10年後…




真の暗闇というものを、初めて経験する気がした。
(オレ……どうしたんだっけ……?)
何も見えなかった。
目を開けているのかどうかさえもわからなかった。
自分の手を目の前にかざしてみても目に映るのは、ただ、闇。
(もしかして、オレ、死んじゃった……?)
ゆっくりと記憶が捲き戻ってゆく。
手塚と水族館に来ていた。観覧車に乗ることになって、長い列に並んだ。ようやく乗れそうになったところで、いきなりたくさんの警官たちが来て観覧車を閉鎖してしまった。
爆弾が仕掛けられたから、と。
(爆発、したんだ…)
自分が、目を開けていられないほどの光に包まれたのを思い出した。音がしたかどうかは覚えていない。身体にも痛みはない。光に包まれた瞬間も、身体の痛みはなかった。
(ここ、どこ…?……部長は……?)
そうだ、とリョーマは何も映らない目を見開いた。
(部長はどうしたんだろう……大丈夫だったかな……)
自分が光に包まれたのは、たぶん、手塚からそんなには離れてはいなかったはずだ。
(まさか、巻き込まれたんじゃ……っ)
リョーマはぐるっと周囲を見回した。だがやはり、目に映るのはただの闇だけ。
「……っくしょう…っ」
リョーマは両手を握り締めた。
「ちくしょうっ!」
リョーマは思いきり叫んだ。
「ちくしょう、ちくしょうっ、ちくしょうぉぉぉっ!」
まだやりたいことがたくさんあった。もっともっと、テニスで上に昇りたかった。いろいろな相手と戦ってみたかった。
何より、もっと手塚の傍にいたかった。
「……ちく……しょ……っ」
やっと好きだと言えたのに。やっと、すべてを手塚に差し出す勇気が持てたのに。
もう、手塚の傍にいることはできなくなってしまったのか。
「部長……部長……っ」
最後に自分の名を呼んでくれた手塚の声が耳に蘇る。肩を抱いていてくれた手の温もりも、まだ覚えている。
覚えている、のに。
「いやだ!部長に逢いたい!まだ死ぬのは嫌だ!」
逢いたい、逢いたい、逢いたい。
手塚国光に、逢いたい。
「まだ死にたくない!」
血を吐きそうなほどリョーマは叫んだ。叫び続けた。この声を聞いて、誰かが自分を見つけてくれるように。誰かが、この空間から助け出してくれるように、と。
『アンタうるさい』
いきなり耳元で声がして、リョーマの腕が誰かに掴まれた。
「え?」
『ちょっと黙っててくんない?気が散るんだけど』
誰かが、リョーマの横にいるのがわかった。
自分の腕を掴む腕以外の気配はない。だがリョーマには、どうしてか、その人が自分の横で辺りを見回しているのがわかる。
「誰…」
『しっ!………よし、見つけた。おいで』
掴まれていた腕をもの凄い勢いで引っ張られた。
「うわっ」
『…………ちょっと、息止めてて。1、2の3っ!』
「っ!」
目の前がいきなり光に包まれた。この暗闇に突き落とされる直前に包まれた、あの光に似ている、とリョーマは頭の片隅で感じた。





『はい、目、開けて。息もしていいよ』
「………?」
言われるままに、リョーマはそっと目を開けて、新鮮な空気を肺に送り込んだ。
「ここ……?」
目に飛び込んできたのは、見慣れた風景だった。家から少し離れたところにある、大きな川の土手だ。時折、もう少し上流のところで海堂が独り練習しているのを見かけたことがある。
だが、ふと首を傾げた。何かが、違う気がする。
「戻ってこれた…?」
『ちょっと違うけど、まあ、そんなとこ』
「あ」
自分の横に立つ存在を改めて思い出したかのようにリョーマは視線を向け、思わず声を漏らした。
あの、自分にそっくりな少年が、自分と同じ顔で見つめ返してくる。
「アンタ、誰?親戚?」
『………ま、そんなとこ』
少年はリョーマから視線を逸らして小さく溜息を吐いた。
『オレのことはいいからさ、これから話すことをよく聞いて』
再び視線を合わせてきた少年の瞳が怖いほど真剣だったので、リョーマは黙って頷いた。
『ここはアンタがいた世界じゃない。アンタは、元の世界では、今は死んだことになっている』
「!」
驚きはしたが、やはり、という思いもあった。リョーマも薄々気づいていたのだ。ここが『自分のいた世界ではない』ことに。そしてあの暗闇は、生きる者の世界ではないことに。
「じゃあ、ここは、どこ?」
『アンタが<昔住んでいた町>。つまりここは、アンタがいた世界から十年経ってるんだ』
「は?」
リョーマはポカンと口を開けて、まじまじと少年の顔を見つめた。
「何、言ってんの?そんなことあるわけが……」
少年は溜息をついた。
『口で言ってもわかんないか……ちょっとおいで』
少年が再びリョーマの腕を取ると、周りの風景が一瞬で変わった。
「ここは…」
『駅前だよ。あんなビル、十年前はなかったっしょ?』
リョーマは目を見開いた。
ここは確かに自分がよく利用している駅だが、その駅の向こうに空高くそびえる巨大なビルが建っている。あんなビルは、知らない。
「……嘘、だろ?」
『……じゃ、これ見なよ』
少年はすぐ横の本屋の店頭に並ぶ雑誌の中から一冊を手に取り、リョーマに差し出した。
「201X年6月号…?」
『アンタ、計算できる?アンタがいたのは200X年。引き算してみな』
「10…年……」
『わかった?……ちょっと、さっきの場所に戻るよ』
周囲にチラリと視線を走らせた少年がそう言ってまたリョーマの腕を掴むと、さっきまでいた土手に一瞬で戻った。
「………オレ、どうなっちゃったわけ?」
眉を寄せて見つめてくるリョーマを、少年は真っ直ぐ見つめ返す。
『ゴメン。アンタを巻き込むつもりはなかったんだけど……』
「え…?」
『アンタがオレのこと見えるなんて思わなかったから…計算が狂った』
ますます訳がわからないことを言い始めた少年を探るように見つめていると、少年はちょっと困ったような顔をしてリョーマに腰を下ろすように促した。
『いろいろ質問はあるだろうけど、とりあえずオレの話を最後まで聴いて。そのあとで、アンタの質問には、何でも答えてあげるから』
真剣な表情で言う少年に向かって、リョーマも同じ顔をしてこくりと頷いた。
『オレの名前はソウマ。アンタと同じ顔している理由は、……まあ、そのうちわかるから、今は訊かないでくれる?』
リョーマは小さく頷いた。
『もうわかっていると思うけど、オレはアンタとは違う。つまり、人間じゃないってこと。でもユーレイでもない。そうだな……《天使》って言う呼び方が一番わかりやすいかな』
「てんし……?Angel?」
ソウマと名乗る少年は頷いた。
『頭の上のわっかとか、背中の羽とかないけどさ、一応役割は同じだから』
「役割…」
『そう、死んだ人を天国まで連れて行くのが、オレの仕事』
「!」
立ち上がりそうになるリョーマの腕を、ソウマは強く掴んだ。
『最後まで聴けって言ったろ』
「………」
リョーマはきつく眉を寄せたまま座り直した。
『今日連れて行く予定だったのは、アンタじゃないんだ。でもアンタがオレのこと見えてるみたいなんで、オレが予定外の行動を取ったら、……なし崩しに歯車が狂っちゃって……』
ソウマは大きく溜息を吐いた。
『このままじゃ、オレもヤバイんだよ……あの人に叱られる……』
「あの人?」
情けなさそうな声で呟かれたソウマの言葉に、リョーマは自分と同じ顔を覗き込んだ。
『……とにかく、アンタを巻き込んじゃったのはオレの責任だから、アンタはオレが、何としてでも元の世界に帰してやるよ。だから、アンタもしばらくオレに協力してくれる?』
「……OK」
今は、ソウマの言葉を信じるしかないと、リョーマは思った。元の世界に、手塚の傍に戻れるならば、自分はどんなことだってしてみせる。
『さすが、越前リョーマだね。肝が据わってる』
「え?なんでオレの名前…」
ソウマはニッコリ笑うと『そのうちわかるから』と言って答えなかった。
『アンタを戻すために、オレはいろいろ準備があるんだ。今アンタが元の世界に戻っても、アンタ、死んだことになっているから、みんなが混乱するだけだしね』
「…わかった。とりあえず、この世界にいろってことでしょ?」
ソウマは頷いて、リョーマの腕を優しく掴んだ。
『まずは、この世界で一人だけ、この事実を話す相手を選んでもらう。アンタをかくまってくれる存在がいないとね』
「誰でもいいの?」
『誰でもじゃない。まず肉親はダメだ。アンタが急に現れたらパニック起こすし、アンタが元の世界に帰ろうとした時に、絶対妨害するに決まってる』
「なんで?」
不思議そうに訊ねるリョーマに、ソウマは深く溜息を吐いた。
『子どもを亡くす親の気持ち、わかる?尋常じゃないよ?それなのに、いきなり死んだはずの息子が還ってきてみなよ。手放すわけないっしょ』
「あ……」
『同じ理由で、アンタの恋人とかもダメ。……あの時アンタと一緒にいたヤツ、恋人でしょ?』
「え?部長?」
『そ。……あの人、肉親よりもダメかもしれないな。アンタへの想いが強すぎる』
リョーマは目を見開いた。手塚の想いが、ソウマにそんなことを言わせるほど強いことが嬉しくもあり、悲しくもある。
きっと今頃手塚は、自分を失った悲しみにうちひしがれ、普通ではいられなくなっているだろう。この世界の手塚でもいいから逢いたいと思っていたが、それは何よりも避けなければならない行為なのだと、リョーマは悟った。
『だから、アンタの肉親でも恋人でもなくて、だけどアンタが信頼できて、こんな普通じゃない状況を理解してくれそうなヤツにして』
「そんな人い……」
いない、と言おうとしたリョーマの脳裏を一人の男の影がよぎった。
(あの人なら、大丈夫かも)
十年経っても、あの人があのままの性格なら大丈夫だろう、とリョーマは思った。
「決めた。あの人にする!」
『誰?』
ソウマが立ち上がりながら訊ねる。
リョーマも立ち上がって服のゴミを払うと、ソウマに真っ直ぐな視線を向けた。
「不二周助。十年前の、オレの先輩」
『わかった。今からその人のところ、行くよ』
リョーマは頷いた。
手塚のところに、絶対に戻ってみせる。戻って、もう一度、あの笑顔を見たい。
とてつもなく強い相手を目の前に、コートに立っている時のような気分だった。
だが、この試合だけは、負けるわけにはいかない。
「決勝戦の、タイブレーク、ってとこだね」
瞳に強い光を宿すリョーマを見て、ソウマがそっと微笑んだ。
『行こう』
「うん」


狼狽えている暇などなかった。
手塚の隣の、あの楽園よりも優しい場所に戻るために、リョーマはその足を力強く踏み出した。








                            





20050122