  辛い過去
   <2> 
      
  振り向いた手塚は、24歳の手塚ではなく、中学時代の、リョーマが好きになった手塚の姿をしていた。 
      リョーマは躊躇いなく駆け寄り、その胸に身体をぶつけるように抱きついた。 
      思い切り抱き締めるときつく抱き締め返された。 
      胸に頬をすり寄せると、髪に口づけられた。 
      背に手を回せば胸深く抱きすくめられた。 
      「越前……」 
      「部長……」 
      名を呼ばれ、呼び返す。 
      頬をそっと両手で包まれ、顔を上げさせられた。 
      「越前……」 
      リョーマはそっと目を閉じる。手塚の唇が、優しくリョーマの唇に触れた。 
      「越前……」 
      少しだけ唇を離して甘く名を呼ぶ手塚の掠れた声が、リョーマの心も、唇も、睫毛も、小さく震わせる。 
      「越前…っ」 
      深く深く口づけられた。口づけながらきつく抱き締められた。 
      「ん……っ」 
      口を開けさせられ、奥まで手塚の舌が入り込んだ。 
      舌を絡め取られ、吸い上げられ、何度も角度を変えて、リョーマのすべてを確かめるように舌で口内を撫でられ、唇を甘く噛まれて、リョーマは眩暈を起こす。 
      立っていられずに手塚に縋りつくと、さらにきつく抱き締められ、息を継ぐ間も与えられないほど唇を貪られた。 
      「ん、ぅ……っん……」 
      こんなキスは初めてだった。 
      リョーマは手塚に縋りついたまま、やっと少しだけ開放された唇で息を継ぐ。 
      「ぶちょ……」 
      「逢いたかった…」 
      「………」 
      「逢いたかった……、逢いたかった……っ」 
      血を吐くような手塚の言葉にリョーマの胸が詰まる。 
      リョーマがゆっくりと瞳を開けると、すぐ目の前にある手塚の瞳から、透明な雫が一筋、零れ落ちていった。 
      「逢いたかった…」 
      その言葉だけを繰り返す手塚に、リョーマは自分からそっと口づける。 
      「ごめん、部長……ずっと独りにしたままで……」 
      手塚は何も言わず、もう一度リョーマの身体を深く掻き抱いた。 
      リョーマの胸の奥が切ない音を立てる。 
      「……やっとアンタを抱き締められたよ、部長……早く、こうしたかったのに……ごめん…」 
      「………」 
      「大好き……」 
      リョーマの言葉に、手塚は声もなく泣いていた。 
      震える手塚の肩に、リョーマは甘えるように額をすりつけた。 
      「………なんでオレたち…こんなコトになっちゃったんだろうね……」 
      ビクリと、手塚の腕に力がこもる。 
      「アンタと……観覧車に乗りたかっただけなのに……」 
      「………」 
      リョーマを抱き締めたまま、手塚はゆるゆると首を横に振った。 
      「…もういい……こうしてお前をまた抱き締められたんだ……もう、何もいらない……」 
      「部長……」 
      「名前で呼んでくれないか……リョーマ…」 
      リョーマはほわっと頬を染めた。 
      本当はずっと前から手塚のことを名前で呼びたかった。だが、友人を名前で呼び捨てるのと違い、どこか恥ずかしくてなかなか手塚のことをファーストネームで呼べなかったのだ。 
      「……国光」 
      「ああ」 
      「国光」 
      「リョーマ…」 
      甘い吐息を零しながら手塚がリョーマの髪に頬擦りした。 
      「もう離さない、……リョーマ……」 
      「…………」 
      リョーマは眉を寄せ、顔を曇らせた。 
      二時間経ったら、また手塚と離れなければならない。 
      このまま抱き合っていたいという誘惑に負けそうになるが、もしもそうしてしまったら、リョーマも手塚も夢の中から抜け出せなくなってしまうのだ。 
      そしてそれは、リョーマの元いた世界で、もう一人の手塚につらく悲しい時間を課すことを意味する。 
      リョーマはギュッと目を閉じて、流されそうになる心の弛みを引き締めた。 
      「…国光……オレがいなくなったあと、どうしてた?」 
      呟くようなリョーマの言葉に、手塚は腕を緩めてリョーマを覗き込んだ。 
      「…なぜ?」 
      リョーマは真っ直ぐに手塚を見つめた。初めて見た手塚の涙に恋情が募り、理性が感情に負けそうになる。 
      だが、負けてしまうわけにはいかない。 
      「知りたいから。…オレがいなくなったあと、どうなったのか…」 
      手塚は小さく目を見開いて黙り込んだ。揺るぎないリョーマの瞳に、スッと目を細め、どこか探るように見つめてくる。 
      「………話したくない」 
      「………」 
      リョーマは俯いた。この手塚の答えは、充分予測してはいた。 
      だがその時にどう言えばいいかは、まだ考えていなかった。 
      (どうしよう…) 
      俯いたまま考え込むリョーマの髪を、手塚の指が優しく掬った。ふと、リョーマが顔を上げると、涙を拭い、ひどく嬉しそうな瞳をした手塚に見つめられていた。 
      「…リョーマ…」 
      「……なんスか?」 
      「好きだ」 
      囁かれ、額に口づけられて、また抱き締められる。 
      「…これが夢なのはわかっているんだ」 
      「え?」 
      手塚の呟きに、リョーマは身じろいだ。 
      「わかっている。目が覚めれば、またお前のいない世界が待っていることも。だから、もう、このまま目覚めたくない」 
      「ダメだよ!」 
      リョーマは無理矢理身体を離して手塚を見上げた。 
      「リョーマ?」 
      「このまま目覚めなかったら、オレはアンタの元に還ることが、本当にできなくなるんだ。オレはそんなのいやっスよ!ちゃんと、本当のアンタと一緒にいたい!」 
      手塚が大きく目を見開いた。 
      「俺の元に、還る?」 
      「アンタの『越前リョーマ』は、本当は死んだりしていないんだ。アンタが好きで好きで、好きだから、アンタのところに戻りたくて、こうやってチャンスを探して………痛っ」 
      強く腕を掴まれて、リョーマは小さく悲鳴をあげた。 
      「死んでいない?それはどういう意味だ?」 
      「………詳しいことは言えないっス。でも、オレを信じて欲しいんです!」 
      手塚がリョーマの腕を強く掴んだまま、食いかかるように瞳を覗き込んでくる。リョーマも手塚の瞳を真っ直ぐに、強い瞳で見つめ返す。 
      二人の間に長い沈黙が流れた。 
      「……ならばなぜ……10年も……」 
      手塚の瞳が切なげに揺れる。 
      「なぜ10年も経った『今』なんだ。なぜもっと早く、たとえ夢の中ででも、俺の前に現れてくれなかったんだ…」 
      「…っ」 
      「この10年、俺はずっと後悔してきた。……なぜあの時、お前の手を離してしまったのかと…」 
      手塚はリョーマの手を取り、そっと握り込んだ。 
      「こうして繋いでいた手を離しさえしなければ、お前が逝ってしまうことはなかったのに…」 
      「国光…」 
      「もう後悔しながら生きるのは嫌なんだ。だから俺は、この手を二度と離さない」 
      握ったリョーマの手を自分の口元に引き寄せ、手塚が優しく口づける。 
      何度も手の甲や指先に口づけられ、大事そうに胸に抱き締められて、リョーマの胸に、熱い塊が込み上げてきた。 
      「………なぜ、泣くんだ、リョーマ…」 
      「ぅ……っ」 
      リョーマは堪えきれずに涙を流していた。 
      もう泣かないと、決めたはずだった。泣いて瞳を閉じるよりも、真っ直ぐ前を見つめて、元の世界に還るチャンスを見つけようと。 
      だが、切なすぎるのだ。 
      手塚の瞳が、声が、手の温もりが。 
      すべてがリョーマへの想いに満ちあふれていて、涙を流さずにはいられない。 
      こんなにも想われていて、嬉しくないはずがない。なのに、今は、それがつらい。 
      リョーマを亡くした瞬間の手塚の衝撃はどんなに大きなものだったのだろう。 
      リョーマを想いながら過ごす時間は、どれほどの悲しみに満ちていたのだろう。 
      生きる気力だけでなく、生きることをやめる気力すら奪われるほどの喪失感とは、どれほどのものなのか。 
      あれほど輝いていた人が光を失くし、その存在感さえも稀薄に成り果てるほど、後悔と苦悩の中で生きることがどんなに凄惨なものなのか。 
      きっとリョーマにはその片鱗すら想像できていないだろう。 
      手塚の想いが、悲しい。 
      「………っぅ」 
      リョーマは握られている自分の手を手塚の手ごと引き寄せ、その手の甲に口づける。 
      「………リョーマ…?」 
      手塚の苦痛がどれほどのものだったかは、リョーマにはわからない。 
      だが、手塚がその苦痛の中で苦しみ藻掻いたことだけは、痛いほどにはっきりとわかる。 
      だから。 
      「オレは、アンタの元に還りたいんです………アンタに、そんなつらい思いをさせないためにも……」 
      涙に濡れた真っ赤な目を、リョーマは手塚に向けた。 
      「オレは絶対に、アンタの元に還るから。だから今は、オレのことを信じてください」 
      「…………」 
      手塚がリョーマを見つめる。静かな、どこまでも透明な、それでいてその奥底までは見通せないほどの悲しみを湛えた瞳。 
      「………何を、話せばいいんだ?」 
      目を伏せて、小さく溜息を吐いてから、呟くように手塚はそう言った。 
      「あの事件が起きた辺りのことを、オレに教えてください。あの時、何が起きたんですか…?」 
      「手を……握っていてくれるか?」 
      「はい」 
      頷いて、リョーマはしっかりと手塚の手を握り直した。 
      そうして手塚は『あの日』起きたことを淡々と語り出した。
 
  「……昼食のあとで、リョーマが好きだと言うから、観覧車に乗ることにしたんだ。かなり列ができていて、俺たちはその列に並ぶことにした。だが、もうすぐ俺たちの順番だというところで、列の後ろの方が騒がしくなった。武装した警察官らしき連中が現れて、観覧車を封鎖したんだ。爆弾が、…仕掛けられたから、と」 
      手塚がリョーマの手をグッと握り込んだ。リョーマもしっかりと握り返す。 
      今のところ、リョーマの記憶にある光景と変わりはない。問題はこのあとだった。 
      「観覧車に並んでいた客たちは全員離れたところまで下げられた。俺とリョーマも、もちろん立ち入り禁止のテープの外へ出た。だがリョーマが、観覧車乗り場のところに人影を見たと言い出して……テープを潜って中へ入っていってしまったんだ。そして………」 
      リョーマの手を握り締めたまま、手塚は顔を顰め、口を噤んでしまった。その先を言葉にすることは、手塚にはまだできないらしい。 
      「………うん……それで、そのあとアンタはどうしたの?」 
      「お前を探した」 
      「…探した?」 
      手塚は揺れる瞳でリョーマを見つめて頷いた。 
      「爆発が起きたあと、お前が消えてしまったんだ。皆、お前は身体の破片すら残らないほど粉々になってしまったと………そう言っていたが……俺には信じられなかった」 
      リョーマは手塚の手を両手で包み込んだ。オレはココにいるよ、…と。 
      自分の死体がなかったと聞いてリョーマは安堵した。それならば、この10年後の世界でも、自分が『生きている可能性』が完全に絶たれたわけではないからだ。 
      「…犯人は?」 
      「犯人?」 
      「アンタに捕まえておいてって言ったでしょ?オレたち後ろの方にいた、小太りの男」 
      「…いや。俺たちの後ろにそんな男はいなかった」 
      「?………じゃあ犯人は警察にもまだ捕まっていないんスか?」 
      手塚は頷いた。 
      「未だに手掛かりすらないようだ。捜査は完全に行き詰まってしまっているらしい」 
      「………そっスか…」 
      眉を寄せて俯いてしまったリョーマを見て、手塚はゆっくりと息を吐いた。 
      「………もう、いいか?」 
      あ、と顔を上げて、リョーマが小さく微笑んだ。 
      「ありがと、部長。……じゃなくて、国光。……思い出させて、ごめん…」 
      手塚は目を伏せると、リョーマを抱き寄せた。 
      「……自分でも、これほど冷静に話せるとは思っていなかった」 
      そう言って、手塚はまた息を吐いた。 
      抱き締められてリョーマは気づいた。手塚の身体が、微かに震えている。 
      「ごめん……つらいこと話させて……ごめんなさい…」 
      「………」 
      答えない手塚を見上げると、口づけられた。 
      「……お前の言葉を信じようと決めたのは俺だ。お前は俺の元に還ってくると。還るために、あの時のことを聞きたいと…そう言ったから、話せたんだ」 
      「うん。絶対、アンタのところに還るから。もう少し、待ってて」 
      手塚は小さく頷いた。 
      その瞳の中に小さな光を見つけた気がして、リョーマは微笑んだ。 
      「国光…オレがアンタのところに戻ったら………オレを、全部、アンタにあげるから…」 
      「…え?」 
      「だ、だからそのっ………アンタと……その……したい…かな……って……」 
      手塚が目を見開いた。 
      「リョーマ…」 
      「ホントは、観覧車の中で言おうと思ってたんだ。だけど、こんなことになっちゃって……だから、今、言っとこうと思って……」 
      「…夢の中で、か?」 
      手塚の瞳が優しく細められた。 
      「だって……今はまだ夢じゃないと、アンタとまともに話もできないから……今、言わなきゃって…」 
      言い終わらないうちにリョーマの身体がきつく抱き締められた。 
      「ならば…これがただの夢じゃないと…何か、約束の証をくれないか」 
      「あかし?」 
      耳元で囁かれて、うっとりと目を閉じながらリョーマは訊ねた。手塚は「ああ」と頷く。 
      「俺に、もう一度、……生きていることへの価値を与えてくれ」 
      「………」 
      「お前を信じて待っていてもいいのだと、……わからせてくれ」 
      リョーマは一度目を閉じて考え込んだが、スッと目を開き、何かを決意したような瞳で手塚を見上げた。 
      「………じゃあ、明日…」 
      「明日?」 
      手塚がそっと身体を離し、リョーマの瞳を覗き込んだ。 
      リョーマは真っ直ぐに手塚を見つめる。 
      「明日……あの高架下のコートに来て。ベンチに、アンタへのメッセージを置いておくから」 
      「………わかった。何時頃に行けばいい?」 
      「アンタがいつも行く時間でいいよ。お昼頃なんでしょ?その頃に、置いておくから」 
      一瞬沈黙してから手塚は「わかった」と言って頷いた。 
      リョーマも微笑みながら頷く。 
      そうしてどちらからともなく、もう一度唇を重ねていった。 
      先程の貪るような口づけではなく、優しく、それでいてどこか官能をくすぐるような口づけに、リョーマの頬が熱くなってゆく。 
      「……ねえ」 
      そっと離れた唇で、リョーマがクスッと笑った。 
      「なんでココにいるアンタは『オレの知っている』姿なんスか?……オトナのクセに」 
      「………大人の姿の方がよかったか?」 
      「どっちも好き。国光だから、大好き」 
      手塚は黙ったまま小さく笑った。 
      その笑顔を見て、リョーマの瞳が輝く。 
      「……もっと、アンタの笑顔、取り戻してあげるから……」 
      「……お前が還ってきてくれればいいんだ」 
      優しい手で髪を撫でられて、リョーマはうっとりと目を閉じる。 
      「うん……絶対にアンタのところに還るよ…」 
      「ああ……お前の言葉を……この夢を、信じる」 
      額にキスを落とされる。少しだけ目を開いてリョーマが手塚の首に腕を回すと、深く口づけられた。 
      口づけたまま手塚の腕がリョーマの腰にまわり、グイッと引き寄せられる。 
      「あ………」 
      押しつけられる手塚の下腹部が熱い。リョーマの頬が真っ赤に染まった。 
      手塚がリョーマの首筋に顔を埋める。そこに小さな痛みが走って、リョーマは「あッ」と小さく声を上げた。 
      「リョーマ…」 
      熱っぽい瞳がリョーマを見つめる。 
      「国光…」 
      「リョーマ…好きだ…」 
      抱き締められ、吐息と共に耳元で囁かれて、リョーマの身体がびくんと撥ねた。 
      「ダ、ダメだからね、まだ…」 
      「……ああ……ここではしない……キスだけだ」 
      そう言って、もう何度目かわからない深い口づけを交わす。 
      手塚の唇も、熱い舌の感触も、時折唇を噛まれて疼く身体も、すべてはっきりと感じるのに、これが現実ではないことが、リョーマにはひどく切なくなってくる。 
      頬の熱さに潤む瞳で手塚を見上げると、少し乱暴な激しさでまた深く口づけられた。リョーマも手塚の身体にしがみつくように抱き締め返す。 
      深く深く、二つの身体が溶け合ってしまえばいいとすら思えてくるほど、二人は互いの身体を抱き締める。 
      愛しさが、止まらない。 
      「あ……国…光…」 
      「…リョーマ…っ」 
      きっともう時間が少ない。頭の片隅でそうわかっているが、どうしても手塚と離れることがリョーマにはできない。 
      「ああ…っ」 
      服の裾から手塚の手が入り込み、リョーマの敏感な肌に触れてくる。 
      すでに尖りきっている突起を見つけられてしまい、摘み上げられて、リョーマは大きく身体を揺らす。 
      「やっ、あっ」 
      服を捲り上げられ、露わにされた突起に手塚が唇を寄せる。 
      「あっん」 
      きつく吸い上げられ、突起の周辺にも痕を残される。 
      「あっ、ああんっ」 
      このままでは流されてしまう、とリョーマが思った瞬間、けたたましいアラームの音が辺りに鳴り響いた。 
      「っるさ…」 
      「何の音だ?」 
      今までの官能的なムードを粉々に粉砕したその音に、手塚も眉を寄せている。 
      「ごめん、もう行かなきゃ…」 
      手塚が目を見開いて顔を強ばらせた。 
      「大丈夫」 
      そんな手塚を、リョーマは優しく抱き締めた。 
      「オレは約束は破らないよ。だから、アンタも約束して。オレのこと、待ってくれるって」 
      「………」 
      切なげに眉を寄せて、だが、手塚は頷いた。 
      「…明日、あのコートに…」 
      「ああ。必ず行く」 
      リョーマの身体が後ろに引かれ始めた。 
      「国光……大好き……っ」 
      「リョーマ…っ」 
      伸ばされた二人の指先が微かに触れて、ぐいと引き離された。 
      みるみる小さくなってゆく手塚の姿に、リョーマは唇を噛み締めた。 
      (絶対、アンタのところに戻るから…っ!)
 
 
 
 
  身体が深い海から浮上してゆくような感覚があった。 
      「……うるさいっス」 
      そう言って、リョーマは目を閉じたまま耳元に置かれた大音響で鳴り続ける目覚まし時計のアラームを止めた。 
      「越前!」 
      『よし、戻った!』 
      不二とソウマが同時に声を上げた。 
      リョーマがゆっくり目を開けると、安心したように大きく息を吐く不二と、満足げに微笑むソウマの姿が見えた。 
      『なかなか戻らないからダメかと思った。………うまくいった?』 
      「うん」 
      ソウマに向かってしっかりと頷いてみせると、ソウマはまた笑った。 
      『あんまりこの先輩に心配かけないようにね』 
      リョーマが視線を移すと、困ったように微笑む不二と目があった。 
      「ありがと、不二先輩」 
      「おかえり、越前」 
      「あ……ただいま」 
      差し出された不二の手を取ると、リョーマの身体を抱き起こしてくれた。 
      「大丈夫?」 
      「ういっス。全然、何ともないっス」 
      「本当に何ともない?」 
      「は?」 
      安心していたような不二の微笑みが、ちょっと意地悪そうな、人の悪い笑みに変わっている。 
      「な、なにが?」 
      自分はどこか変なのだろうかと身体中を見回して、ふと、気づいた。 
      「あ…」 
      「トイレ行ってきたら?」 
      熱く反応している自身を指さされて、リョーマは真っ赤になった。 
      「だ、大丈夫っス!」 
      「いいから行っておいで」 
      「………はい」 
      ノロノロと起きあがって、真っ赤な顔のままリョーマは部屋を出て行った。 
      クスクスと笑うソウマの方に、不二は視線を向ける。 
      「ソウマくん」 
      返事をしても声が届かないとわかっているので、ソウマは意識だけを不二に向ける。 
      「君の声は聞こえないけど、僕の声は聞こえているんだよね。YESだったら右に動いてくれる?」 
      ソウマは右に動いた。 
      「ありがとう。少し訊きたいことがあるんだ。いい?」 
      ソウマはまた右に身体を揺らす。 
      「………君の指導教官的な人が、今捕まらないのは、もしかして違う時空にいるから?」 
      ソウマは少し迷ってから、右に動いた。 
      「それは、越前と手塚が巻き込まれた、あの爆弾事件に関係があるのかい?」 
      また迷って、ソウマは右に動いた。 
      「やっぱり…」 
      何事か考え込む不二に向かって、ソウマは苦笑した。 
      『アンタ、なかなか鋭いね。血筋もいいのになんでアンタが選ばれなかったのか不思議だよ』 
      ソウマの声が聞こえない不二は、またふと顔をソウマに向ける。 
      「そのことは、まだ越前には言わない方がいいのかい?」 
      ソウマは迷わず右に動いた。 
      「うん。わかった。そのことは君の口から、来たるべき時に、越前に言うつもりなんだね」 
      右に動く気配を見つめて不二は頷いた。 
      「それともう一つ訊きたいんだけど」 
      そう言って発せられた不二の質問に、ソウマはゆっくりと右に動いた。 
      「そう……。いつか、僕にも君たちの本当の正体を、教えてくれる?」 
      『いつか、ね』 
      そう呟きながら、ソウマは右に身体を揺らした。 
      「ありがとう」 
      ニッコリと微笑む不二にソウマも微笑みかけた。ちょうどその時、リョーマが顔を赤くしたまま戻ってきた。 
      『さて、じゃあ、話を聴こうか』 
      ソウマの言葉に、リョーマは表情を引き締めた。
 
  あの手塚のつらく苦しい過去は、もう取り消すことはできない。 
      だが、まだ未来に、過去の苦痛を払拭できる可能性があるなら、全力でそれに懸けるしかないとリョーマは思う。 
      (約束したんだ。絶対国光のところに還ってくるって) 
      手塚の見た『過去』に、どんな鍵が隠されているのかはリョーマにはわからない。 
      だが必ず見つけてみせると、リョーマは誓う。
 
  窓の外で漆黒の闇が、ゆっくりと明けてゆくように、リョーマの瞳にも強い光が宿った。 
      
 
 
 
 
 
  
      続
  ←前                            次→
 
 
  掲示板はこちらから→  お手紙はこちらから→ 
 
  
  
      20050202
      |