  真昼の月
  
  
      
  10年後の今日も休日だった。
 
 
  リョーマとソウマは閑静な住宅街に立っていた。 
      「確かこの辺だって言っていたと思うんだけど」 
      リョーマはぐるりと周囲を見回した。 
      地区予選の帰りだったか、どっちの方向に帰るのかという話になった時に、不二の家のある場所を一度だけ聞いた。ソウマの手を借りてその街に飛んでは来たものの、番地までは聞いていないので実際に不二の家がこの住宅街のどこにあるのかはわからない。 
      ソウマは溜息をつくと、リョーマの手をそっと掴んだ。 
      「なに?」 
      『…その、不二って人のコト、思い浮かべて』 
      そう言い、目を閉じて集中し始めるソウマを怪訝そうに見つめてから、リョーマも目を閉じて不二の面影を頭に思い浮かべる。 
      手塚よりももっと淡い色をした癖のない髪。自然に顔にかかるそれは、時には憂いのようなものを匂わせて、女子生徒たちの胸をときめかせているらしい。 
      瞳は、いつでも微笑んでいるように細められている。だがその瞳が見開かれ、対戦相手を見据える時、不二の纏う空気すら変わるほどその表情は一変する。 
      不二が本気で怒ったところを一度だけ見た。自分の弟を手駒として使い捨てにしようとした男への、静かな、だが見ている者の身体が震え出すほどの凄まじい怒気を、全身から発していた。 
      敵にしたくない男だと、リョーマは思う。 
      『ん、わかった。その人の家はあっちだ』 
      「え?なんでわかんの?」 
      唐突に目を開けたソウマがリョーマの腕を掴んだまま歩き出した。 
      『その人、なんか、違う感じがするから、すぐわかった』 
      「違う感じ?」 
      『その人の祖先、なんか特別な種族なんだと思う』 
      リョーマはどこか納得してしまった。あの独特な雰囲気は、他の人間とはどこか違う。 
      (ついでに味覚も変だし) 
      不二が、乾の作った妙な液体を美味しいと言ったのを、ふと、思い出した。 
      何だかひどく昔のことのように感じてしまうが。 
      『ここ』 
      「ホントだ。表札に不二って書いてある」 
      『ああ、言い忘れたけど、たぶん、オレの姿はアンタにしか見えないから。全部アンタが、アンタの言葉で説明して』 
      わからないことはオレが傍にいて教えるけど、と付け足すソウマに、リョーマはチラリと視線を流した。 
      「……ふーん、オレにしか見えないんだ」 
      リョーマはさっきソウマが土手で言った言葉を思い出した。 
      まさか自分の姿がリョーマに見えるとは思わなかったと、そんな意味のことを言っていた。そしてそのせいで、事態がややこしいこじれ方をしてしまったのだと。 
      (なんでオレには見えるんだろう) 
      それを知ることは、イコール、ソウマの『正体』に通じる気がした。 
      だが今は、それを追求している場合ではない。 
      リョーマはインターフォンに手を伸ばして、しかし、少し躊躇った。 
      (信じてもらえなかったら…) 
      弱気になりそうな自分を、リョーマは叱咤した。ここで弱気になったら、もう手塚とは逢えなくなってしまう。そんなことは嫌だ、と。 
      リョーマは顔を上げて、インターフォンをしっかりと押した。 
      『はい、どちら様ですか?』 
      年配の女性の声がした。 
      「あの、青学テニス部の者ですけど、不二先輩にお会いしたいんですが…」 
      『あらあらまあ、青学の生徒さん?懐かしいわね。ちょっと待っていてね』 
      (懐かしい……か) 
      リョーマは時の流れをじわりと実感させられた。 
      程なくしてドアが開いた。 
      「青学テニス部の生徒だって?僕に何の………」 
      そこまで言って、ドアから出てきた男は口を噤んだ。その目は信じられないモノを見るように大きく見開かれている。 
      「不二先輩……」 
      自分の知っている不二と、それほど風貌は変わっていなかった。だが、身体の線がしっかりとして、髪型も少し短めに変わっている。 
      「………キミ、誰?」 
      リョーマはキュッと口をひき結んだ。信じて、もらえるだろうか。 
      「あの……オレ……」 
      「…………話、聞こうか。あがって」 
      不二が、警戒心を露わにしながらも、リョーマを家の中に入れてくれた。
 
 
  「紅茶でいい?」 
      「はい」 
      不二の部屋に通されたリョーマは部屋の隅にちょこんと座った。 
      「ちょっと待っててね」 
      そう言い残して不二は部屋を出て行った。 
      10年経っているということは、今、不二は24歳くらいか。遠慮がちに部屋を見回すと、壁にスーツが掛けられている。 
      (社会人、なんだ……) 
      てっきり不二はプロテニスプレーヤーへの道を選ぶと思っていた。だが、この部屋にはラケットも、ボールもない。 
      ぐるりと見回しているうちに、リョーマはキャビネットの上にある一枚の写真を見つけた。ゆっくりと立ち上がって、その写真を近くで見てみる。 
      「これ……」 
      それは都大会の時の写真だった。カメラを持ってきていた不二が、記念に一枚、と、試合後に青学レギュラー陣と顧問の竜崎を加えて撮った写真だ。 
      真ん中に自分が写っている。その自分の肩に手を回してピースしている桃城、反対側には菊丸。自分の斜め後ろには手塚もいる。 
      「部長………」 
      この写真は「ついこの間」撮ったものだ。「今」が、この時から10年も経っているなんて、やはり信じられない。自分でさえ信じられないことを、不二に信じてもらえるのだろうか。 
      リョーマは大きく溜息をついて、もう一度写真を、写真の中の手塚を、しっかりと見つめた。 
      弱気になっては、いけない、と。 
      「絶対…アンタのところに戻るから……部長……」 
      「……やっぱり、越前、なのかい?」 
      突然背後から声をかけられてリョーマはビクッと身体を震わせた。 
      何も言えずに不二を振り返ると、不二は手にしていたトレーをテーブルに置いて、リョーマの目の前に立った。不二を見上げてみて、やはり身長も伸びているなと、リョーマはチラリと思う。 
      「キミは死んだはずだよ?10年も前に。どうしてココにいるの?」 
      取り乱すふうでもなく、ひどく落ち着いた様子で不二が訊ねてくる。 
      「その、キミの横にいるモノと、何か関係があるの?」 
      「え?見えるんスか?」 
      不二は首を横に振って「感じるだけ」と言った。 
      リョーマの横にはソウマが立っていた。不二にはその姿が見えてはいないが、その存在だけは、感じ取れるらしい。 
      「不二先輩、オレの話、聴いてください」 
      真っ直ぐに不二を見上げ、しっかりとした口調で言うリョーマに、不二は静かに頷いた。
 
 
  すべてを、リョーマは不二に話した。 
      手塚と想いを通わせるようになったいきさつも隠さず語り、初めて二人で出掛けることになったことを話す。そこで観覧車に乗ろうとして爆弾事件に巻き込まれたこと。自分は、爆発に巻き込まれたと言うよりは、その衝撃に吹き飛ばされたように、深い闇に突き落とされたこと。そこから助けてくれたのが、今隣にいるソウマと名乗る、自分とそっくりな少年であること。そしてそのソウマに、この10年後の世界に連れてこられたこと。 
      そこまで話した時に、不二が「ちょっと待って」と、話を遮った。 
      「なぜこの時代に来たの?すぐにキミの時間の中に戻ればいいのに、なぜ、わざわざ10年後を選んだんだい?」 
      不二がもっともな疑問をぶつけてきた。 
      「……それは…オレにも………」 
      リョーマは眉を寄せて隣のソウマを見た。リョーマにだけ見えるソウマは、リョーマをちらっと見てから小さく溜息を吐いた。 
      『10年後が限界だったんだ』 
      「限界?」 
      リョーマが訊き返すとソウマは頷いた。 
      『アンタを元の世界に戻して、あの爆発の少し前の時間に戻してやるのには、オレだけの力じゃできないことがある。だから、オレより力のある《あの人》に力を貸してもらうために《あの人》を説得しなきゃならないんだ。そのための時間稼ぎをしたくて………周囲の人との混乱を避けたいから、なるべくアンタのいた時間と遠く離れた時間に飛ばしたかったんだけど……10年がギリギリだったんだよ。今のオレの力じゃね……』 
      リョーマはソウマの言葉に小さく頷きながら、それを漏らさず不二に伝えた。 
      「なるほどね。ここで、その『時間稼ぎ』をしたいんだね」 
      「らしいっス」 
      「……そんな話、僕が信じると思う?」 
      「!」 
      リョーマは息を飲んだ。やはり、とも思った。 
      だがここで引くわけにはいかない。手塚に、もう一度抱き締めてもらうために。 
      「信じてもらうしかないっス。どうすれば信じてもらえるんスか?」 
      「そうだね………じゃあ……」 
      そう言ったまま、不二は黙り込んだ。何かを深く思慮するように、眉間に小さなしわが寄っている。10年前は、そんな表情を見たことがない、とリョーマは思った。 
      「………手塚に、会ってほしい」 
      「えっ!?」 
      リョーマは大きく目を見開いた。逢えるなら、逢ってもいいなら、この世界ででもいいから手塚と逢いたい。 
      『ダメだよ』 
      ソウマが隣で冷たく言い放った。リョーマはその理由を思い出して、乗り出していた身体を引き戻す。 
      「……それは、できないっス」 
      「なぜ?」 
      「もし、オレが生きてココにいるってわかったら部長は……きっとオレのこと……」 
      不二は一瞬眉を寄せたが、すぐにその表情を消して淡々と言う。 
      「じゃあ、見に行くだけ。それならいい?」 
      リョーマはパッと瞳を輝かせてソウマを見た。ソウマは少し考えてから『遠くから見るだけなら』と渋々頷いた。 
      「行きます!連れて行ってください!部長はどこに…」 
      「今日は休日だから、家にいると思うけど…」 
      リョーマはスッと立ち上がった。 
      「行こう、不二先輩、部長の家に」 
      自分を見下ろすリョーマを見て、不二は何かを決意するように小さく頷いた。
 
 
 
 
 
 
  手塚の家なら知っている。 
      不二の家を出てすぐにリョーマがソウマにそう告げると、ソウマは頷いてリョーマの腕を取った。 
      『じゃ、そっちの先輩の腕、アンタが握ってて。アンタの記憶とリンクして一気に飛ぶから』 
      「わかった。不二先輩、ちょっと、手、いいっスか」 
      「え?」 
      不二の手をリョーマが握った途端、周囲の風景が変わった。不二の家のある住宅街とはまた違う、静かな住宅街に三人は立っていた。 
      ここに立っただけで、リョーマの胸に手塚への想いが湧き上がり、切ない音を立てる。 
      「………スゴイね。ここ、手塚の家じゃないか……」 
      呆然としながらも、不二は冷静に周囲を見回してそう呟いた。 
      『で?どうやって連れ出すわけ?』 
      ソウマの疑問はそのままリョーマの疑問だった。それを不二に言うと、不二は答えずにポケットから小さな機械を取り出した。 
      「なんスか、それ?」 
      「携帯だよ。……ああ、『10年前』とはずいぶん形が違うからね」 
      「はぁ…」 
      不思議そうに手の中のモノを覗き込んでくるリョーマを見て、不二がほんの少し笑った。だがすぐに瞳に影を落とすと、その小さな機械に向かって「手塚」と言った。 
      じっと見つめるリョーマの視線の先で、不二はその機械を耳に当てる。 
      「ぁ、手塚?」 
      どうやら電話が手塚と繋がったらしかった。その機能に驚きつつも、リョーマはその電話が手塚と繋がっていることの方に心を躍らせた。 
      「今近くまで来ているんだけど、この間頼んだデータ、貸してもらえる?……うん、近く、っていうか、キミの家の前にいるんだけど」 
      ドキドキと、リョーマの鼓動がうるさいほどに高鳴っている。 
      (部長に逢える……部長に…) 
      頬を紅潮させて見上げてくるリョーマにチラリと視線を走らせながら、不二が電話を終えた。 
      「……よく、見ておいてね、手塚を。今の手塚を見てどう思ったか訊くから」 
      「え?……ぁ、ういっス」 
      頷くリョーマにキツイ視線を向けてから、不二は手塚の家のインターフォンを押した。リョーマは少し離れた電柱の影に身を潜める。 
      しばらくしてゆっくりとドアが開いた。 
      リョーマが電柱から身を乗り出して、手塚の姿をよく見ようと目をこらす。 
      だが、そのドアから出てきた男を見て、リョーマは言葉を失った。 
      (え……) 
      手塚だった。 
      確かに、その男は手塚国光だった。 
      (………ち、がう…) 
      そこにいるのは確かに手塚だが、リョーマの知っている手塚ではなかった。 
      柔らかくはなさそうな、ほんのりと淡い色をした髪も、すらりとした体型も、10年前とはさほど変わりはない。 
      だが、違うのだ。 
      生きた人間の持つ精気が、全く感じられない。 
      リョーマの知っている、リョーマが好きになった手塚は、そこにいるだけで周囲を圧倒するほど存在感があった。恋情抜きで見ても、他の者よりもひときわ輝いていた。 
      なのに、今、不二と何かを話している手塚は精気も存在感もない。あれほど輝いていた光が、どこにも見あたらない。なまじ整った顔立ちをしているせいで、そこにいるのがショウウィンドーの中の人形のように見えた。 
      リョーマは見開いた目を手塚に向けたまま、口元を左手で覆った。 
      (こんな……っ) 
      心の中に様々な想いが湧き上がり、胸をきつく締め付ける。 
      手塚が変わってしまったのは自分のせいなのか。そうなのだろう。そうとしか思えない。 
      こんなにも、自分を亡くしたせいで別人のように変わってしまうほど、自分は手塚の中で大きな存在だったのか。 
      そんなにも、自分は手塚に愛されていたのか。 
      「…ぅ……っ」 
      手塚と不二は話を終えたようだった。微笑みながら何か言う不二に手塚は小さく頷いて、静かにドアの中に消えていった。 
      不二はしばらくドアを見つめてから小さな溜息を吐き、くるりとこちらを向いた。 
      じっとリョーマを見据え、真っ直ぐに歩いてくる。 
      リョーマの目の前まで来て、不二は黙ったままリョーマの肩に優しく手を置いた。 
      「……『越前リョーマ』を亡くしてから、手塚は一度も笑ったことがない。一度も、だよ。10年も経ったのに、手塚の心は、『越前リョーマ』を亡くした時のまま未だに凍り付いているんだ」 
      「………」 
      「10年前……関東大会で惨敗して、それ以来手塚はテニスもやめてしまった………キミは、あの手塚を救うことができるのかい?」 
      見開いたままの瞳を、リョーマはゆっくりと不二に向けた。 
      ポロリと、一筋の涙がリョーマの頬を伝う。 
      「誰もあの手塚を救うことができないんだ。越前リョーマ以外は、誰も」 
      リョーマの瞳からハラハラと涙がこぼれ落ちていった。嗚咽さえも漏らすことができないほど、あとからあとから、涙が溢れ出てくる。 
      10年間。 
      そんな長い時間、自分は手塚につらい思いをさせてしまったのだ。いや、『つらい』などという言葉では言い表せないほどのひどい『生』を、手塚に強いてしまった。 
      (ごめん……部長……) 
      涙が、止まらない。 
      (ごめんなさい……) 
      自分だけが大変なことに巻き込まれたと、心のどこかでリョーマは思っていた。 
      自分さえ元の世界に戻れば、すべてがうまくゆくのだと、そう、思っていた。 
      だが、この、進んでしまった時間の中にいる手塚は、きっと自分よりもつらく残酷な時間を過ごしてきたのだ。テニスだけでなく、生きる意味も、その目的も、何もかも失くしてしまったのに、生きることをやめる気さえ起きないほど、うちひしがれてしまったに違いなかった。 
      あんなに綺麗な笑顔で笑う人から、自分が、その笑顔を奪ってしまった。 
      「………っ…」 
      声もなく涙を流すリョーマを、そっと、不二が抱き締めた。 
      「手塚を……救ってあげてくれ………越前…」 
      不二の声が、優しくリョーマの心に染みこんでいった。 
      「ぅ………っ」 
      リョーマは不二にしがみついた。しがみついて、しっかりと頷いた。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  不二の家に戻ってきたリョーマたちは重い空気の中でこれからのことを考えなければならなかった。 
      「オレが元の世界に戻ったら、この世界はどうなるわけ?」 
      リョーマの、真っ赤に泣きはらした目を真っ直ぐ向けられて、ソウマは困惑した表情を浮かべた。 
      『……断言はできないけど、たぶん、オレとアンタがこの世界に来たことで、この世界は〈確かに存在する世界〉になってるんだと思う。だから、例えばアンタが元の世界に戻って、〈過去〉がやり直されても、この世界はなくならずに、このまま存在し続けるはずだ』 
      「…じゃあ、部長はあのまま……?」 
      ソウマはリョーマから視線を逸らして考え込んだ。 
      「ソウマはなんて?」 
      不二がリョーマに訊ねる。リョーマは眉を寄せたまま不二を見て、そして俯いた。 
      『いや、あの人を救う方法が、あるかもしれない』 
      不二の深い溜息と、ソウマの言葉は同時に発せられた。 
      「ホント?」 
      微かな希望に煌めくリョーマの瞳を見て、不二の瞳も見開かれた。 
      「越前?」 
      リョーマは不二に向かって頷いてみせた。不二の表情が、ほんの少し緩む。 
      『どっちにしろ、オレがあの爆発の前に戻って、歪んだ時空を組み直さないとならない。その時に、うまくいけばもう一人の〈越前リョーマ〉を死なせずにこの世界とも繋げられるかもしれない』 
      「かもしれない、じゃなくて、そうしてくれないと困るんだけど?」 
      キツイ瞳を向けてくるリョーマに向かって、ソウマは一瞬目を見開いてから、やれやれというように肩をすくめた。 
      『オレの責任だからね、何とかしてみせるよ。例えオレが……』 
      言いかけてソウマは言葉を飲み込んだ。一瞬黙り込んでから、ソウマは誤魔化すように『さて』と言いながら立ち上がった。 
      『じゃあ、オレはこれから、オレのやるべきコトをやってくる。アンタはその先輩と、この世界でオトナしく、待ってて』 
      ソウマを見上げてリョーマは頷いた。 
      「どれくらい待っていればいい?」 
      『……時間の約束はできない。でも、オレの持てる力のすべてを使って、何とかしてくるから』 
      「……OK」 
      待つことにもどかしさを感じながらも、リョーマには頷くことしかできなかった。 
      『そうだ、ひとつ注意しておくけど、この先輩以外には、アンタが過去から来た人間だってこと話しちゃダメだよ?』 
      「それは……わかっているけど……もしも話しちゃったらどうなる?」 
      ソウマは腕を組んで、睨むような瞳でリョーマを見下ろした。 
      『アンタは、この世界の住人になる』 
      「え?」 
      『アンタはもう、元の世界には戻れなくなるってコト』 
      「!」 
      驚いて身体を硬くしたリョーマを、不二が訝しげに覗き込んだ。 
      「越前?」 
      リョーマは不二に、今ソウマが言った言葉をそのまま伝えた。 
      不二は目を見開いてから忌々しげに溜息を吐いた。 
      「越前も手塚も、何をしたって言うんだ……こんな理不尽な……」 
      「不二先輩…」 
      「越前は確かに生きているのに……もしも元の世界に戻れず、この世界に住むことになったとしても、普通の人間として生きていくことができないじゃないか……」 
      すでに『死んだ存在』であるリョーマには、この世界で普通に生きていく術がない。学校へ通うことも、就職することも、病院へ行くことすらもできないのだ。 
      この世界には、リョーマの居場所が、ない。 
      きつく眉を寄せ、腹立たしげに髪を掻き上げる不二を、リョーマは柔らかな瞳で見つめた。 
      「……ありがと、不二先輩」 
      その、場違いなほど柔らかな声音に、不二が不思議そうな瞳をリョーマに向けた。 
      「オレは絶対に元のところに戻るから。そして、この世界の部長も、絶対に助けてみせるから」 
      「越前…」 
      立ったままリョーマたちを見つめていたソウマの瞳が、一瞬柔らかく細められた。 
      『もう行くよ、時間が惜しい。次にオレがこの世界に来る時は、イイ報告だけするから。信じて待ってて』 
      「わかった」 
      しっかりと頷くリョーマに小さく微笑みかけて、ソウマは空気に溶け込むように姿を消した。 
      「行ったみたいだね」 
      「うん」 
      不二は小さく息を吐くと、覚悟を決めたというように、真っ直ぐな瞳をリョーマに向けた。 
      「キミは、僕が守るから」 
      リョーマは微かに微笑みながら頷いた。 
      「…何か食べるかい?夕飯までまだ間があるから、ちょっと何か軽い物を作ってこようか」 
      「ういっス!」 
      本当は食欲など全然なかったが、リョーマは無理に笑顔を作ってみせた。その笑顔に不二も微笑み返してから「じゃ、待っててね」と言い残し、部屋から出て行く。 
      「はぁ………っ」 
      一人になって、急に身体の力が抜けた。 
      知らず、全身を緊張させていたらしく、ホッと気を抜いた瞬間、一気に全身から力が抜け、リョーマはグッタリとその場にへたり込んでしまった。 
      座っている力も出せなくて、そのままごろりと仰向けに転がった。 
      「……月だ……」 
      窓から白い月が見えた。真昼の青い空に、ぼんやりとその姿を浮かべている。夜の月と違って、その存在は儚げにさえ見える。 
      (月は、10年経っても変わらないのにな……) 
      だがリョーマはふと、この見上げる真昼の月が自分と重なって見えた。 
      自分自身は何も変わっていないのに、取り巻く世界が違うだけで、強く輝いていたのが嘘のように、今は消えかけているように見える。 
      (オレは、ココにいるのに………) 
      自分の声は、過去の手塚にも、今の手塚にも、届くことはない。 
      (気づいて……オレはココにいるよ………部長……) 
      どんなに世界が変わっても、どんなに時が流れても、自分が見つめる人は、たった一人だけなのに。 
      「気づいてよ……」 
      閉じた瞳から、新たな雫が一筋、リョーマの頬を伝って流れていった。
 
 
  透明な真昼の月が見下ろす中で、リョーマはうとうとと束の間の優しい眠りにつく。 
      目が覚めた時、これがすべて夢であったらと、そんな儚い願いを抱きつつ……… 
      
 
 
 
 
 
  
      続
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      20050124
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