愛猫




「倒れたんだって?」
家に帰ってくるなり部屋に飛び込んできた不二が、少し怒ったような口調でリョーマに詰め寄った。
「あ、いや、その、ちょっと気持ち悪くなって……」
「もう大丈夫?」
「はい。……すみません、心配かけて」
不二はふぅっと大きく溜息を吐き出すと、さらりとした前髪を少し乱暴に掻き上げた。
「………本当は僕に言わないつもりだったでしょう?」
「………」
手塚には、不二へは自分から言っておくと言いはしたものの、心配をかけたくなくてリョーマはコートでの一件を不二に話すつもりはなかった。不二に連絡を入れたのは不二の母親らしかった。
「やっぱりキミが出歩くのは反対だよ。どこで誰と出会うかわからないし……あのコートには手塚も来るでしょう?」
「……その……今日は部長に…助けてもらって……」
「え?」
「帰りも車で送ってもらったんス」
「手塚が車で?」
申し訳なさそうに上目遣いで見上げてくるリョーマを、心底驚いたような不二の瞳が見つめ返した。
「それで……明日も練習するって言ったら、帰りはまた送ってくれるって……」
「越前!」
不二がリョーマの肩を強く掴んだ。
「わかってる?キミがあの手塚と関わることはすごく危険なことなんだよ?」
「………わかってるっス」
「もしも手塚がキミを………そんなことになったら、キミは元の世界に戻れなくなる。キミの元いた世界は、キミを失ったまま、また動き出してしまうんだよ?」
「わかってます!」
少しだけ声を荒げて、リョーマは不二に強い瞳を向けた。だがその瞳は揺らめき、徐々に力を失ってゆく。
「……頭ではわかっているんス。……でも、どうしても……逢いたくて……何も話せなくても、部長と同じ空間にいられるだけでも……って……」
不二はリョーマを見つめていた瞳をそっと伏せると、小さく溜息を吐いた。
「それはわかるよ……だけど、キミがその感情に流されて手塚に近づいて…もしものことがあったら、すべてが台無しになってしまうんだ。もっと……慎重になって…」
「…………はい」
俯いて、リョーマは小さく頷いた。
「ごめん、……痛かった?」
不二は、強く掴んでいたリョーマの肩を優しく撫でさすった。ふるふると首を横に振るリョーマを、そっと抱き締める。
「手塚には………僕がクギを刺しておく。……いいね?」
「……部長は悪くないっス。だから……」
「わかってるよ」
不二が溜息混じりに小さく笑った。
「でも、手塚にキミを渡すことはできない。今は、キミは僕の恋人なんだから」
「不二先輩…?」
グッと強く抱き締められて、リョーマは喘ぐように不二の名を呼んだ。
「越前……」
不二が何か言いかけた時、部屋の空気がぐらりと揺らいだ。
「ソウマ!?」
リョーマが不二から離れて歪んでいる空間に目を凝らす。ベッドの横の空間にソウマが姿を現した。
『リョーマ!』
いつになく興奮したようなソウマの声音に、リョーマは息を飲んだ。
『《あの人》と連絡が取れた。三日後に合流できる』
「三日後?」
リョーマの瞳が輝いた。不二も大きく目を見開いてリョーマを凝視する。
『《あの人》の力を借りられれば、アンタを元の空間に送ることができる。でも、それだけじゃ、問題の根本的解決にはならないって、前に言ったよね』
「うん」
『だから、あと三日のうちにオレが、姿を眩ましているあの爆弾魔を見つけてくるから。そうしてあの時空を組み直す』
「あの犯人を見つけて時空を組み直す……?」
訝しげに眉を寄せるリョーマの言葉に、不二も同じように眉を寄せた。
『恥ずかしい話なんだけど、どうも、かつてはオレたちと同じ役割を担っていたヤツが関わっている可能性が出てきたんだ。そいつが、あの爆弾魔を逃がして時空を歪ませた可能性が高い』
「どういうこと?」
「越前?」
ソウマの方へ身を乗り出すリョーマに不二が説明を求めると、リョーマはソウマの言葉をそのまま不二に伝えた。
「そんなことして、何のメリットがあるんだい?」
ソウマのいる空間を見据えて言う不二の言葉に、ソウマは肩を竦めた。
『オレたちには、人間からしてみれば、所謂《特殊な能力》があるからね。その能力を悪用したくなるヤツがいるんだよ』
「悪用って……」
リョーマが一層きつく眉を寄せる。
『自分の思い通りに世界を動かしたり、歴史を変えたりしよう、ってね』
「なにそれ」
そんなことのために、手塚にあんなにもつらい思いをさせたのかと思うと、リョーマの中に激しい怒りが湧き上がった。
『あの爆弾魔、このまま野放しにするととんでもない事件を起こしそうなんだ。だからそいつはあの爆弾魔を見初めたってわけだ』
リョーマは両拳を握り締め、悔しげに唇を噛んだ。
『《あの人》はずっと、その、悪の親玉みたいなヤツを追いかけてた。そして、やっと、見つけた』
「…っ!」
『でもすぐには捕まえられない。念入りにトラップを仕掛けて、絶対に逃げられない状態にしてから、行動しないと』
リョーマが不二にソウマの言葉を伝えると、不二は大きく頷いた。
「それだけ頭の切れるヤツなんだね。……何か僕にもできることはない?」
怒りを抑えたような不二の言葉にソウマは頷いた。
『実はそのことで今日は来たんだ。アンタの先輩に、頼みたいことがある』
「頼みたいこと?」
ソウマの言葉に少し驚いたように、リョーマは不二の顔を見た。
「不二先輩に頼みたいことがあるって、ソウマが…」
不二はリョーマを見つめ、大きく頷いた。
「何でもやるよ。僕にできることならね」
その不二の言葉を聞いて、ソウマは力強く頷いた。
『ひとつは、リョーマを護ってもらいたいってこと』
「オレを護る?」
ソウマは頷いた。不二は黙って目を細める。
『その親玉みたいなヤツは、あの爆弾魔を救うためにリョーマを陥れたようなもんなんだ。だから、リョーマが元の世界に戻って、時空の歪みを直されるのはおもしろくないわけだ。だから、何らかの形で、リョーマをこの世界に留めにくるはずだ』
リョーマの説明を受けて、不二はきつく眉を寄せた。
「何らかの形?」
不二の言葉にソウマは頷く。
『どういう手段でくるかはわからない。でも、リョーマがこの世界に留まりたくなるように仕向けるか、留まらなくてはならないようにするか、どっちかだと思う』
「なるほど」
ソウマが話すのとほぼ同時にリョーマが不二に説明してやると、不二は納得したように頷いてから、口元に手を当てて考え込んだ。
『もしかしたら、その先輩をそそのかしにかかるかもしれない』
「不二先輩をそそのかす?」
『その先輩の心の闇につけ込む、とかね』
そう言ってソウマはじっと不二を見つめた。
「心の闇って?」
『…まあ、そういうの、誰でもあるから……』
訝しげに訊ねてくるリョーマの質問には直接答えずに、ソウマは曖昧に言葉を濁した。
『それで、もし親玉がそそのかす風なことを仕掛けてきたら、先輩には、それに乗っかったフリをしてもらいたいんだ』
「フリ?」
不二もふと顔を上げた。
『その先輩、結構そういうの得意そうだから。それが二つ目の頼み』
ソウマの言葉を伝えると、不二はクスッと笑みを零して頷いた。
「わかったよ。確かに、そういうの、得意かもしれないね」
その言葉を聞いたソウマも小さく笑う。リョーマは、二人を交互に見てから肩を竦めた。その様子はまるでテレビの中で見かける時代劇の悪人たちのやりとりを見るようだった。
『だけどリョーマ、アンタ自身も気をつけて。アンタの世界はここじゃない。元の世界には、アンタを待っている人がいるってことを、忘れないで』
「……うん」
ソウマの強い瞳に自分の心の奥で揺らめき始めていた弱さを見抜かれたように思えて、リョーマは身の引き締まる感覚に姿勢を正した。
「あと三日だよね。気をつける」
しっかりと頷くリョーマに、ソウマも表情を引き締めて頷き返した。
『じゃあ、オレは行くよ。二人とも、くれぐれも気をつけて』
「ソウマも」
『うん。ありがと。あと少しだから、自分に負けるなよ、リョーマ』
微笑みを残してソウマは空間に溶けていった。
「越前」
「はい」
「……大丈夫、だね?」
真っ直ぐ見つめてくる不二の瞳を受け止めて、リョーマはしっかりと頷いた。
「あのコートに行くのは、明日で最後にします」
想いを断ち切るようにはっきりと言い切ったリョーマに、不二は小さく微笑んだ。
「……明後日、どこかに遊びに行こうか」
「え?」
「キミの恋人として過ごせるのも、あと三日だから」
リョーマは目を見開いた。
「………そうっスね。どこかに、連れて行ってくれますか?」
「いいよ」
柔らかく微笑んでくれる不二に、リョーマも微笑み返した。
このまま、何事もなく三日が過ぎることは、あまり期待できそうにない。だとしたら、手塚の傍にいるという危険を冒すよりも、すべてを知っている不二と過ごす方が、困難な状況に陥った際には回避しやすいだろう。
「ねえ、不二先輩、部長の口癖、覚えています?」
「え?」
「油断せずに行こう、でしょ?」
ほんの少し戯けて言うリョーマに、不二は楽しげに笑った。





*****





翌日、リョーマはここ数日と同じように高架下のコートに来ていた。
だが今日はハードな練習はせずに、休憩を挟みながら軽い壁打ちをしばらく続けている。
昼近くになって、いつものように手塚が現れると、リョーマは壁打ちをやめてフェンス越しに手塚のもとに歩み寄った。
「昨日はありがとうございました」
ペコリと頭を下げるリョーマに、手塚は「いや」と言って瞳を和らげる。
「今日は顔色もいいようだな。体調管理もプレイのうちだ。気をつけた方がいい」
「はい」
そう言って微笑んでから、リョーマはふと表情を曇らせた。
手塚もそのリョーマの表情の変化に気づいたように、黙ったまま微かに眉を寄せる。
「オレ………もうここへ来るのは、やめることにします……」
「…………」
手塚は何も言わずに、だが組んでいた腕をゆっくりと解いた。
「昨日具合が悪くなったこと、ふ…周助サンに言ったら、もう行っちゃダメだって……今日だけは、昨日のお礼を言いたくて……」
不二の名前を出すことは昨夜不二と話していて決めた。そうした方が自然に聞こえるだろうと不二が言い出したのだ。
「………そうか」
少し間を開けて、手塚はそれだけを言った。
リョーマは小さく頷いて、そっと顔を上げる。視線を向けた先の手塚の表情は相変わらず動かなかったが、その唇はほんの少しだけ何か言いたげに薄く開いた。
「……ラケットを……もう一本、持っているか?」
「え?………あ、はい、あります」
「少し、相手をさせてくれないか」
リョーマは大きく目を見開いた。
「はいっ、お願いします!」
輝くような表情で笑うリョーマに、手塚は一瞬つらそうに目を細めてから、ゆっくりと立ち上がった。



「久しぶりだ…」
手塚は手の中のラケットを見つめて呟いた。
「……どれくらい、やってないんスか?」
「10年ほど…に、なるな……」
瞳に影を落としながら、それでもはっきりと手塚は答えた。
「サーブを打たせてもらってもいいか?」
「いいっスよ」
リョーマは弾む気持ちを抑えながら、できるだけ普通を装って、ボールを手塚に手渡した。
軽やかな足取りで向かいのコートに走って行くリョーマを、手塚はじっと見つめる。
「いつでもドーゾ!」
ラケットを構えながら、リョーマはどうしても弾んでしまう声で手塚に呼びかける。
手塚は頷くと、流れるような動作でトスを上げた。
鋭く打ち下ろされる手塚の腕が、まるでスローモーションのように、リョーマには見えた。
(フォーム、全然崩れてない……)
10年ぶりとは思えない鋭い打球を打ち返しながら、リョーマは自分がテニスというスポーツに関わっていたことを、心から感謝した。
何も語れなくても、指先すら触れあえなくても、こうして同じボールを打ち合えば、心が通い合うような気がしてくる。
「つぁっ!」
「…くっ!」
初めは遠慮がちに打っていたリョーマだが、手加減など必要ないと判断すると、次第に打球を強くしていった。
それでも試合ではないので、リョーマは手塚の打ちやすい場所へとショットを打ち込む。
「さすがっスね!」
弾むリョーマの声に、手塚は一瞬だけ小さな微笑みを浮かべた。
(国光…もっと笑って)
嬉しくて嬉しくて、リョーマは時を忘れて、ただ手塚とボールだけを見つめていた。



どれほど打ち合いを続けたか、リョーマの鋭いショットが手塚の足下をすり抜けてラリーが途切れると、手塚が両手を上げて「降参」のポーズを取った。
リョーマは物足りないように感じたが、手塚がコートを出てしまったので、同じようにリョーマもコートを出た。
コート横のベンチに腰を下ろし、深く息を吐く手塚に、リョーマはスポーツドリンクのペットボトルを差し出して笑った。
「10年ぶりなんて嘘みたいっスよ。……綺麗なフォームっスね」
「いや……やはり体力が落ちているようだ。10年のブランクは大きいな…」
リョーマが差し出したスポーツドリンクを受け取りながら、手塚は納得がいかないかのように首を横に振った。
手塚の隣に腰を下ろして、リョーマはクスクスと笑う。
木々の葉を揺らした穏やかな風が、ふわりと、二人の間をすり抜けて髪を揺らした。
「……もう、ラケットを握るつもりはなかった。アイツがいなくなってしまってから…アイツに繋がるすべてのものからずっと逃げていた気がする」
「………」
ぽつりと語られる手塚の言葉に、リョーマはコートを見つめたままじっと耳を傾けた。
「アイツがいなくなってから、俺は死んだように、ただ時を重ねてきた。どうして生きているのかわからないほど、生きている意味がわからず……だから死すら選べなかった」
リョーマはグッと、両手を握り締める。
「だが、生きていてよかったのだと……やっと思えた。10年間、夢ですら逢えなかったアイツが突然現れたんだ」
「え…?」
ギクリとしてリョーマが手塚に視線を向けると、手塚はコートを見つめたまま、付け加えるように言った。
「………夢に、な」
「あ……ああ……そうなんスか……」
手塚はそっと瞳を閉じると、ゆっくりと息を吐いてから目を開け、青い空を見上げた。
「戻ってくると、アイツが言ったんだ……夢の中で……俺の元へ必ず戻ると…」
「………」
「自分は死んでなどいないのだと。だから、待っていて欲しいと、言っていた」
空を見つめる手塚の横顔を、リョーマはそっと見つめた。
「……おかしいと思うか?夢の中のことを、本気で信じるなど……正気ではないと……」
「そんなことないっス」
はっきりと、リョーマは言った。
「恋人同士が互いに相手の夢を見るのは、お互いの心が繋がっているからだと思うんス。アンタが相手を想うように、相手も今、アンタのことを想っているんだと思います。それに、そんなにはっきり覚えている夢なんて、普通の夢じゃないっス」
確信を持って語るリョーマの言葉に頷き、だが手塚は、小さく眉を寄せた。
「……待つのは、もう今さら苦ではない………だが、俺も、待たされる理由は知りたい」
手塚の視線がゆっくりとリョーマに向けられる。
「なぜ、俺はまだ待っていなくてはならないんだ?」
リョーマは、大きく目を見開く。
苦しげに、静かに紡がれる手塚の言葉に、一瞬、呼吸を忘れた。
「……そ…っ、……オレ、は……っ」
じっと見つめてくる手塚の瞳に、リョーマは心の奥まで覗かれる気がして激しく動揺した。
手塚の瞳をまともに見つめ返すことができなくなり、リョーマは思わず視線を逸らしてしまった。
二人の間に暫しの沈黙が流れる。
揺れる瞳でコートを見つめながら、リョーマの心の中に、昨日感じた「あり得ない可能性」が、また再び大きく膨らんできていた。
だが、そうだとしたら、手塚はなぜそんなにも静かにここに居るのだろうかと、リョーマは複雑な心境になる。
コートに視線を彷徨わせるリョーマをしばらく見つめていた手塚は、やがて瞳を伏せるとゆっくり立ち上がった。
「………もう、君とは逢えなくなるのか?」
真っ直ぐコートを見つめ、手塚は静かに口を開いた。
リョーマはどう答えていいか迷い、口を噤む。しかし、ギュッと拳を握り締めると、手塚の背中にきっぱりと言った。
「…今日が、最後です」
「………」
手塚の表情は見えなかったが、その肩が、微かに揺れたようにリョーマは感じた。
「どこかへ、行くのか?」
「はい」
「不二とは……」
「………明後日まで……周助サンは、オレの恋人です」
「………」
少し間を開けてから、手塚は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。そうしてまた空を見上げ、そのまましばらく黙り込む。
遠くから電車の音が近づいてくる。それは次第に轟音になり、辺りのすべての音を奪い取って高架を渡っていった。
「………約束だったな。家まで送ろう」
「………はい…」
俯いて、リョーマは小さく返事をする。
だが、返事はしたが、眉をきつく寄せ、唇を噛んで、リョーマは動かなかった。
これでもう、この手塚と逢えなくなるのだと思うと、リョーマの胸は切なく軋んだ。
この、目の前にいる手塚の心を苦しめるようなことは、本当にもう、起きないのだろうか。
本当に、笑顔を取り戻してやれるのだろうか。

この手塚に、もう一度『越前リョーマ』は戻ってくるのだろうか。

もしも、という想いが、リョーマの胸をよぎる。
自分が元の世界に戻れば、すべてが元通りになるとは思う。だがもしも、この世界の『越前リョーマ』が戻ってこなかったら…?
リョーマが元いた世界と分離し、全く別の時空となってしまったこの世界に、『越前リョーマ』は再び存在することが、果たしてできるのだろうか。
唐突に、リョーマの胸に大きな不安が襲いかかってきた。
膝の上で握り締めたリョーマの両拳が、小さく震え始める。
動く気配のないリョーマを、手塚がそっと見遣った。
「……どうした?」
俯き、固く両拳を握り締めたまま動かないリョーマに、手塚は静かに声をかける。それでも動かないリョーマの隣に、手塚はもう一度腰を下ろした。
「………俺が心から大切に想っている『越前リョーマ』という人間は、どんなに困難なことも、最後まで諦めないヤツだった」
ハッとしたように目を見開き、リョーマは顔を上げて手塚の横顔を見つめた。
「どんなに強い敵が現れようとも、どんなに追いつめられようとも、決して自分から諦めたりしない、心の強い男だ」
「………」
「自分を信じるということは、時に、何よりも苦しく、つらく、難しいことであったりもする。だが、自分を信じることこそが、すべての原動力となる。もし君が今、何かを成し遂げようとしているのなら、まず、自分を信じることだ」
「自分…を……?」
リョーマを見ずに、手塚は静かに頷く。
「自分を信じることができなければ、何も成し遂げることはできないだろう。自分にとって、自分自身が、何よりも、誰よりも、最大の弱点であり、最強の味方になるんだ」
大きく見開いたままだったリョーマの瞳が揺らぐ。
手塚の言葉が、リョーマの心の隅々まで溶け込み、そして心全体を優しく包み込んだ。
リョーマはゆっくりと、だがしっかりと、立ち上がった。そうして手塚の正面に立ち、グッと深く頭を下げた。
「…ありがとう、ございましたっ!」
静かにリョーマを見つめていた手塚が、一瞬だけきつく眉を寄せ、固く目を閉じた。だが、抱え込んだ想いを空へ逃がすように天を仰いでから、スッと立ち上がった。
「…行こう」
「はい」
歩き出す手塚の後ろについて、リョーマも歩き出した。



昨日と同じ様に道路脇に停めてあった車の後部座席にリョーマが自分の荷物を放り込み、助手席に乗り込もうとした時、何か小さな動くものが視界の隅を横切った。
「え?」
『それ』はひどく見慣れた色合いをしていた。そのつぶらな青い瞳がリョーマをじっと見つめ、独特な声を発して、道の真ん中に座っている。
「おまえ……どうして、ここに……?」
リョーマはひどく驚いて『それ』を見つめた。
「どうした?何か……」
手塚がリョーマの様子に気づいて乗り込みかけた車から降りてくる。
「カル………猫が、そこに……、あれ?」
一瞬、手塚の方へ視線を向けた隙に、『それ』は居なくなっていた。周りを見回すと、交通量の多い大通りの方へ向かって歩いて行く後ろ姿をすぐに見つけた。
「ダメだ、そっちは危ないよ!」
叫びながらリョーマが『それ』を追いかける。
「!、待て、そっちは…」
手塚の制止の声がリョーマには聞こえない。
どんどん歩いていってしまう『それ』を追いかけて、リョーマはいつしか走り出していた。
『それ』はチラチラとリョーマを振り返りながら、誘うように、逃げるように、しなやかな足取りで人通りのない道を進む。
「待てッたら!」
全力で走って追いかけていると、『それ』がピタリと足を止めた。道端に座り込み、しっぽをパタパタと振りながら、まるでリョーマを待っているかのようにこちらを向いて甘ったるい声で鳴く。
自分を待っているらしい『それ』に安心し、リョーマも歩みを緩めて近づいていった、その時だった。
「危ないっ!」
大きな声と同時に、リョーマの身体は力強い腕に抱き込まれるようにして道端に倒れ込んだ。
直後、リョーマの立っていた辺りを大きなトラックがクラクションを鳴らしながら轟音をたてて走り去っていく。
「…………っ?」
「大丈夫か?」
手塚の腕の中で、リョーマは大きく目を見開いて青ざめた。
手塚が居てくれなかったら、今頃自分はあのトラックに跳ね飛ばされて、無事ではすまなかっただろう。
「……カル……カルは?」
小刻みに震えながら、それでもリョーマは身を起こして愛猫の姿を探した。
「カル?……猫がどうとか言っていたな」
「いない…どうして……どこに……?」
ふらつきながら立ち上がろうとするリョーマを、手塚が抱き寄せた。
「猫などいなかった。しっかりしろ。どうしたんだ、急に」
「いなかった?」
呆然と、リョーマは手塚を見た。手塚はしっかりと頷いてみせる。
「最初から、車の周囲には何もいなかった。今も、道の向こうには猫どころか、何もいなかったぞ」
リョーマはハッとして息を飲んだ。
(狙われた…んだ)
こんな形で、白昼堂々と狙われるとは思ってもみなかった。
「立てるか?」
手塚に優しく頬を撫でられ、リョーマは何も考えずに手塚に抱きついていた。
怖い、と思った。
この世界に留まるどころか、命さえ奪われるところだったのだ。
何も言わずにギュッとしがみついてくるリョーマを、手塚は優しく抱き締めた。
「大丈夫だ。誰にも、何にも、お前を傷つけさせたりはしない」
リョーマはゆっくりと顔を上げた。間近で見上げる手塚の瞳が、切なげに揺れている。
「大丈夫だ……」
「ぁ……」
そっと、手塚に口づけられた。
宥めるように、優しく、柔らかく、手塚の熱い舌がリョーマの舌に絡み、恐怖に竦んだ心を解してくれる。
「ん………」
角度を変えながら次第に深く求められて、リョーマは理性の欠片を掻き集めて、やっとの思いで手塚の身体をそっと押し返した。
微かな水音をさせてゆっくりと唇が離れてゆく。
「…………すまない」
まだ息がかかるほどの近さで、手塚が囁くように言った。
リョーマの唇から甘い吐息が零れる。
気づけば、リョーマは自分から手塚に口づけていた。
驚いたように目を見開いた手塚は、しかし、すぐに貪るようにリョーマに深く口づける。
身体が軋みそうなほど強く強く抱き締められて、リョーマはうっとりと、手塚に求められるままに唇を開いた。
息継ぐ間も惜しむほど、二人は座り込んで抱き合ったまま、互いの唇を貪り合う。
身体中が心臓になってしまったかのようにドキドキとうるさい鼓動の中、リョーマは遠くで微かに、愛猫の鳴く声を聞いたような気がした。








                            



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20050308