  テニスコート
  
  
      
  この10年後の世界に来て、リョーマは不二の家で一晩過ごした。
 
  リョーマは『ここ』にいる間、不二の家に居候させてもらうことになった。 
      不二の家族(弟の裕太は今春から一人暮らしを始めた)には、「彼の家が火事になって大変だから、しばらくうちで預かりたい」と、不二が適当な言い訳を考えてくれた。それならば着替えなど一切持っていなくても変には思われないかもしれない。 
      「替えの服はとりあえず僕のでいいよね。下着や歯ブラシは、今日買ってきてあげるから」 
      シュッとネクタイを締めながら不二が微笑んだ。最初にリョーマが不二を訪ねてきた時とは別人のように、不二は優しく笑いかけてくれる。 
      「お金って、10年前の使えます?少しなら持ってますけど…」 
      「うん、10年前と変わってないよ。大丈夫」 
      「そっスか…」 
      リョーマは何だか少し嬉しくなった。10年経っても変わらない物が、あった。 
      物価もそれほど変化はないと言う不二に、じゃあ自分の生活用品代を、とリョーマが金を渡そうとしたが、不二はニッコリ微笑んで受け取らなかった。 
      「まだ他に何か入り用になるかもしれないでしょう?生活用品は僕に任せて。一応社会人だから収入あるからね」 
      リョーマは申し訳ないと思いつつ、不二の言うようにこの先何があるかわからないので、ここは不二に頼っておこうと、頷いて礼を言った。 
      「……不二先輩って、どんな仕事してるんスか?」 
      「大学の研究室で植物の研究してるんだ」 
      「ふーん」 
      テニスは?と言いかけて、リョーマは口を噤んだ。もしかしたら不二がテニスをやめてしまった理由も、自分にあるかもしれない。 
      そう思うと、リョーマはテニスについては何も訊けなくなる。 
      俯いてしまったリョーマを見て、不二は困ったように小さく笑った。 
      「………テニスを続けているのは乾だけ。隣町でテニスクラブのインストラクターをしているよ。乾汁も健在みたい」 
      「げっ」 
      思い切り嫌そうな顔をしてみせたリョーマを見て、不二が微笑んだ。 
      「大石は医者になるって二浪して医大に入ったよ。タカさんは高校の時からの修行が実って、今じゃ立派な跡取りだし、英二はスポーツ雑誌の編集部に就職して取材に飛び回ってる。桃は今年から体育の先生。海堂は………何になったと思う?」 
      「え?……うー……刑事、とか?」 
      突然話を振られて、リョーマはいろいろと想像してみるが、思いついたのはそれくらいだった。 
      「動物園でペンギンの世話してる」 
      「ええっ?ペンギンっスか?」 
      素っ頓狂な顔をしたリョーマに、不二は声をたてて笑った。 
      「………手塚はね、僕みたいに大学の研究室に入って、考古学の研究をしているんだ」 
      「………そっスか……」 
      「手塚は………笑わなくはなったけど、ちゃんと生活はしているよ」 
      「………」 
      リョーマは黙ったまま小さく頷いた。 
      チラリと見た手塚の顔色があまりよくなかったので少し心配だった。病気じゃないのならよかった、と安堵の溜息をつく。 
      「越前」 
      呼ばれて、リョーマは顔を上げた。不二がそっとリョーマの髪を撫でる。 
      「……今日は午後から休むから、テニスしに行く?」 
      「え?」 
      「ラケットはちゃんととってあるよ。ああ、でも、久しぶりだから、少し手加減してくれないと困るけど」 
      不二の言葉に少し驚いたが、すぐにリョーマは嬉しそうに微笑んだ。 
      「ういっス!」
 
 
 
 
  ***
 
 
 
 
  約束通り、不二は午後になって家に帰ってきた。 
      「さ、行こうか」 
      「…ういっス」 
      テニスなどやっている場合じゃないとは思う。だが、じっとしていると、考えなくてもいいことまで考えてしまって、何もできない苛立ちがひどくなってくる。 
      だから、リョーマは不二の誘いに頷いた。 
      ほんの少しの間でもいいから、何も考えずに、少し前の自分のように、ただ、ボールだけを追っていたかった。 
      「どこのコート、行くんスか?」 
      リョーマは不二の隣を並んで歩きながら、沈みそうになる自分の気を紛らわすために、テニスの話題を話そうと思った。 
      「うん…結構穴場なんだけど……たぶんキミも知っているんじゃないかな。春野台の、高架下のコート」 
      「え……」 
      急に立ち止まったリョーマを見て、不二が訝しげに振り返った。 
      「どうかした?」 
      「………べつに…」 
      リョーマは小さく微笑みを作ってまた歩き出した。 
      (あのコート………まだあるんだ…) 
      あまりにも思い出の多いコートだった。 
      手塚と初めて試合をしたあのコートは、新しい自分が生まれたコートでもあった。 
      それまで、父・南次郎の影ばかりを追い、その影を踏み越すことだけを考えるようになってしまっていたリョーマは、自分がテニスを続ける意味さえ歪んで考えるようになっていた。 
      そんなリョーマに、テニスをする本当の意味を思い出させてくれたのが手塚だった。 
      霧のかかっていたリョーマの視界をクリアにし、進むべき道を、自らの光を以て導いてくれた手塚。 
      そしてその手塚が、リョーマへの想いを告げてくれた場所。 
      (部長………) 
      あの時の輝いていた手塚と、昨日見た手塚が交錯する。 
      「………っ」 
      どうしようもない焦燥感が胸に湧き上がってきた。 
      昨日見たこの世界の手塚を、あの輝く光を纏ったような手塚に戻すことが、自分に、本当にできるのだろうか。 
      きつく眉を寄せて俯いてしまったリョーマを、何も言わずに不二は見つめていた。
 
 
  リョーマと不二は、高架下にある人気の全くないコートに着くと、早速ウォーミングアップをして身体を解した。 
      「越前はこれから関東大会に出るんだから、ちゃんと練習しておかないとね」 
      そう言って微笑む不二に、リョーマもふわりと笑って頷いた。 
      「どんな相手と戦うのか、情報、あとで流してくださいね」 
      ちょっと強がってそう言ったリョーマに、不二も笑って「僕の情報料は高いよ」と返してくれた。 
      「久しぶりだな…」 
      そう呟いてボールを握り締める不二に「サーブ、お願いします」とリョーマが言うと、不二はニッコリ笑って「じゃあ、行くよ」とエンドラインまで下がっていった。 
      不二がトスを上げる。相変わらず綺麗で正確なトスだとリョーマが思っていると、思いの外鋭いサーブが打ち込まれてきた。 
      即座に反応したリョーマは余裕を持って打ち返す。 
      (重い……?) 
      リョーマが知っている不二のサーブよりも重いサーブだった。体格の差かもしれない、とリョーマは思う。 
      身体の線は細いものの、やはり相手は「大人の男」だ。不二のテニスセンスに、大人の筋力が加われば、鬼に金棒、と言ったところか。 
      「不二先輩、筋トレとか、してたんスか?」 
      「全然」 
      「相変わらず、やなとこ返しますね」 
      「そう?」 
      二人の間をボールが行き交うごとに、短い会話も行き交った。 
      リョーマはほんの少し、自分の置かれた状況を忘れ、楽しいと、そう感じた。
 
 
  ひとしきり打ってリョーマの身体が温まってきた頃、不二がネをあげた。 
      「ゴメン、越前、ちょっと休憩!」 
      ふぅと息を吐きながら、不二が額の汗を拭う。 
      「不二先輩、スタミナ切れ?」 
      「そのようだね。ちょっと待ってて、何か飲むもの買ってくるから」 
      「ういーっス」 
      ラケットを肩に担いで、つまらなそうに間延びした返事を返すリョーマに、不二は何か思い出したようにプッと吹き出した。 
      「なんスか?」 
      「ああ、そうそう、そうだよね」 
      「は?」 
      「越前だなぁって、思って」 
      「はあ……」 
      「じゃ、買ってくるから」 
      クスクスと笑いながらコートを出て行く不二を見送って、リョーマは小さく溜息を吐いた。 
      (なんか、嘘みたい……) 
      自分は、普通では考えられない状況下にあって、この世界でたった一人だけの「異分子」なのに、こんなふうに穏やかにテニスをして汗を流しているなんて。 
      現実を忘れたくて不二の誘いを受けたものの、現実を忘れられそうな自分に嫌気がさしてくる。 
      (部長は、今も苦しんでいるかもしれないのに……オレだけこんな……) 
      リョーマはもう一度溜息を吐いてから空を見上げた。 
      青い空、白い雲、優しい風。 
      リョーマの好きなそれらは10年前と何も変わらずにそこにある。この空だけを見つめていると、自分のいるべき場所に、すぐにでも戻れるような気もしてくる。 
      いや、この世界自体、本当は自分のいた世界なのではないかとさえ思えてくる。 
      (本当は、ここは10年後なんかじゃなくて、コートの外を見れば部長が立っていたりしてさ……) 
      そんなふうに、思考を空に逃がしていると、コートの外でガシャンという大きな音がした。 
      何かがフェンスに叩きつけられたのかと思い、驚いて音のした方に目を向け、リョーマは息を飲んだ。 
      手塚が、いた。 
      信じられないものを見るように大きく目を見開き、フェンスに手をかけて、言葉を失くしている。 
      「えち……ぜ、ん?」 
      「っ!」 
      胸が、抉られた。 
      逢いたいと、ずっと思っていた。 
      だがここでは逢えないと思っていた。逢ってはいけない、と。 
      (部長……っ) 
      手塚から発せられた声は、リョーマが大好きだった声と何も変わっていない。何も変わっていないのに、名を呼んでくれた相手の名を呼び返すことは、今の自分にはできない。 
      「…越前!」 
      手塚がフェンスを伝うように回り込んで入り口から入ってきた。そのままリョーマに走り寄り、もの凄い強さで抱き締める。 
      リョーマの手からラケットが滑り落ちた。 「越前……越前……っ!」 
      「……っ」 
      リョーマは、叫びそうになる唇をギュッと噛み締めた。 
      手塚の背に回したくなる腕も、拳を作って必死に抑えつける。 
      「越前……」 
      手塚が優しく髪を撫で、愛しげに頬をすり寄せる。 
      (部長…) きつくきつく抱き締めてくる手塚を抱き締め返したかった。 
      思い切り手塚の名を叫びながら、リョーマも同じくらい強く、手塚を抱き締めたかった。 
      だが、それはできない。 
      手塚を抱き締めてしまったら、何もかもが崩れてしまうのだ。 
      (部長……部長……っ!) 
      抱き締められて、さらに深く抱き込まれて、リョーマの身体が軋む。 その手塚の腕の強さは、まるで10年分の想いの深さを語っているようだった。 
      「越前……」 
      違うと、否定しなくてはならないと思いながら、リョーマの唇からは言葉が出てこなかった。声すら出せなかった。 
      切なすぎて、心が壊れそうだった。 
      「その子は越前じゃないよ」 
      静かな声が、手塚の背後からかかる。 
      不二だった。 
      声をかけられた手塚は、だが、リョーマを放そうとはせず、むしろさらにきつく抱き締めてくる。 
      「これは越前だ。俺が見間違うはずがない」 
      しっかりとした声だった。手塚は、不二でさえ信じなかった「越前リョーマの出現」をはっきりと確信している。 
      「その子は越前じゃない」 
      もう一度、少しだけ声を強めて不二が言った。 
      「越前は10年前に…」 
      「言うなっ!」 
      不二の言葉を遮って手塚が叫んだ。 
      リョーマを放そうとしない手塚を見つめて、不二は小さく溜息を吐いた。 
      「その子をよく見て、手塚。まだ中学生くらいでしょ?越前だったら、もう成人しているはずだよ」 
      ピクリと、手塚の身体が震えた。 
      リョーマがそっと不二に目を合わすと、不二はつらそうに眉を寄せて小さく頷いた。 
      「……越前って誰?……って言うか、アンタ、誰?」 
      震えそうになる声を、腹に力を入れて堪えながら、リョーマは素っ気なさを装って、そう言った。 
      手塚の腕が、ふと、緩む。 
      リョーマは手塚の身体を押し退けると、真っ直ぐな視線を手塚に向けた。 
      「いきなりなに?アンタ、周助サンの知り合いなの?」 
      「…………」 
      手塚の瞳が見開かれ、そしてゆっくりと閉じられた。 
      「………すまなかった……あまりに似ていたから……越前が帰ってきたかと……」 
      「…越前って?」 
      リョーマは自分でも驚くほど冷静な声を出せた。両拳だけは、固く握ったままだったが。 
      手塚はもう一度ゆるりとリョーマに瞳を向けてから、そっと首を横に振った。 
      「すまなかった」 
      それだけを言って、手塚はリョーマの髪にそっと触れた。手塚の指の優しい感触に、リョーマの心が切ない音をたてる。 
      「本当に……似ている……」 
      手塚の瞳が切なげに揺れる。 
      「……アンタもテニスやるの?」 
      見つめているのがつらくて、でも見つめていたくて、リョーマはどこか睨むような目つきで手塚を真っ直ぐに見ていた。 
      「え?」 
      「こんなところ、普通あんまり通らないでしょ」 
      言外でここへ来た目的を尋ねてみる。 
      大通りから少し奥まったところにあるこのコートは、テニスを嗜む者でさえ、頭上の高架から発せられる音を嫌ってあまり利用しないのだ。何か用がなければ、ここには来ないはずだ、と。 
      思いもかけない遭遇に、「神様」の仕業なのかと感謝さえしたくなるが、自分の置かれた状況を見れば、やはり「神様」などという存在はいないし、いたとしてもきっと自分を甘やかしてはくれないだろうとリョーマは思う。 
      幸運な偶然ではなく、どこか不幸な必然のように思えて、リョーマは眉を寄せた。 
      「………」 
      手塚はすぐには答えなかった。答えずに、空を見上げた。 
      「テニスと、青い空と、白い雲と、柔らかな風が好きだったヤツが……いたんだ」 
      ぽつりと、手塚は呟くように言った。 
      「だからここで空を見上げると……アイツに逢える気がした…」 
      「………」 
      空を見上げる手塚を、リョーマはそっと見つめた。 
      『越前リョーマ』という存在を失くしてしまった手塚の悲しみがリョーマの胸に静かに流れ込んでくる。 
      こんなふうに落ち着いて『越前リョーマ』のことを語れるようになるまでどれほどの時間を費やしたのだろう。きっと長い時間が必要だったことだろう。 
      それを思うと、今、こうして目の前で静かに『越前リョーマ』のことを語る手塚の姿に、却ってその悲しみの深さや苦しさがリョーマに突きつけられているようでいたたまれない。 
      手塚から目を逸らしたリョーマの傍に、不二がそっと寄り添った。 
      「不二………この子と知り合いなのか?」 
      「うん……越前に似ているからキミに言いづらかったんだけど……この子は、同じ研究室の同僚の弟さんでね、………僕の、恋人なんだ」 
      リョーマはビックリして顔を上げた。不二と目が合うと、いつもの笑顔でニッコリと微笑まれる。 
      「…そうなのか…不二の……」 
      手塚に視線を向けられて、思わずリョーマは俯いた。そんな嘘をつくことは、自分にはできない。 
      やっと様々な誤解を解いて手塚と想いを通わせたばかりなのに。それなのに、この世界でも、手塚は自分の想い人を誤解してしまうなんて。 
      (でも、その方がいいのかもしれない…) 
      俯いたまま、リョーマは考えた。 
      きっと不二は『予防線』を張ってくれたのだ。 
      リョーマがかつての自分の恋人とは別人であるとわかっても、もしかしたら手塚はまた『越前リョーマに似た存在』に想いを寄せるかもしれない。なんといっても本人なのだから。 
      だがそうなっては困るのだ。 
      だから、不二はこの『越前リョーマに似た存在』は自分の恋人であるから近づくなと、さりげなく、手塚に警告を発してくれたのだろう。 
      俯いたままのリョーマの肩を、不二がグッと引き寄せた。 
      「あまり大っぴらにはできないことだから、うちの家族にも誤魔化しているけど、実はもう一緒に暮らしているんだ」 
      とどめを刺すように不二が言う。 
      そこまで言わなくても、とリョーマは思ったが、それくらいしてもまだ足りないほどかもしれない、とも思う。 
      「………そうか……」 
      手塚の声音に、リョーマはハッとしたように顔を上げた。 
      「あ、あの………っ」 
      沈んでゆく手塚の心が手に取るようにわかって、リョーマは慌てたように声を発した。 
      「は、話、するくらいならっ、そのっ、オレ……っ」 
      自分で何を言っているのかよくわからなかった。だがリョーマは、沈んでゆく手塚の心を、少しでも掬い上げてやりたかった。 
      唐突なリョーマの言葉に手塚は驚いたように目を見開いた。 
      「え…?」 
      「あ、いやその、だから、えっと、オレに似てる越前とか言うヤツの代わりにはなれないけど、話聞くくらいなら………いいよね?周助サン」 
      視線を向けた先の不二は、硬い表情をしていた。リョーマはキュッと眉を寄せると「ダメっスか…」と言って俯いた。 
      「……ありがとう」 
      手塚の、ひどく優しげな声にリョーマはそっと顔を上げた。 
      「そう言ってくれるだけでいいんだ。ありがとう」 
      「あ……」 
      リョーマは目を見開いて、ほんのりと頬を染めた。 
      手塚は小さく微笑んでいた。 
      (笑顔……笑ってくれた……!) 
      手塚はその瞳を柔らかく細め、まるで「越前リョーマ」に向けるような瞳を、自分に向けてくれている。 
      リョーマの肩を抱く不二の手に、一瞬、力がこもった。 
      「……話すくらいは構わないけど、会う時は僕も一緒にいさせてもらうよ?」 
      「ふ……周助サン…?」 
      「いいね?」 
      それだけは譲らない、と言うような不二の瞳に、リョーマは頷いた。頷いて、手塚に視線を向けると、手塚に優しく頭を撫でられた。 
      「……その気持ちだけで充分だ。ありがとう」 
      静かな手塚の声に、リョーマの胸が締め付けられた。 
      手塚の声は、何もかも諦めてしまっている声だった。 
      何も期待しない声だった。 
      自分に向けられた優しさを、拒む声だった。 
      「邪魔をしたな………すまなかった」 
      そう言って手塚はリョーマからスッと手を離した。 
      途端に、身体の熱をすべて奪われてしまったかのように、リョーマの心が震え出す。 
      背を向けてゆっくりと去ってゆく手塚に、リョーマは手を伸ばしかけ、そして、その手を握り締めて静かに下ろした。 
      ここにいるリョーマには、手塚を引き留める理由がなかった。 
      (部長……っ) 
      やがて、手塚の姿が視界から完全に消えてしまうと、リョーマは崩れるようにその場に蹲った。 
      手塚は振り返らなかった。ほんの少しも、振り返ってくれなかった。 
      (『越前リョーマ』じゃないと……部長は救えない……) 
      すべてをあの手塚に話して、この世界の住人になってしまおうかと、一瞬考えた。それほど、あの手塚を見ているのはつらかった。 
      だが、ここにいるリョーマがこの世界の住人になってしまうということは、確実に、過去では自分が死んだことになってしまう。それはすなわち、あの精気を失った手塚を、確実にもう一人、作り出してしまうことになるのだ。 
      (いやだ……そんなことは、できない……) 
      リョーマは目を見開いて地面を見つめた。 
      (必ず、あるはずだ……誰も傷つかずに、すむ方法が……) 
      自分は必ず元の世界に戻り、『死なずに』あの爆弾騒ぎをやり過ごせるはずだ。そしてこの世界の手塚も『死ななかった自分』が、今の状況から救い出してやれるはずなのだ。 
      (オレは諦めないから…っ!) 
      リョーマはゆっくりと立ち上がった。 
      「……越前……」 
      心配そうに声をかけてくれる不二に、リョーマは強い瞳を向けた。 
      「…試合、やろうよ、不二先輩」 
      不二の瞳が大きく見開かれる。 
      「越前…?」 
      「負けないから」 
      リョーマはぐるりとコートを見渡した。 
      このコートで、新しい自分は生まれた。 
      このコートから、手塚と自分は始まった。 
      だから、
 
  「絶対に、諦めない」
 
  リョーマの生き方を変えてくれたコートが、今は、リョーマに心の力を与えてくれる気がした。 
      目を見開いたままだった不二が、小さく溜息を吐いて微笑む。 
      「やっぱり、越前リョーマだね」 
      「試合やるよ、不二先輩!」 
      緩んできた午後の日差しに、リョーマの瞳がキラリと輝いた。
 
 
  リョーマの本当の試合が、始まった。 
      
 
 
 
 
 
  
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      20050126
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