約束




翌朝。
リョーマは不二を送り出してから、ラケットケースを担いで早速高架下のコートに向かった。
途中のコンビニで昼食用のサンドイッチとおにぎりとスポーツドリンクと、そしてファンタを仕入れた。
コートに立ってみると、昨日の雨の名残はどこにもなく、朝の爽やかな空気が、辺り一帯を満たしている。高架を渡る電車の騒音さえなければ、結構いい場所だと、リョーマは思う。
ランニングから始めてストレッチをし、身体を充分に解してから、コートの端にある壁で、まずは壁打ち練習をする。徐々に打球を強くしてゆき、壁を介して自分と戦っているような迫力で打ち、そして打ち返す。
しばらく壁打ち練習を行ったあとで、スポーツドリンクで喉を潤し、サーブ練習にはいる。
かつて、手塚と戦った時に使ったコートに立ち、リョーマはギュッとボールを握り締めた。
ネットの向こうにあの日の手塚の姿が揺らめく。リョーマは、その手塚の幻に向かって、「サーブ、いきます」と小さく呟いた。
「はぁっ!」
思い切り、ボールを相手コートに叩き込む。
コートでバウンドした鋭いサーブは向かいのフェンスに大きな音を立てて叩きつけられ、そして跳ね返ってネットの辺りまで戻ってきた。
「次!」
もう一度、思い切り打ち込む。
「次っ!」
跳ね返って転がるボールが止まる前に次のサーブを打ち込んだ。
不二が買ってくれたボールは6個。それをすべて打ち込むと、リョーマは短く息を吐き捨てて向かいのコートへボールを拾いに向かった。
各コーナーを狙って打ち込んだため、ボールはあちこちに散らばってしまった。ゆっくりと歩いて周りながらそれらを集め、最後のボールを拾い上げようとして、リョーマはギクリと身体を竦ませた。
転がったボールの先のベンチに、誰かが座っていた。
「……っ!」
いつの間に現れて、いつからそこに座っていたのか、フェンスの向こうから、じっとこちらを見ている。
手塚だった。
リョーマは一瞬動揺したが、昨日言われた手塚の言葉を思い出して微かに眉を寄せた。

『ここに来るのは自由だ。俺に気を遣わず、毎日でも来ていい』
『俺も、君のことは、気にしないことにする』

(ああ、そうだった…)
リョーマは視線を、足下のボールに向けた。
(ここにいるオレは、あの人の越前リョーマじゃないんだ…)
痛む胸を宥めるように溜息をつき、リョーマはボールを拾い上げた。
(でも、なんで……)
なぜここに手塚がいるのだろう。
リョーマは拾い上げたボールを見つめて、心に浮かんだその疑問の答えを、自分なりに探そうとした。
もちろん手塚が毎日ここへ来ているのは知っているが、なぜ、そのベンチに座って此方を見ているのだろう。
一昨日はこのコートには来るなと言われた。
昨日になって、今度は来てもいいと言われた。
そして今日、このコートに来た自分を、手塚は何も言わずにただじっと見つめているのだ。
(……国光……)
そう言えば、とリョーマは少し前の自分と手塚との関係を思い出した。
あの学校の屋上で、自分たちは何も喋らずに、ただ静かに流れる同じ時を過ごしていた。
リョーマは初め、青い空の爽快さと清々しい風が気持ちいいからあの場所が好きなのだと思っていた。あの場に寝転んで、静かな時の流れの中で白い雲を眺めるのが、自分は好きなのだと。
だが、それはいつの間にか違っていたのだ。
自分でも気づかないうちに、自分の心は手塚に惹かれていた。
知らないうちに手塚を求め、手塚に逢いたくて、あの屋上に行っていた。
寝転ぶ自分に向ける手塚の視線があまりに強かったので、リョーマは自分が手塚に嫌われているのだと思っていた。
だが手塚もその頃、自分はリョーマに嫌われていると思っていたのだと、後でそっと語ってくれた。
(何だか、あの時に似てるね……)
リョーマは手塚を振り返ろうとして、だが、思い留まった。
ここで自分が振り返っても、そして、例え手塚と視線があったとしても、手塚がここにいるリョーマを『越前リョーマ』として見てくれることはないのだ。
きっと手塚は、いつものようにここに来て、彼の中の『越前リョーマ』を想っているだけなのだろう。だから、リョーマのいるコートを見つめるような形でベンチに座っているのは、たまたまのことで、リョーマを見ているわけではない。
リョーマは、キュッと唇を噛み締めた。
(ここは、あの屋上じゃない…っ)
リョーマは手の中のボールをギュッと握り締めてから、そのボールを頭上高く投げ上げた。
「はぁっ!」
思い切り、向かいのコートへサーブを叩き込んだ。
しかし、コーナーを狙ったはずのサーブはボール二個分ラインを越えていた。
(はずした……)
リョーマは眉を寄せ、ポケットに入れておいたボールを取り出して、また頭上高くトスを上げる。
「はっ!」
同じところを狙ったサーブは、しかし、今度はさっきよりも大きくそれてエンドライン近くでバウンドした。
「くそっ」
リョーマはもう一つボールを取り出して、また同じコースにサーブを打ち込む。が、やはり決まらなかった。もう一本打ったが、やはり決まらない。
(……落ち着かないと…)
大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。そうしてから、またボールをポケットから取り出し、向かいのコートを睨んで構えた。
綺麗なフォームでトスを上げ、腕を鋭く振り下ろす。
「はぁぁっ!」
鋭いサーブが向かいのコートに突き刺さった。
「………っ」
だが、ボールはやはり狙った場所を僅かにずれてしまった。
リョーマは大きく溜息を吐いた。さっきまで思い通りに決まっていたサーブが、手塚に見られていると思うだけで決まらなくなってしまった。
それほど、動揺している自分が情けなかった。
「……軸が傾いている」
「え……?」
ふいに、背後からかけられた言葉に、リョーマは驚いて振り返った。
「身体の軸が僅かに右に傾いている。そのせいで肩が開き、コントロールがつかないんだ」
手塚がベンチに座ったまま腕を組んで、淡々と言う。
「……ぁ、はい」
リョーマは手元にあった最後のボールを取り出して、もう一度構えた。
(軸、……か……)
スッと、心が静まるのを感じた。
流れるような動きでトスを上げ、身体が傾きすぎないように少しだけ注意してサーブを打ち込む。鋭い打球は真っ直ぐに狙ったコーナーに突き刺さり、大きくバウンドして跳ね返っていった。
「…………」
リョーマは呆然と転がるボールを見つめ、ハッと我に返って後ろを振り返った。
「あ……」
そこにはすでに手塚の姿はなかった。
リョーマはラケットを脇に抱えて急いでフェンスに走り寄った。
「………ありがとう、ございました!」
姿の見えない手塚に向かって声を張り上げる。もしまだ近くにいるのなら、この声が届くようにと。
(ありがとう……国光……)
リョーマはフェンスに手を滑らせながら、ズルズルとその場に蹲った。
「国光……くに……っ」
本当は、手塚は何も変わっていない。
表情に表れないその内面には、切なくなるほどの大きな優しさを湛えているのだ。
そんな優しい人を独り残してきてしまった自分に憤りを覚える。例えそれが自分の意志でなかったとしても、今、あの手塚を悲しませ、苦しめているのは他の誰でもない、『越前リョーマ』なのだから。
「ごめん……国光……」
リョーマはゆっくりと立ち上がり、雫を零しそうな瞳をギュッと閉じて空を仰いだ。
遠くから迫ってくる電車の音が聞こえる。
目を開けて瞳に映した青空は、10年前と変わらなかった。





***





それからリョーマは毎日高架下のコートに通い、独りで練習を続けた。
そうして昼近くになると、リョーマはフェンスの向こうにあるベンチにチラリと視線を向けるようになった。
リョーマが毎日このコートに現れるように、手塚もまた毎日、いつの間にか現れては、フェンスの向こうのベンチに腰を下ろしてリョーマを見つめている。
初日には一言だけ言葉を発した手塚も、その次の日からは何も喋ってはくれなかった。
それでも、リョーマはよかった。
どんなに切なくても、やはり手塚がいてくれるだけで、この空間が愛しく思えた。
(あ、来た…)
今日も手塚はいつもとだいたい同じ時刻に姿を現した。リョーマの姿を確認するようにチラリと視線をこちらに向けてから、何も言わずにベンチに座る。
リョーマは手塚に背を向けると、嬉しそうにそっと微笑んだ。
手塚が何も喋らないように、リョーマも何も話しかけたりしない。それが、自分がここにいられる暗黙のルールのような気が、リョーマはしたからだ。
小さく息を吐き出して、リョーマはサーブ練習を始めた。
手塚が現れても初日のように動揺することはなくなったが、リョーマの中で、恋情とは違う感情が、どうしても沸々と湧き上がってくるのがわかる。
(国光と打ちたい………)
不二のラケットケースには、二本のラケットが入っている。その一本を手塚に渡して、コートで向かい合いたかった。コートに立つ手塚国光が、リョーマは本当に大好きだったから。
だが、それを口に出すことはきっとタブーなのだ。
こうして同じ空間にいられることだけで、満足しなくてはならない。
リョーマは大きく溜息を吐いて、サーブ練習に集中しようと高いトスを上げた。
「……っ?」
高く上がったボールに狙いを定めて打ち下ろそうとした瞬間、リョーマの視界がぐらりと揺れた。打たれなかったボールが、リョーマの足下でバウンドする。
「………っ」
空が回るような感覚に、リョーマはその場にしゃがみ込んだ。嫌な汗がどっと噴き出してくる。
(気持ち悪……っ)
コートに誰かが走り込んでくる。
「どうした?」
間近で聞こえた手塚の声に、リョーマはゆっくりと顔を上げた。
「……なんか……頭がグラグラして……気持ち…悪い……」
「………」
手塚の大きな手がリョーマの額に触れた。
「熱はないな」
身体を支えきれずに崩れそうになるリョーマを、手塚の腕が咄嗟に抱き留める。
「……すみません…」
「……いや」
少しの逡巡の後、手塚はリョーマを抱き上げた。
「え……」
「とりあえず、日の当たらない涼しい場所に行こう」
「………すみません」
そう言ってリョーマはグッタリと手塚に身体を預けた。こんな時なのに、手塚の身体に触れた頬が熱くなる。甘えるように鼻をすり寄せると、仄かに香る手塚の体臭が、泣きたくなるほど懐かしく思えた。
手塚はリョーマを抱えたままコートを出て自分が座っていたベンチに向かった。そこにそっとリョーマを横たわらせると「少し待っていろ」と言い残してその場を離れていった。
程なくして戻った手塚の手にはスポーツドリンクのペットボトルと、水に濡らしたハンカチ。
「飲むか?」
「……はい」
少し身体を起こすリョーマの身体を支えてやりながら、手塚はじっとリョーマの顔を見つめた。
「…軽い熱射病か、いや、貧血かもしれないな。顔色がよくない」
そう言いながら手塚はリョーマの額に濡れたハンカチを押し当てた。
「……ありがとうございます」
「朝食は食べたのか?」
「……少し」
手塚は眉を寄せた。
本当はほとんど朝食が喉を通らなかったことを、手塚には見抜かれてしまったのだとリョーマは思った。
自分の神経はかなり太い方だと自覚しているリョーマだが、さすがにこの世界に来てからはあまり食事が喉を通らない。そのしわ寄せが、そろそろ身体に表れてきたようだった。
「…不二に連絡するか?」
「……大丈夫っス。少し休めば、一人で帰れます」
また手塚は眉を寄せた。リョーマを見つめて何かを言いかけ、だがその言葉を飲み込んで視線を逸らした。
「……しばらくここにいるから、少し休んだ方がいい」
「……はい」
リョーマはそっと瞼を閉じた。自分が頭を向けている方のベンチの端に手塚が座る気配を感じ、本当にここに居てくれるのだとひどく安心した。
目を閉じていてよかったと、リョーマは思う。
きっと目を開けたままでいたら、手塚を熱い瞳で見つめ、その瞳から涙を零していたかもしれない。
そうなれば、その涙の理由を、話さずにはいられなくなる。
(何も話せなくて、ごめんね、国光……)
目を閉じていても滲んでくる涙を隠すために、リョーマは額にあった濡れたハンカチを目元にずらした。
手塚が、小さく溜息を吐く。そうしてそっと背もたれに腕をかけ、リョーマをじっと見つめた。
「……あまり一人で抱え込むな。……俺に話せないなら、不二に話せばいい……」
リョーマはビクリと小さく身体を揺らした。心の呟きを、うっかり声に出してしまったかと思った。
(国光……?)
手塚の言葉は、何か、とてつもない含みがあるようにリョーマには思えた。
さらりと上辺だけ聞き流せば、それはそのままの意味で「恋人なら何でも話せるはずだから」と言ったのかもしれないが、手塚の唇から零れる小さな溜息と、柔らかなその声音が、リョーマに、ありもしない可能性をちらつかせてくる。
(まさか……気づいて……)
しかしリョーマは、瞬時にその可能性を否定した。
もしも手塚が自分の本当の正体に気づいたならば、こんなふうに穏やかに接しているはずがない。10年分の喪失感を埋めるために、今この場で何もかも奪われることだってありうる。
初めてこの手塚に逢った時、あらん限りの力で抱き締められた感触を、リョーマの身体は今でも覚えているのだ。
逞しい、大人の男の腕だった。きっと、リョーマが本気で抗っても敵わないだろうと思う。
なのに今、手塚はただ黙って傍に座っていてくれる。それは、リョーマのことを『越前リョーマ』だとは思っていない、確かな証拠だった。
(大丈夫…まだ…気づかれてない……)
リョーマは動揺していた心を宥めた。途端にふわりと眠気に襲われる。自分ではあまり意識していなかったが、どうやら夜の睡眠も、充分に良質なものが摂れていなかったらしい。
すうすうと微かに寝息を立て始めたリョーマを見つめて、手塚は眉を寄せた。
「……なぜ……不二なんだ……」
手塚の小さな呟きは、高架を渡り始めた電車の音に掻き消された。





優しく身体を揺すられて、リョーマはゆっくりと目を開けた。
「………あ」
「すまない、そろそろ仕事に戻らなくてはならないんだ」
リョーマは瞬きをして、のそりと身体を起こした。
まだ夢でも見ているのかと思ったが、すぐにこれが夢ではないことを思い出す。
「すみません…ホントに寝ちゃいました」
恥ずかしそうに俯くリョーマの背に、そっと手塚が触れた。
「具合はどうだ?まだ気分が悪いようなら…」
「あ、いえ、もう大丈夫っス。………今日はもう、帰りますから」
小さく笑ってみせるリョーマに、手塚はまた眉を寄せた。
「心配かけて、すみませんでした……」
「………やはり家まで送ろう」
「え、でも…」
手塚はリョーマの腕を掴んで立ち上がらせた。
「そんな顔色では、途中で倒れかねない」
「でも、仕事……」
「どうとでもなる」
手塚はそう言ってコートに入り、リョーマの荷物を手早くまとめて持ってきた。
「行くぞ」
「……はい」
リョーマを促すと、手塚はスタスタと歩いてゆき、道路脇に止めてある車の後部座席にリョーマの荷物を放り込んだ。
「やっぱり免許持ってるんだ……」
「え?」
感心したように呟くリョーマの言葉に、手塚が怪訝な顔をして振り返った。
「ぁ、いえ、いいんですか、ホントに?」
手塚は頷くと助手席のドアを開けてくれた。
(なんかドキドキする…)
どこか気恥ずかしいような心境で助手席に乗り込み、リョーマはしっかりとシートベルトを締める。手塚も慣れた動作で運転席に座り、ベルトを締めて滑るように車を発車させた。
「…不二の家でいいんだな?」
「あ………はい」
その手塚の言葉で、浮かれ気味だったリョーマの心が途端に沈み込んだ。
不二の恋人だと手塚に思われていることが、こうして手塚と二人きりになった時は、特につらい。
車内に沈黙が流れる。
リョーマはふと、俯いた視線の先に音楽のCDを見つけた。クラシック音楽らしきものが多いが、中には知らないミュージシャンのものもあった。
その中に、古そうなケースに入ったCDを見つけ、そのタイトルを見て思わずリョーマは「ぁ」と声を上げてしまった。
チラリと、手塚がリョーマに視線を向ける。
「このCD…」
「……知っているのか?」
それはリョーマが好きなミュージシャンのものだった。疾走するようなアップテンポが心地よくて、試合前などに、よくこのCDを聴いたりもした。
一度だけ、手塚にも薦めたことがある。その時手塚は買わなかったはずなのに、こうしてここにあるということは、後でこっそり購入したのだろう。
「いいっスよね、この人たちの曲。テンション上がってくるっていうか、試合前に聴いたりすると………」
そこまで言って、リョーマは口を噤んだ。
(しまった……10年前の曲なのに……っ)
「……そうだな。アップテンポの、かなり爽快感のある曲だ」
手塚は前を見たままそう答えた。
「……そういえば、不二も持っていたな…」
「………はい。結構昔の曲っていいのありますよね」
「ああ」
リョーマは何とかごまかせたことにホッと胸を撫で下ろした。不二も持っているのなら、世代の合わないリョーマが知っていても不自然ではない。
(不二先輩も、こういう曲って好きだったんだ……)
「もうすぐ着くぞ」
「はい」
いつの間にか大通りから住宅街に入っていた車は、やがて一軒の家の前で停車した。
「ありがとうございました」
ベルトを外しながらニッコリと微笑んで礼を言うリョーマに、手塚は表情を変えずに「いや」とだけ答えた。
手塚もベルトを外して車を降り、後部座席からリョーマの荷物を取り出してやる。
「すみません」
「………」
手塚は荷物を渡しながら、リョーマをじっと見つめた。
「明日は練習は休め」
「………」
リョーマは瞳を揺らしながら手塚を見上げた。
練習を休むということは、あのコートに行かないということだ。そうすれば、当然手塚に逢うこともできなくなる。
「いえ………明日も練習しに行きます」
「………」
手塚は微かに目を見開いて黙り込んだ。しかし、軽く溜息を吐くとリョーマの頭にポンと手をのせた。
「わ?」
「練習がしたいのなら、しっかりと食事を摂って、今日は早めに就寝することだ。明日も今日のような顔色をしていたら、練習はさせない」
「!」
リョーマは大きく目を見開いて手塚を見つめた。
「わかったな」
「はい!」
手塚はほんの少しだけ瞳を和らげて頷くと、車に乗り込んだ。
「明日も帰りは送ってやる。必要なら不二には俺から断りを入れておくが…」
「いえ、いいっス。自分で言いますから」
どこか上の空でリョーマは答えていた。
手塚が、自分を気にかけてくれていることがひどく嬉しかった。
「じゃあ」
「はい。ありがとうございました」
頭を下げたリョーマが顔を上げる前に、手塚は車を出して走り去った。
(ありがとう…国光……)
手塚の車が見えなくなるまで、リョーマは見送り続けた。
明日も手塚に逢える。
帰りは車で送ってくれるとも言っていた。
そんな些細な約束が、リョーマの心をこれ以上ないほど舞い上がらせている。
「国光……」
声に出して呟いた愛しい名前が自分の耳から入り込んで、舞い上がる心に、さらに温もりを与えてくれるようだった。
だが、その心のどこかで警鐘が鳴っていることにもリョーマは気づいている。
これ以上、この世界の手塚に近づいてはいけない、と。
このまま手塚と接近して、もしも想いを通わせるようなことになってしまったら、リョーマだけでなく、今必死になってリョーマを元の世界に戻そうと動き回ってくれているソウマの努力まで無駄にすることになる。
そして何より、あの悲しみに打ちひしがれた手塚を、もう一人、作り出してしまうのだ。
それだけは、何としても避けなくてはならない。
(この世界の国光は、この世界のオレのものなんだから……)
いずれ必ずこの世界に戻る『越前リョーマ』のために、手塚の心の中の、一番大切な場所へは入り込んではいけない。
手塚の夢の中で交わした約束を守るために、これ以上は、この世界の手塚に関わってはいけないのだ。
(だけど………っ)
募る想いに、胸が押し潰れてしまいそうだった。
手塚国光という人間を求めすぎて、理性が麻痺してきている。
(ソウマ……頼むから、早く………っ)
手塚を求める心と、すべての解決を願う心とで、自分が二つに割れてしまわないうちに。
必ず戻ると、手塚と交わした約束を破らないように。

リョーマはゆっくりと息を吐き出してから空を見上げた。
「オレを、…オレの国光の元へ返して……」
祈るように、リョーマは呟いた。
誰でも、何でもよかった。この呟きを聴き止めてくれる存在に、想いが届くように。
ちっぽけな自分だけの力では、もうどうすることもできないから。
「オレの国光に……」
声にならなかった切ない言葉の続きは、風にのって空へと舞い上がった。

逢いたい、と……








                            



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20050304