  忘れ物
  
  
      
  「部長、あんまり変わってなかったっスね」 
      高架下のコートからの帰り道、リョーマはふと、さっき逢った手塚を思い出して呟いた。 
      「…そうだね。背が、伸びたくらい?」 
      「うん……」 
      抱き締められた時、リョーマの頭がすっぽりと手塚の胸に納まってしまったのを思い出した。 
      ギュッと抱き締められた腕の感触も、リョーマの知っている手塚の腕よりも、力強かった。 
      顔は、見ていたが見ていなかった。 観察する余裕などなかったのだ。あの最後に見せた、すべてを諦めてしまった寂しげな瞳しか、今は思い出せない。 
      「……ゴメンね、恋人だなんて言って」 
      「え?あ……」 
      リョーマは不二が咄嗟に張ってくれた『予防線』のことを思い出した。 
      「いいっス。その方が………それで、よかったんス」 
      無理に笑ってみせるリョーマに、不二も小さく微笑み返しながら、「でも、」と呟いた。 
      「笑ったね、手塚」 
      「……はい」 
      リョーマは前を見て、しっかりと頷いた。 
      10年間、笑顔を失くしてしまっていた手塚が、自分に笑いかけてくれた。 
      ほんの小さな、一瞬だけの微笑みだった。それでも、リョーマにとってはとてつもなく嬉しいことだった。 
      (もっと、アンタの笑顔、取り戻したいよ…) 
      「なんか食べて帰ろうか、越前」 
      空気を変えようとするかのように、不二が明るい口調で言った。 
      「ういっス!今、どんな食べ物が流行っているんスか?」 
      リョーマも明るく答える。 
      「うーん…注目されているのはやっぱりオーガニック系の食材を使った料理だけど…若い子の間で流行っているのって、よくわからないんだよね」 
      「……不二先輩、オヤジくさいっスよ」 
      「ワリカンでいいね?」 
      「あっ、ナシ!今のナシで!不二先輩、格好いいっス」 
      プッと吹き出した不二につられるようにリョーマも笑い出した。 
      こんなふうに、手塚にも声をたてて笑って欲しい、と、そんなことを頭の片隅で思いながら。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  翌日、不二は昨日と同じ様に出勤していった。 
      「今日はどうしても遅くなるんだ。ゴメンね。大丈夫?」 
      出がけに不二が心配そうにリョーマを覗き込んだ。 
      「大丈夫っスよ。何とかなるっス」 
      「母さんも出掛けちゃうらしいから、今日のお昼は何か買って食べてくれるかい?お金はこれくらいあればいい?」 
      不二が千円札を二枚渡そうとするのを、リョーマは断った。 
      「昼飯くらい自分で何とかなるっス。大丈夫だから、……ありがと、先輩」 
      そう言って微笑むリョーマに、不二はすまなさそうに頷いて、時間に追い立てられるように出掛けていった。 
      程なくして不二の母親も出掛けてゆき、家の中はガランと静かになる。 
      (そういえば不二先輩にお姉さんって、いなかったっけ?) 
      家で見かけないところをみると結婚したのだろう。 
      (菜々子さんも結婚したかな………親父や母さんはどうしているだろう……カルピンは……) 
      会いに行きたかったが、それは危険なことだとわかっているので我慢しなくてはならない。 
      「………」 
      リョーマは不二のベッドに転がって天井を眺めた。 
      「………退屈」 
      ボソッと呟くと、勢いよく身体を起こす。部屋の隅に置いたままになっている、昨日使ったラケットを見つめ、リョーマはスクッと立ち上がった。 
      「壁打ちでもやろ」 
      リョーマはラケットケースを肩に担ぎ、ボールと財布と昨日帰りがけに作ってもらった不二の家の合い鍵をポケットに詰め込んで、外に出た。
 
 
 
 
  リョーマがいつも一人で壁打ち練習をする場所があった。10年経っても、その場所は残っていた。 
      「よかった」 
      ほっと安堵の溜息を吐いて、早速軽く打ち始める。 
      しばらく続けているうちに体も温まり、テンションを徐々に上げてゆく。が、どうも調子が出ない。 
      (やっぱ緩んでるよな、このガット……) 
      昨日も不二のラケットを借りて打ちながら感じていたが、長いこと使われていなかったラケットはガットも緩んでしまっていた。 
      しかし張り直すことは、今の自分にはできない。それほど金銭的に余裕があるわけでもなかったし、不二に頼むのも気が引ける。 
      「ま、いっか」 
      こうして壁打ちができるだけでもよしとしよう、とリョーマは思った。 
      さらにしばらく打ち続けているうちに、どうにも腹が減ってきた。 
      (今何時だろ…) 
      ふと自分の腕時計を見た。 
      (1時24分か………ん?) 
      じっと時計を覗き込んだリョーマは、デジタル表示の秒数の部分が動いていないことに気がついた。 
      (壊れた?………いや、もしかしたら……) 
      リョーマは自分が爆発に巻き込まれた時のことを思い起こした。 
      手塚とゆっくり昼食を摂って、観覧車に向かったのがちょうどこのくらいの時間だったはずだ。 
      「止まって、いるんだ……時が」 
      きっと自分のいた世界では、この、『1時24分』のまま時が停止しているのだろう。 
      その止まっている時間を再び動かす瞬間、つまり、この時計が再び動き出す瞬間が、すべてを解決させる鍵になるのかもしれない、とリョーマは思った。 
      ソウマは、あの爆発が起きる少し前の時間に戻って、歪んだ時空を組み直すと言っていた。そのために、今、何らかの『作業』をしてくれている。 
      そして、時空を組み直すだけでなく、自分たちが関わってしまったせいで『確定』されてしまったこの世界の手塚も救うために、『もう一人の越前リョーマ』をこの世界へ送り込んでくれるとも言っていた。 
      つまりは。 
      あの爆発の瞬間にできてしまった二つの異なる世界の両方に、『越前リョーマ』を存在させてくれようとしている、ということなのだろう。 
      (そんなこと、どうやって……) 
      そう思いかけて、リョーマは今、自分が10年後にいることを思い出した。そんなことができるくらいだから、ソウマなら何とかできるかもしれない、と漠然とした信頼感が湧き上がる。 
      (でもどうしてそこまでしてくれるんだろう…) 
      時空の歪みを作り出してしまった責任を取るためだと言っていた。だがそれなら、リョーマを元の世界に戻せばすむ話だろう。なのにソウマは、この世界の手塚の元にも『越前リョーマ』を送り届けようとしてくれている。 
      この時代の手塚を見て、哀れに思ったのだろうか。それとも他にも理由があるのか。 
      「…………やめた」 
      考えてもわからないことは考えないでいよう、とリョーマは思った。 
      それよりも今は、 
      「お腹空いた……」 
      この問題の解決の方が先だった。
 
 
  リョーマは近くのコンビニに入って、サンドイッチのパックを二つとおにぎりをひとつ、そしてこの時代になっても売っていてくれた『ファンタ』のグレープを買った。 
      (超ロングセラーだね) 
      こんな些細なことも、今のリョーマには嬉しくて、一人でこっそりと笑った。 
      「どこで食べようかな……」 
      そう言いながらもリョーマの頭の中ではすでに、いつでも人気のない、あの場所が思い浮かんでいた。 
      ここからなら、歩いて行けない距離ではない。 
      「決めた」 
      そう呟くと、リョーマは真っ直ぐそこへ向かって歩き出した。
 
 
 
  ***
 
 
 
  春野台の高架下のコートには、今日もやはり人影は見あたらなかった。 
      リョーマはコートには入らず、その脇に並ぶベンチに腰を下ろして昼食を摂ることにした。 
      ファンタのペットボトルの封を切ると、プシュッと軽快な音がして、甘い独特の香りを漂わせる。 
      「はーっ」 
      ゴクゴクと飲んで、大きく息を吐いた。ちょっと温くなってしまったが、自分の好みの味は、いつ飲んでも美味しく感じる。 
      「いただきまーす」 
      コンビニの袋から、まずはサンドイッチを取り出し、パクッと頬ばる。 
      もしゃもしゃ食べていると、視界の端に人影を捉えた気がして、何気なくそちらに視線を向けた。 
      「っ!」 
      「……君は…」 
      手塚がいた。 
      昨日ほどではないが、手塚はひどく驚いたような、どこか思い詰めたような、そんな表情でリョーマを見ている。 
      「……ちわっス」 
      ドキドキと、リョーマの鼓動が加速してゆく。それでも平然とした表情を作って、リョーマはペコリと頭を下げた。 
      手塚は黙ってリョーマの傍まで歩み寄った。 
      「……昨日はすまなかった。今日は、一人なのか?」 
      「周助サン、仕事だから。アンタは仕事してないの?」 
      「今は昼休みだ」 
      「ふーん。……隣、座れば?」 
      あまりの鼓動の激しさに眩暈を起こしそうだったが、リョーマは何とか平静を装って手塚に自分の隣へ座ることを勧めた。 
      手塚は少し躊躇ったようだったが、小さく頷くと、静かにリョーマの隣へ腰を下ろした。 
      「食べます?」 
      リョーマがサンドイッチを差し出すと、手塚は「いや」と首を横に振った。 
      「お昼食べたんスか?」 
      「ああ」 
      「ふーん」 
      それからしばらく、リョーマは黙々とサンドイッチを食べ続けた。もちろん、味なんてわからなかった。だが手塚の隣にいられることが嬉しくて、それだけで頬が熱くなっていった。 
      手塚もずっと黙ったままだった。 
      両足に肘をつき、身体の前で手を組んでじっとコートを見つめている。 
      そっと、リョーマは息を殺して手塚の横顔を見つめた。 
      リョーマの知っている手塚よりも、顔立ちがさらに男っぽくなっている気がする。だが、少し痩せたような印象がある。痩せた、というより窶れた、という方が正しいかもしれない。 
      相変わらず縁なしの眼鏡をかけていて、時折眼鏡の位置を直す仕草も、10年前と変わっていない。 
      (部長……アンタの笑顔、絶対に取り戻すからね…) 
      サンドイッチを食べ終えて、リョーマはファンタに手を伸ばした。そのリョーマの仕草に視線をよこした手塚が、ヒュッと息を短く吸うのがわかった。 
      「………なんスか?」 
      ファンタを飲みながら、じっと自分を見つめてくる手塚にリョーマが尋ねると、手塚は小さく「いや」と言って、またコートに視線を戻した。 
      「………同じものを、アイツもよく飲んでいたから……」 
      独り言のように呟かれた手塚の言葉に、リョーマは自分の持つファンタを見、少しだけ「しまった」と内心思った。 
      「…ふーん。越前って人のこと?顔が似てると飲み物の好みも似るんスかね?」 
      白々しくならないように、だができるだけ素っ気なく聞こえるように、リョーマは慎重に話す。 
      「本当に、越前じゃないのか?」 
      「えっ?」 
      「いや、………なんでもない」 
      手塚の瞳が、また影を帯びた。 
      あの、すべてを諦めてしまったような、精気のない瞳。 
      「アンタも前はテニスやっていたらしいっスね」 
      「………」 
      「もうやらないんスか?」 
      手塚は何も答えず、コートから目を離さない。 
      リョーマは小さく溜息を吐いておにぎりを手に取った。だが手の中のおにぎりを見つめたまま、それを食べようとはしない。 
      「………越前って人、アンタの何だったんスか?」 
      「………」 
      手塚は答えない。微動だにもしない。話題が『越前リョーマ』に関わるものになった途端、まるでこの場所には自分一人しかいないかのように、リョーマの言葉に全く反応してくれなくなった。 
      リョーマは唇を噛み締めた。 
      本当は、ここに来たのには理由がある。 
      わざわざここまで来て昼食を広げたのは、ここに来れば、また手塚に逢えるかもしれないと思ったからだ。 
      昨日の様子からして、もしかしたら手塚は毎日このコートに来ているのではないかとリョーマは思った。そして案の定、手塚は現れた。 
      だがその瞳には、リョーマの存在は映っていないように思える。 
      手塚の瞳に映っているのは、恋人の、『越前リョーマ』ただ一人。その『越前リョーマ』に似ているというだけでは、手塚の心には入れないのだ。心どころか、意識に触れることさえできないのかもしれない。 
      リョーマが手の中のおにぎりを見つめたままきつく眉を寄せて俯いていると、隣の手塚がスッと立ち上がった。 
      顔を上げて手塚を見つめるリョーマに、一瞥もくれることなく、手塚は背を向ける。 
      「…ここへは、もう来ない方がいい」 
      「え……」 
      「来ないでくれ」 
      リョーマは目を見開いた。手にしていたおにぎりが、ポロリと零れて足下に落ちる。 
      「越前は……俺のすべてだった」 
      「!」 
      「すべてだったんだ」 
      リョーマの心が、鷲掴みにされた。 
      手塚の声はひどく落ち着いていて淡々としているようにも聞こえたが、大きく見開いたままのリョーマの目に映る手塚の拳は、固く固く、握りしめられていた。 
      手塚は堪えていたのかもしれない。何も話さないのではなく、何も、話せなかったのだ。 
      その心に抱えているものは、『越前リョーマに似た存在』が癒せるような、そんな生半可な苦しみではなかった。 
      それは今もなお手塚の心のほとんどを占めていて、少しでも『越前リョーマ』に繋がるものに触れてしまえば瞬時に膨れあがり、手塚から言葉も、笑顔も、思考さえも、奪ってしまうに違いない。 
      手塚の悲しみは、10年経った今でも、いや、どんなに時が流れようとも、風化などしないのだ。 
      「……ごめん…」 
      小さく零れたリョーマの声に手塚の身体が僅かに揺れた。 
      「ごめんなさい…」 
      声が震えてしまった。抑えようと思うのに、唇の震えが止まらない。 
      自分の安易な考えで手塚の心に新たな傷を作ってしまったのかもしれない。そう思うと、リョーマの双眸から涙が溢れてきた。 
      「………っ、ごめ……なさ……っ」 
      誰よりも大好きな人。誰よりも大切にしたい人。なのに、自分自身が、その人につらい思いをさせているのが、堪らなく悔しい。 
      ギュッと目を閉じても、あとからあとから涙が溢れてくる。 
      「…ぅ…っ」 
      泣いてはいけないと思う。自分よりも手塚の方がつらいのだから。 
      だが、自分の浅はかさが悔しい。自分の無力さがもどかしい。そして何より、手塚の心が悲しみで満たされていることが、苦しくてならない。 
      声を殺して泣くリョーマの耳に、手塚の去ってゆく足音が聞こえた。 
      (ごめん、部長……何もできないくせに…余計なことをして……) 
      今だけじゃない。あの時もそうだった。 どうしてあの時、自分は観覧車に近づいていってしまったのだろう。 
      あんなふうに飛び出しさえしなければ、こんなことにはならなかったのに。 
      今更後悔しても何も解決などしないが、後悔しないではいられない。 
      「…っくそっ!」 
      握り締めた拳を膝に叩きつけた。 
      何度も何度も。
 
 
  高架を走る電車の音が、ひどく遠くに感じる。 
      そうして静かな空間に戻った頃、リョーマはゆっくりと目を開けた。 
      未だにパタパタと零れ落ちる雫を袖で拭おうとして、ふと、目の端に何か白っぽいものが映り、視線を向けてみた。 それは丁寧にたたまれたハンカチだった。 
      「なに…?」 
      白地に青いラインの入ったハンカチ。 自分がここに座った時にはこんなものはなかった。だとしたら、手塚が忘れていった物なのかもしれない。 
      リョーマはそのハンカチを手に取り、じっと見つめた。 
      (……違う……忘れていったんじゃない……これは……) 
      新たな涙が、リョーマの瞳からこぼれ落ちた。 
      (オレのために……オレが泣いてるから……オレなんかのために……っ) 
      手塚の優しさが悲しかった。 
      つらいのは手塚の方なのに、泣いている自分を放っておくことができない優しい人。 
      その不器用な優しさが大好きだった。言葉ではなく、いつだってそっと、さりげなく示される優しさが嬉しかった。 
      大好きで、大切な、愛しい人。 
      「部長……っ」 
      リョーマはハンカチで涙を拭った。それでもこぼれてくる涙を、ハンカチで拭い続けた。 何度も何度も拭い続けているうちに、ようやく涙がおさまった。その代わりにリョーマの瞼は真っ赤に腫れて重たくなってしまった。 
      こんなに瞼を腫らして帰ったら不二に何か言われるかもしれないと思いながら、リョーマは重い瞼をあげて空を見上げた。 
      青かった空がほんのりと色を変えてきている。 
      「…帰ろう」 
      ゆっくりとリョーマは立ち上がった。 
      ラケットケースを肩にかけ、落としてしまったおにぎりと、飲み残したファンタのペットボトルをコンビニの袋に入れ、手に提げる。 
      そして、もう片方の手に握り締めたままのハンカチを、そっと見つめた。 
      「洗って返しても、…いいのかな……」 
      もうここへは来るなと、来ないでくれと手塚に言われた。だが、このハンカチを返すためになら、ここに来てもいいのだろうか。 
      (明日…もう一度だけ、ここに来よう…) 
      手塚が来る頃を見計らって、手紙を添えてベンチに置いておいてもいいかもしれない、とリョーマは思う。 
      (遠くから見るだけなら…いいよね、部長…) 
      リョーマはそのハンカチに唇を押し当てた。 
      自分の涙でしっとりとしていたが、仄かに手塚の香りがするような気がした。 
      「明日、返すから………そうしたら…」 
      (そうしたらもう、泣かないから…) 
      リョーマはハンカチをポケットにしまい込んで、コートに背を向けた。 
      今は、涙を流して瞳を閉じるよりも、しっかりと前を見つめて、置かれた状況に流されることなく『自分』を保っていなければならない。 
      それが、手塚の笑顔を取り戻すために、自分にできる唯一のことなのだとわかったから。 
      だから、もう泣かない。 
      泣かずに目を見開いて、真実をしっかりと見つめよう。 
      自分は『越前リョーマ』であり続けながら、この世界では『越前リョーマ』であることを捨てよう。 
      必ず、この止まってしまった時計を動かす時には、手塚の傍で笑っていられるように。 
      そうしてその時には、この世界の手塚にも、笑顔が戻るように。 
      リョーマはグイッと顔を上げた。
 
  リョーマの後ろで、轟音と共に電車が高架を渡っていく。 
      その音は、先程よりもはっきりと、リョーマの耳に届く気がした。 
      
 
 
 
 
 
  
      続
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      20050128
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