ行くのと同じくらいの時間に起こされたリョーマは、眠そうに目を擦っていたものの、窓から空を見て柔らかく微笑んだ。 
      「いい天気っスね、不二先輩」 
      「うん。日頃の行いがいいんだね、僕たち」 
      二人は顔を見合わせてクスッと笑った。 
      手塚には、昨日のうちに不二が連絡を入れた。 
      どういう答え方をしたのかはわからないが、手塚も二人に同行することを了承したという。 
      (この世界の国光に逢えるのも、今日で最後かな…) 
      リョーマはボンヤリとそんなことを考えながら、窓の向こうの空を眺める。 
      (国光は、オレのこと、何となく気づいたみたいだけど……国光が確信を持ったら、オレはこの世界の人になっちゃうのかな……) 
      そんな不安がふわりとリョーマの胸をよぎった。しかし今のところ自分には何の変化もないし、ソウマからも何か言われることはなかった。 
      (「自分から」全部話さなければ大丈夫、ってことかも) 
      ふぅっと小さく溜息を吐いてから、リョーマはそんな童話があったな、と思い出した。 
      その主人公は秘密を抱えて好きな人の前に現れ、だが自分からは何も話せず、相手が自分の正体に気づいてくれなければ命を落としてしまうというものだった。 
      その童話は… 
      「人魚姫、か……」 
      秘密を隠して、危険と隣り合わせになったとしても好きな人の傍にいたいと願う彼女の想いが、幼い頃リョーマには理解できなかった。 
      だが今ならわかる。 
      この世界の手塚と逢うのは「危険」なのだとしっかりと理解しているのに、それでも自分は「手塚国光」に逢いたいと願ってしまう。 
      だが童話と違うのは、自分はこのまま黙ってこの世界の手塚から離れていかなければならないということだ。 
      「今日で最後……」 
      心残りだとか、未練があるとか、そういう類の感情が自分にあるわけではないと、リョーマは思っている。 
      ただ、この世界の手塚のことが心配なのだ。その想いだけは、取り去ることはできない。 
      例え世界が違っても、「手塚国光」という人間には、幸せでいて欲しい。そうして、傍らには「越前リョーマ」がいて欲しい。 
      拭っても拭ってもにじみ出てくる不安に、リョーマは顔を顰める。 
      (ダメだ、信じなきゃ。絶対に大丈夫だ、って……) 
      「越前、そろそろ支度して」 
      「ぁ、ういっス」 
      不二に声をかけられて、リョーマは明るい顔で振り返った。 
      「お弁当はサンドイッチとおにぎりと、両方作ったから、好きな方を食べてね」 
      「ありがとうございます!」 
      嬉しそうに微笑むリョーマに、不二もまた深い微笑みを向ける。 
      「越前は、僕が護るからね…」 
      リョーマに歩み寄り、不二が笑みを消して静かに言う。 
      「……何が起きても、キミだけは僕が護るから」 
      不二の繊細な指がリョーマの髪を撫でる。リョーマは真っ直ぐな瞳で不二を見上げた。 
      「……ありがとう、不二先輩」 
      「うん」 
      不二も、何かが起きる『予感』がするのかもしれないと、リョーマは思った。
 
 
 
 
  ***
 
 
 
 
  遊園地は電車で一時間弱の、比較的郊外といえる場所にあった。 
      「部長とはどこで待ち合わせたんスか?」 
      「正面のゲート前。ぁ、ほら、もう来てる」 
      不二が軽く手を挙げて見遣る方へ、リョーマも視線を向けた。手塚も此方に気づいたように軽く手を挙げてくれる。 
      (国光…) 
      「…キミと逢うようになってから、手塚はどんどん変わっていくね。いや、元に戻ってきたって言う方が正しいのかな。少し前の手塚だったら、絶対にこんなところには来なかったよ」 
      手塚の元へ歩きながら、不二が感心したように言う。 
      リョーマは頬を染めて、小さく「そっスか」と言っただけで口を噤んだ。 
      この世界の異分子である自分が関わったことで手塚が変わってゆくのは、本来ならばあってはならないことだっただろう。 
      それでも、手塚の荒んだ心を少しでも自分が癒せたのかと思うと、リョーマは嬉しさを隠せない。 
      (でも、明日からは、この世界の『越前リョーマ』が、あの人を癒していくんだ…) 
      真っ直ぐな視線を手塚に向けて歩くリョーマを、不二はチラリと見遣って小さく笑みを浮かべた。
 
 
  「お待たせ」 
      「いや、俺も来たばかりだ。誘ってくれてありがとう、不二」 
      「ううん。たまには気晴らしにどうかなって思ったから」 
      「………おはようございます」 
      不二の少し後ろから遠慮がちに声をかけるリョーマに、手塚は視線を向けて表情を和らげる。 
      「ああ、おはよう。今日はよろしく頼む」 
      「こちらこそ…」 
      仄かに頬を染めてリョーマが微笑むと、手塚もさらに穏やかな目をして頷いた。 
      「じゃあ、まずはもらったチケットをパスポートと引き替えてくるから、待ってて」 
      二人に笑いかけてチケット売り場に向かう不二を見送ってから、リョーマはふと手塚を見上げた。手塚もリョーマを見つめている。 
      「……もう一度、アンタと逢えて嬉しいっス」 
      「ああ、俺もだ。昨日が最後かと思っていた」 
      「オレ、明日……『帰る』、から……」 
      手塚は小さく目を見開いたが、何も言わなかった。何も言わずに、ただ静かに頷いた。 
      「ねえ、アンタの越前リョーマが戻ってきたら、もう一度テニス、やり始めてくれますか?」 
      「え…」 
      「たぶん、アンタの越前リョーマは、アンタとテニス、したがると思うから……」 
      微かに瞳を揺らしながら見上げてくるリョーマを、手塚はじっと見つめた。 
      「………そうだな……アイツが戻ってくるなら、また始めてもいい」 
      静かにそう言って瞳を伏せる手塚に、リョーマは嬉しそうに微笑んだ。 
      「あ、そうだ、アンタの同級生にテニススクールのインストラクターやってる人がいるんでしょ?そこに行ってしごいてもらわないと『越前リョーマ』とは渡り合えないかもしれないっスよ?」 
      そう言ってリョーマが頬を染めながらも上目遣いにクスッと笑うと、手塚は目を見開いてから小さく肩を竦めた。 
      「…考えておこう」 
      心外そうに言う手塚に、リョーマはクスクスと笑った。 
      こんなふうに、この世界の手塚と穏やかに話せることが、リョーマはとてつもなく嬉しかった。 
      「パスポート、引き替えてきたよ」 
      戻ってきた不二がそれぞれに小さなカードを配り、楽しそうに微笑んだ。 
      「じゃあ、行こうか」 
      促す不二に、リョーマと手塚は同時に頷いた。
 
 
  「平日なのに結構人がいるんだね」 
      不二が、すでに列のできている建物を見て呟いた。 
      遊園地というよりは大人も楽しめるテーマパークであるここには、様々な乗り物や、有名な物語や映画を模したアトラクションが多数設置されている。 
      休日ほどではないものの、どのアトラクションの前にもそれなりの列ができており、家族連れやカップルらしき男女が、列に並びながら楽しげに会話も楽しんでいる。 
      「どれから乗りたい?」 
      不二に覗き込まれて、リョーマは辺りをぐるりと見回した。 
      10年前には、まだこのテーマパークは存在していない。 
      リョーマは自分の置かれている状況をほんの少し忘れて瞳を輝かせた。 
      「…じゃあ、アレ」 
      「うん。…いい?手塚」 
      「ああ」 
      確認してくる不二に頷いてから、手塚はふと背後を振り返った。 
      「……どうかしたの?」 
      「いや…」 
      何でもない、と言いながら歩き始める手塚の背後にチラリと視線を投げてから、不二はそっとリョーマの肩に腕を回した。 
      「ふ…周助サン…?」 
      「こうしていないと、キミを護れないから」 
      微笑みながらリョーマにだけ聞こえるように耳元で囁かれて、リョーマはくすぐったそうに肩を竦めた。 
      端から見ればそれは仲の良すぎる兄弟か恋人同士の甘い語らいにしか見えず、手塚はそっと溜息をついて、二人から視線を外す。 
      そんな手塚を見て、リョーマは俯いた。 
      もしも手塚が自分の正体に気づいているなら、この状況をどう思うだろう。こうするのには理由があるのだと、わかってくれているだろうか。 
      「…手塚が気になる?」 
      また耳元に囁かれて、リョーマは不二を見た。 
      「不二先輩、わざとやってないっスか?」 
      「あれ?心外だな」 
      そう言って不二はクスッと笑った。 
      「何かあってもすぐにキミを護れるように傍にいるんだよ」 
      真っ直ぐな瞳で不二にそう言われてしまうと、リョーマには何も言い返せない。 
      「じゃあ、せめて、…手にしてくれませんか?」 
      「手?ああ……」 
      不二は頷いてリョーマの肩から腕を外し、手を握ってきた。ひどく冷たい手をしていた。 
      「不二先輩、寒い?」 
      「ううん。大丈夫だよ」 
      楽しそうに微笑まれて、リョーマは困ったように小さく眉を寄せた。 
      どうも、不二ははしゃぎすぎている気がする。 
      (そんなに楽しいのかな…) 
      「すぐに乗れるといいね」 
      真っ直ぐ前を見つめたまま、不二がリョーマに話しかける。 
      「…うん」 
      曖昧に返事をしてから、リョーマは自分とは反対側の不二の隣を歩く手塚をそっと見遣った。 
      手塚の眉が少し寄せられている。不愉快なのだろうか、とリョーマは微かな不安を覚えた。
 
  だがそんなリョーマの不安も、いくつかアトラクションを乗りこなすうちに手塚の穏やかな表情を度々目にすることで、徐々に薄れていった。 
      このまま何も起こらず、優しい時間が過ぎていくのではないかと、リョーマには思えてきた。
 
  「そろそろお昼にする?」 
      ニッコリと微笑んで提案され、リョーマはコクリと頷く。 
      「園内は飲食物持ち込み禁止だから、一旦外に出ないとね。食事ができる広場に行くゲートはどっちだったかな」 
      「あ、えーと…」 
      不二の言葉にリョーマは入場の際にもらった園内の案内図を拡げた。 
      「今いるのがここだから、……あっちっスね…」 
      そう言いながら右手側に視線を向け、直後、リョーマは大きく目を見開いた。 
      (あれは……っ) 
      リョーマたちからだいぶ離れた建物の近くに、あの小太りの爆弾魔の姿があった。 
      「ふ、不二先輩ッ」 
      手塚には聞こえないように声を潜めて、リョーマが不二の腕を引いた。 
      「どうしたの?」 
      「爆弾魔がいる」 
      「なんだって?」 
      不二が眉をきつく寄せる。 
      「どうしてこの世界に……それより、またどこかを、爆破するつもりなのかも」 
      「そうかもしれないね。その爆弾魔って、どの人?」 
      きつい瞳で、不二がリョーマの示す方へ視線を向ける。 
      「今、ティーカップのゲートを通りすぎるところの、あの…」 
      「ああ…あのベージュのジャケットの男?」 
      「え?あ、はい」 
      不二はその男を睨むように見つめてから、リョーマに自分の荷物を手渡した。 
      「キミは手塚と一緒にゲートを出て広場に行っていて」 
      「先輩は?」 
      「あの男をつけてみる」 
      「危ないっスよ!」 
      つい語調を荒くしてしまったリョーマを、手塚が振り返った。 
      「どうかしたのか?」 
      「あ……いえ…」 
      口籠もるリョーマに、手塚は怪訝そうな瞳を向ける。 
      「僕はちょっとトイレに行くから、手塚、この子と二人で先に広場に行っていてくれないか?」 
      「ああ、わかった」 
      リョーマがグッと不二の腕を掴んだ。 
      不二が、あの時の自分とオーバーラップしてしまう。不二まで自分のような目に遭わせることはできない。 
      「大丈夫だよ。様子を見るだけだから」 
      「でも…っ」 
      「このままあいつを見失うわけにはいかないよ。ほら、あいつ、物色するようにあちこちに視線を向けてる。きっとまだ仕掛けてはいないんだ」 
      「………っ」 
      きつく眉を寄せて見つめてくるリョーマの頬を、不二の冷たい手がそっと撫でた。 
      「あいつがここにいるってことは、あいつを追っているソウマくんも来ているかもしれないだろう?何かあったら彼が何とかしてくれるよ」 
      「あ……」 
      「それに、僕はあいつに顔を知られていないから大丈夫。……でも、心配してくれて嬉しいよ。ありがとう、越前」 
      不二がそっと、リョーマの額に口づける。 
      「先輩……」 
      「何かあったら手塚の携帯に連絡入れるから。じゃ、あとで」 
      そう言い残して不二はさっと身を翻した。 
      リョーマたちからさらに離れていく爆弾魔を追って、不二が周りから怪しまれない程度に軽く走りながら近づいてゆく。 
      その不二を目で追いかけて、手塚は眉を顰めた。 
      「……どこへ行くんだ、不二は?」 
      「え?」 
      「トイレなら逆に行く方が近い」 
      「…っ」 
      リョーマは逡巡した。手塚にも、ある程度のことを話して、やはり不二を追いかけた方がいいのではないかと。 
      爆弾魔がここにいるということは、例の《親玉》的存在も今、この園内に来ている可能性が高い。いや、ほぼ間違いないだろう。 
      「……し、…指名手配犯を見つけたんです。それで、とりあえず様子を窺って、隙を見て警察に通報するって」 
      「指名手配犯?」 
      手塚が大きく目を見開いた。 
      「爆弾魔なんです。またどこかに爆弾を仕掛ける気かもしれない」 
      「バカな。なぜ独りで行くんだ」 
      「オレが、爆弾魔に顔を知られているかもしれないからです。だからオレを残して…」 
      リョーマを見つめたまま、手塚は暫し黙り込んだ。 
      「……君は、どうしたい?」 
      「え?」 
      冷静に、落ち着いた声音で問われて、リョーマは目を見開いた。 
      だが、答えなど、もう決まっている。 
      「オレは、追いかけたい、です」 
      手塚は頷くと、リョーマの手を取った。 
      「行こう。だが、俺の傍から離れるな」 
      「はい!」 
      リョーマはしっかりと手塚の手を握り返した。 
      そうして、不二が走っていった方向へ、二人は駆け出した。
 
  穏やかな楽しい時間が、音を立てて崩れ始めた。 
      
 
 
 
 
 
  
      続
 
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      20050312
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