  雨の日
  
  
      
  「オレが爆発に巻き込まれるまでは、オレが話したのと同じだった」 
      不二のベッドに寄りかかるようにして床に座ったリョーマが、はっきりとした口調で話を始めた。 
      リョーマの斜め向かいに不二も腰を下ろし、不二の隣に少し距離を置いてソウマが座った。 
      『まあそうだろうね。問題はそのあと』 
      ソウマの言葉にリョーマは頷いた。 
      「爆発が起こって、オレは消えたんだって」 
      「その話なら僕もちょっと聞いているよ。越前が跡形もなく消えてしまって、相当に凄まじい爆発だったんだって」 
      そう言った不二を見て、リョーマは首を横に振った。 
      「でも、そうしたら部長や他の人だってただじゃすまないんじゃないんスか?部長のいたところまで、そんなには離れてなかったっスよ?」 
      「ああ、そうか……そうだね」 
      リョーマはソウマに視線を向ける。 
      「爆発する前に、アンタが助けてくれたの?」 
      不二もソウマの方を向く。 
      『いや、アンタを時空の狭間に突き飛ばしたのはオレじゃない。………爆発の直前にアンタが《弾かれる》のを感じて……だから後を追いかけて、危ないところでオレが捕まえた』 
      「危ないところ?」 
      『……ここに連れてこなかったら、アンタは永遠にあの闇の中から出られないところだった』 
      リョーマは目を見開いて顔を強ばらせた。 
      「越前?」 
      ソウマの言葉を不二に伝えると、不二の顔も強ばった。 
      「誰かが、越前を永遠に葬ろうとしたってこと?」 
      『ああ、《身代わり》として、ね』 
      「身代わり?誰の!?」 
      リョーマの言葉に不二も目を見開いてソウマの方を向いた。 
      『たぶん、……オレが本来連れていくはずだったヤツ』 
      「誰?」 
      身を乗り出すリョーマに、だが、ソウマはゆっくりと瞬きをして首を横に振る。 
      『悪いけど、それは言えない。アンタたちの世界で言うところの、トップシークレット、ってやつみたいなもんだから』 
      リョーマはきつく眉を寄せた。 
      「あの男じゃないの?あの、オレたちの後ろの方にいた、小太りの、爆弾仕掛けた犯人」 
      「犯人?」 
      不二が眉を顰めてリョーマを見た。 
      「アイツが犯人だってコトを仄めかす言葉を聞いたのはオレだけだったし、部長の話だと、オレが消えたあとに、アイツはまんまと逃げちゃったみたいだし…」 
      納得したように頷く不二を、ソウマがちらっと見遣った。 
      『その質問には答えられないから肯定はしないけど、否定もしないよ』 
      そう言いながらソウマはリョーマを強い瞳で見つめる。それだけで、リョーマは心の中に確信を持った。そのリョーマの確信が、不二にもわかったようだった。 
      「だとすると、その、『身代わり』を仕立てたヤツをどうにかしないと、この状況の根本的な解決にはならないってことだね」 
      不二の言葉にリョーマとソウマは同時に頷いた。 
      『でも、これでオレのやることがわかってきた。やっぱり、《あの人》をどうにかして見つけてタッグを組まないとダメだ』 
      リョーマが眉を寄せてソウマを見つめた。 
      『大丈夫だよ。《あの人》を呼ぶ最終手段があるからさ』 
      「最終手段?」 
      怪訝そうな顔をするリョーマに、ソウマは『企業秘密』だと言ってニヤッと笑ってみせた。 
      『じゃ、オレはまた行くから。あと少し、頑張って、リョーマ』 
      「わかった」 
      「彼はもう行くって?」 
      立ち上がるソウマの気配に、不二がリョーマに訊ねる。 
      「やることがわかってきたって。なんか、例の指導教官を呼ぶ最終手段があるみたいっス」 
      「ふぅん。今までその『最終手段』を使わなかったってことは、さぞかしスゴイ手段なんだろうね」 
      ニッコリ笑いながら言った不二の言葉に、ソウマは珍しくほんのりと頬を染めた。 
      『……この先輩、敵に回したくないタイプだね』 
      「あ、それ、オレもそう思う」 
      ソウマはふっと笑うと『じゃ』とだけ言って姿を消した。 
      「…なんて言ったの?ソウマは」 
      「不二先輩格好いいって」 
      「誉め言葉?」 
      「もちろん」 
      明後日の方を向いて答えるリョーマにクスッと笑ってから、不二は立ち上がった。 
      「まだ少し寝られるから、僕のベッドで寝るといいよ。僕は目が冴えちゃったから、散歩でもしてくる」 
      「不二先輩…」 
      「ん?」 
      床に座ったまま、リョーマは不二を見上げた。 
      「今日も帰り、遅いんスか?」 
      「………早く帰った方がいい?」 
      「…………」 
      「…手塚に逢いに行きたいの?」 
      リョーマはチラリと不二を見てから、俯いて小さく頷いた。 
      「じゃ、今日は休むよ」 
      「え?いいんスか?」 
      せめて午前中で帰ってきてくれればいいのにと、そう思っていたリョーマは、不二の言葉に驚いて顔を上げた。 
      「うん、大丈夫。今日は実験の途中経過のデータをちょっと取るだけだから、他の人でもできるんだ」 
      「じゃ……じゃあ、お願いしますっ!」 
      瞳を輝かせるリョーマに、不二は柔らかな瞳を向けた。 
      「やっと僕に『我が儘』言ってくれたね、越前」 
      「え?」 
      「もっと頼って欲しいんだ。僕は、越前の力になりたいんだから」 
      「先輩…」 
      揺れる瞳で見上げるリョーマの隣へ、不二はそっと腰を下ろした。 
      「僕はね、キミも手塚も大好きだよ。大好きだから二人とも放っておけないし、頼って欲しいと思ってる」 
      「………」 
      「中学生の頃、僕は何かに本気になることがなかなかできなくて……テニスもね、ちょっとゲーム感覚なところがあった」 
      意外そうに見つめてくるリョーマに、不二は小さく苦笑した。 
      「そんな僕の中で眠っていた熱い感情を目覚めさせてくれたのが、キミと手塚だった。なのに、キミがいなくなってしまって、手塚も変わってしまった」 
      リョーマは眉を寄せて俯いた。 
      「すぐ近くにいるのに、手塚に何もしてやれない自分が不甲斐なくて、腹立たしくて………テニスを続けることは、もう、できなかった」 
      膝の上でグッと握り締めたリョーマの拳に、不二がそっと触れる。 
      「だからね、越前。キミが…キミたちが、もう一度あの輝いていた頃みたいに笑ってくれるなら、僕は何でもするよ」 
      「不二先輩……」 
      リョーマの揺れる瞳を、不二は柔らかな瞳で見つめ返す。 
      「キミが笑っていれば手塚もいつかは笑うだろう。そして、その手塚の笑顔で、キミは幸せになれるんだよね」 
      瞳を揺らしたまま、リョーマは深く頷いた。不二が微笑む。 
      「だから、僕は何でもしてあげる。キミが幸せになるなら、何でもね」 
      不二の淡い色合いの瞳が静かにリョーマを見つめる。その瞳がなぜか儚げに見えて、リョーマは切なくなった。 
      だが、リョーマが何か言おうとするのを遮るように、不二がスッと立ち上がる。 
      「……散歩でもしようと思ったのに雨が降ってきたみたいだよ」 
      「え…」 
      「国宝級の日本庭園みたいな公園なら、雨の中でも歩いてみたいけどね」 
      肩をすくめて戯けたように言う不二に、リョーマは小さく微笑んだ。 
      「もう少し、寝ていようか。……せっかく休みなんだし」 
      そう言って笑う不二に、リョーマも微笑みながら「はい」と言って頷いた。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  時間と共に、雨は本降りになっていった。 
      「国宝級の日本庭園じゃなくてすみません」 
      傘の中からリョーマが上目遣いで不二に言うと、不二は「いいよ」と言って微笑んだ。 
      リョーマと不二は、あの、高架下のコートに向かって歩いている。 
      あの場所で、リョーマは手塚に「証」を残さなくてはならない。 
      手塚と、そう約束したから。
 
 
  リョーマは途中で小さな雑貨屋に入ってポストカードとペンを仕入れた。 
      「それにメッセージ書くの?」 
      「まあ……そっス」 
      「ふぅん」 
      店の軒先で、リョーマは買ったばかりのポストカードに何か書き込みながら、不二に曖昧な返事を返す。 
      「……これでよし、っと」 
      「なんて書いたんだい?」 
      「あっ」 
      リョーマの手からひょいっとカードを取り上げると、不二がじっと眺める。 
      「……これは、キミと手塚にしかわからないことなんだね」 
      「……はい」 
      不二はニッコリと微笑んで、リョーマにカードを返した。 
      「でもそれ、どうやって手塚に渡すの?まさか直接手渡しにはできないでしょう?」 
      「……ベンチに…置いておこうかと思って」 
      「………とにかく行こうか」 
      「はい」 
      もうすぐ昼になる。手塚と鉢合わせしないためにも早く行かなくてはと、リョーマは歩く速度を少し速めた。
 
 
  雨が降ろうが晴れていようが、相変わらず誰もいないこのコートの周辺には、雨の音だけが響いている。 
      時折忘れた頃にやってきて高架を渡る電車も、今日は少しだけスピードを抑えているのか、いつもより音が優しい。 
      リョーマは昨日手塚と一緒に座ったベンチの前に立ち、ポケットから自分のハンカチを出してそこに敷いてから、先程のポストカードをその上に置いた。ポストカードが飛ばないように、ファンタのグレープの缶を重し代わりにして置く。これも『越前リョーマからのメッセージ』であることの、ちょっとした証。 
      そうしておいてから、リョーマは自分の持っていた傘をそこに差し掛け、柄の部分を巧くベンチに固定させてカードが雨に濡れないようにした。 
      「…僕の傘に入って。濡れちゃうよ、越前」 
      「……すみません」 
      そう言って不二の傘に入りながら、リョーマは小さく溜息を吐いた。 
      本当は、一目でもいいから手塚に逢いたかった。 
      だが、今日だけはどうしても、顔を合わせるわけにはいかない。絶対に。 
      万が一手塚と出逢ってしまって、この「証」を置いたのがリョーマだと、つまりは、『越前リョーマ』がここにいるのだとバレてしまっては、何もかもが水の泡になる。 「行きましょう、不二先輩」 
      「うん………どうやら少し急いだ方がいいようだよ」 
      「え?」 
      不二が見つめる先に、こちらに歩いてくる手塚の姿が見えた。 
      「なんでこんなに早く…」 
      「越前、こっちに」 
      不二はリョーマの手を引いてベンチから離れた。 
      だがこのまま真っ直ぐ走ったのでは逃げる姿を見られてしまう。リョーマがそう思うのと同時に不二が脇の木の陰へリョーマを勢いよく引っ張り込んだ。 
      傘をたたみ、太い木の幹に身体を隠すようにして、リョーマと不二は手塚の様子を窺う。 
      手塚はベンチの前に来ると、辺りを見回した。 
      そうして誰もいないと判断したらしく、深い溜息を吐いて、そっと、ベンチに置かれた「証」を手に取った。 
      ファンタの缶を眺め、それからポストカードを見、裏に書かれた文字列を読んだ途端、手塚の手から、傘が滑り落ちた。 
      雨が木々の葉を打つ音しかしない世界で、手塚は天を仰いだ。 
      (国光……) 
      手塚は動かなかった。 
      動かずに、天を仰いだまま、ただじっと雨に打たれている。 
      リョーマは手塚に駆け寄って思い切り抱き締めたい衝動を必死に堪えた。 
      自分はここにいると伝えたい。 
      死んでなどいないと、自分の言葉で手塚に伝えたい。 
      冷たい雨に打たれ続ける手塚に、この温もりを、分けてやりたい。 
      「国光……」 
      小さく小さく呟かれたリョーマの声が聞こえたかのように、手塚がピクリと動いた。 
      もう一度手の中のポストカードを見つめ、ゆっくりと、視線をリョーマたちのいる方へ向ける。 
      「越前、ちょっと、我慢しててね」 
      「え?」 
      不二が、リョーマの身体をグイッと引き寄せた。 
      「なっ?」 
      慌てるリョーマに、不二は「ごめん」と言いながら、頬と頬をすり寄せるように顔を近づけ、身体を密着させる。 
      「…今だけ恋人らしくして。僕の首に腕を」 
      「………」 
      リョーマは不二の思惑がわかり、小さく頷いてから不二の首に両腕を回して縋りついた。 
      足音が、近づいてくる。 
      だが、その足音は、すぐ近くでピタリと止んだ。 
      「………不二、か?」 
      背を向けている不二に、手塚が声をかける。 
      不二はわざとらしくリョーマの頬に音を立ててキスしてからゆっくりと振り返った。 
      「あ、手塚。…恥ずかしいところ、見られちゃったね」 
      「………」 
      不二の影からチラリと見えたリョーマを見て、手塚の瞳が小さく見開かれる。 
      「…いや、俺の方こそ邪魔をしたようだな。すまない」 
      ビクリと、リョーマの身体が震えた。 
      手塚にまた誤解された。 
      いや、誤解どころではすまない。『現場』を見られたのだから。 
      手塚にそう思わせるために芝居をしているのだと頭ではわかっていても、やはり、リョーマの心は引き絞られるような痛みを訴えてきた。 
      手塚を見ることができず、俯いてしまったリョーマを、不二が柔らかく抱き締める。 
      「あまり家ではこういうコトできなくてね。今日は雨だし、ここなら絶対に人が来ないかと思ったんだけど」 
      「ああ、すぐに退散するが………ずっとここに居たのなら、あのベンチの辺りに人影を見なかったか?」 
      「いや?気づかなかったけど」 
      演技とは思えないさりげない仕草で首を傾げてから、不二は「そう言えば」と付け足した。 
      「ここに来る途中、二十歳くらいの子と擦れ違ったけど……それがどうかしたの?」 
      手塚は一瞬不二を強い瞳で見つめ、だが、あっさりと逸らした。 
      「………そうか。ありがとう。…邪魔を、したな…」 
      そう言って手塚はくるりと背を向け、来た道を戻っていこうとして、静かに足を止めた。 
      「不二」 
      「……なんだい、手塚」 
      手塚はほんの少しだけ不二を振り返ってから、また天を仰いだ。 
      「…明けない夜はないと、…信じてもいいのだろうか」 
      不二は手塚の背を見つめて小さく微笑んだ。 
      「僕はそう信じるよ。どんな嵐の夜だって、どんなに暗い闇夜だって、朝が来ない夜はないって」 
      視線を足下に落としてから、手塚が振り返った。 
      「………そうだな」 
      「うん。この雨だって、じきに止むよ」 
      「ああ」 
      手塚は小さく頷いてから、リョーマを見た。 
      「昨日はすまなかった。君はテニスが好きなんだろう?ここに来るのは自由だ。俺に気を遣わず、毎日でも来ていい」 
      静かな声で言われ、リョーマは驚いたように手塚を見た。 
      「え……」 
      「俺も、君のことは、気にしないことにする」 
      リョーマは大きく目を見開いた。 
      手塚の言葉を、どう受け取ればいいのかわからなかった。 
      ただ、もう気にしない、ということは、手塚は自分を通して『越前リョーマ』の影を追わなくなるということなのだろう。 
      それはつまり、『越前リョーマに似た存在』である自分には、もう意識を向けることはないと、そういう意味なのか。 
      不二の腕を掴むリョーマの手が、カタカタと小さく震え出した。 
      手塚の恋人である『越前リョーマ』として顔を合わすことができないなら、そうあるべきだとわかっている。だが、手塚に見つめてもらえないと思うだけで、リョーマの心は引き千切られるように痛んだ。 
      「……それと、テニスをするなら、これ以上身体は冷やさない方がいい。…じゃあ」 
      青ざめて言葉を失くすリョーマをじっと見つめてから、手塚は再び背を向けた。 
      手塚が去ってしまう、と思った瞬間、凍り付いていたリョーマの唇が動いた。 
      「あのっ!」 
      手塚が小さく身体を揺らして立ち止まる。 
      「ハ、ハンカチを……返します……ありがとうございました…」 
      キレイに洗って、アイロンを借りて乾かして、いつでも手塚に返せるようにポケットに入れておいてよかったと、リョーマはチラリと思った。 
      不二から離れてポケットからその白いハンカチを取り出し、リョーマは雨に濡れないように注意しながら、手塚に差し出す。 
      手塚は背を向けたまま、小さく溜息をついたようだった。 
      そんなことにさえ、リョーマはビクッと身体を揺らしてしまう。 
      手塚の反応が、その一つひとつが、怖かった。 
      振り返った手塚は微かに眉を寄せていた。そうしておずおずと差し出されるハンカチを見つめ、そっと受け取る。 
      ホッと安堵の息を吐くリョーマを無言で見つめていた手塚が、いきなりリョーマの腕を取って自分の方へ引き寄せた。 
      「えっ?わ、なに…?」 
      動揺するリョーマの髪を、手塚は受け取ったばかりのハンカチで拭い始めた。 
      「え……あの……?」 
      手塚はただ黙ってリョーマの髪の水分を拭き取り、額や頬の水滴も拭ってやった。 
      「すぐに家に帰って着替えた方がいい。身体が冷えると故障の原因になる。……ハンカチは、返さなくていいから」 
      眉を寄せた表情のまま手塚にそう言われ、リョーマは不思議そうに手塚を見上げながらも小さく頷いていた。 
      「不二」 
      「…わかった、すぐ帰って、この子をお風呂に入れて暖めるよ」 
      不二の言葉に頷くと、手塚は上着のポケットに入れていたファンタの缶を取り出し、リョーマに手渡した。 
      「君も好きだと言っていたな」 
      「……はい…」 
      頷くリョーマに小さく頷き返してから、今度こそ手塚は背を向けて歩き出した。 
      「ありがとう、ございましたっ」 
      手塚の背に礼を言うリョーマに、手塚は何も答えなかった。 
      (国光……) 
      手塚が角を曲がるまで見つめ続けていたリョーマは、傘を差し掛けていてくれた不二を振り返った。 
      「部長は……なんで、これ……」 
      不二に問いかけてみたが、不二は「さあ」と言って微笑むだけだった。 
      リョーマはじっとファンタの缶を見つめる。 
      見つめながら、いつの間にか微笑んでいた。 
      手塚はきっと、あの夢の中のことを信じてくれたのだ。 
      『越前リョーマ』が生きていると、そうして手塚の元に必ず還るのだという約束を、信じてくれたのだと思う。 
      手塚の胸に希望の光を灯すことができたのだ。そのことがリョーマにはひどく嬉しい。 
      「国光……もう少し、待っていて……」 
      小さく呟かれたリョーマの言葉は、優しい雨の音に吸い込まれた。
 
 
 
 
  角を曲がったところで、手塚は立ち止まって壁に凭れていた。 
      ポケットからポストカードを取り出し、書かれている文字を、そっと指でなぞる。 
      「リョーマ…」 
      裏に返すと、美しい夕陽が、そこにはあった。 
      「I want to return to that day……」 
      あの日に戻りたいと、そこには書かれてあった。 
      二人で美しい夕陽を眺めたあの日に、あの、学校の屋上に戻りたい、と。 
      手塚の頬を一筋の雫が伝い落ちる。 
      それは雨の滴に溶けて、足下に落ちていった。 
      「戻ろう、リョーマ。俺は、待っている……」 
      手塚はリョーマの書いた文字にそっと口づけると、雨粒を拭ってから、大事そうにポケットにしまった。 
      傘を広げて、手塚は再び歩き出した。
 
 
 
 
  「ねえ、不二先輩」 
      「ん?」 
      「明日、晴れたら、このコートで、練習してもいいっスか?」 
      手の中のファンタの缶を見つめながら言うリョーマに、不二は柔らかく微笑んだ。 
      「いいよ。ボールも、少し買い足そうか。キミをお風呂に入れて暖めてから、ね」 
      「ういっス」 
      嬉しそうに微笑むリョーマに、不二も微笑み返す。 
      「…きっと、大丈夫だよ」 
      微笑みながら、優しく呟かれた不二の言葉に、リョーマは不二を見上げた。 
      「キミたちなら大丈夫。きっと、何があっても、キミたちの絆は断ち切れはしないようだから」 
      不二の揺るぎない確信がどこから来るのかリョーマにはわからなかったが、その確信は、自分も信じたいと思った。 
      「はい」 
      強い瞳で返事を返すリョーマに、不二はまた微笑んだ。 
      「きっと、もうすぐ、すべての決着がつく気がするよ」 
      「………はい」 
      リョーマは笑みを消して頷いた。 
      その予感は、リョーマの中にも湧き上がっていた。 
      ソウマなら、きっと巧くやってくれる。自分とよく似たあの微笑みが、リョーマにそう確信させているのだ。 
      (あと少し…。絶対に、戻ってみせるから…!) 
      リョーマはキュッと、唇を噛んだ。 
      「あ」 
      不二の言葉にリョーマは顔を上げた。 
      「雨が止んだよ、越前」 
      「ホントっスね。……虹、出るかな」 
      空へ視線を向けるリョーマを、眩しそうに不二が見つめていた。
 
  止まない雨はない。 
      明けない夜はない。
  だから、きっと、自分たちにまとわりついているこの暗闇にも必ず光は差すのだと、リョーマは思う。 
      「待っていて、国光」 
      空に向けて放たれたリョーマの言葉の向こうに、生まれたての虹が架かった。 
      
 
 
 
 
 
  
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      20050205
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