  笑顔
  
  
      
  「ちーっス」 
      「ああ」 
      それまでと何ら変わりのない挨拶を、二人は交わした。 
      だが、今までと違うのは、お互いに立ったまま、相手の目を真っ直ぐに見つめていること。ここでは、初めての、こと。 
      長いような短い沈黙の後で、リョーマがふと視線をずらしていつもの「自分の場所」に向かった。 
      「ねえ」 
      リョーマが手摺に手を掛けて、グラウンドの方を向いたまま手塚に話しかける。 
      手塚は返事はせずに、ただじっとリョーマの背中を見つめた。 
      何から話せばいいだろう、とリョーマは昨日からずっと考えていた。 
      出逢った当初は手塚のことを良くは思っていなかったこと。何を考えているのかわからなくて苛ついたこと。 
      初めてプレイを見た時、悔しいけど目を奪われたこと。そしていつか戦いたいと思ったこと。 
      それから、屋上で手塚の「素」の行動を見るたびに、手塚に対する印象がどんどん変わっていったこと。 
      屋上は、手塚と共有してこそ「大好きな場所」であると気づいたこと。 
      地区予選の時、自分のことを信頼してくれて嬉しかったこと。でも河村の店で向けられた視線に、ひどく傷ついたこと。 
      そして、昨日の試合で、やっと自分の気持ちに気づいたこと……… 
      (全部、最初から話せばいいのかな……それとも……) 
      呼びかけたまま黙り込んでしまったリョーマを見つめながら、手塚は内心苦笑した。 
      (言いづらいのだろうな…) 
      静かに、ゆっくりと、深呼吸をしてから、手塚は空を見上げた。 
      「……昨日、お前との試合の後で、ここに来たんだ」 
      「え?」 
      穏やかな声音で紡がれた手塚の言葉に、リョーマの鼓動がドキッと音を立てた。 
      「夕陽がとても綺麗だった。この場所も、すべてがいつもと違って見えた」 
      「………」 
      「俺は青い空が好きだ。…だが、橙黄色の、穏やかな空の色もまた美しいと思う」 
      空を見上げたまま語る手塚を、リョーマはそっと振り返った。 
      風が、手塚の髪を揺らしている。 
      「部長……」 
      頼りなげなリョーマの声に、手塚の瞳がゆるりとリョーマを捉えた。 
      「………いつか……機会があったら、お前もここから夕陽を眺めてみるといい。きっと気に入るはずだ」 (その時、隣にいるのは自分じゃないだろうけれど…) 
      そう言って手塚は小さく微笑んだ。 
      「…っ!」 
      その微笑みに、リョーマの胸が激しく軋んだ。 
      ずっと、手塚の笑顔を見てみたいと思っていた。自分に向けられる、自分だけに向けられる笑顔が見てみたいと。 
      なのに、今、自分に向けられている笑顔は、自分が見たかった笑顔ではない。 
      (違う……そんなんじゃない…) 
      微笑んでいるのに、笑っているはずなのに、手塚のその表情はまるで泣いているように、リョーマには見えた。 
      (アンタのそんな悲しい顔なんか、見たくない!) 
      リョーマはキッと手塚を睨むと、乱暴な足取りで手塚の目の前まで歩み寄った。手塚が少し驚いたようにリョーマを見下ろす。 
      「オレの想い人って、どういうことっスか」 
      「え?」 
      「アンタが昨日言っていた、『お前の想い人』って、誰のこと?」 
      手塚はきつく眉を寄せた。「それ」を自分に言わせようとするリョーマの心がわからない。 
      「そ…」 
      「違うから!」 
      手塚は目を見開いた。自分はまだ誰の名前も口にしていない。 
      「アンタは、……アンタだけは、きっとオレが教えるまで、オレが誰のことを好きなのかわからないよ」 
      「…?」 
      「最初に会った時から思っていたけど、アンタ、もっとヒトの話、聴いた方がいいっスよ」 
      手塚は目を見開いたまま黙り込んだ。そんなふうに言われたのは初めてだった。 
      「確かにアンタは、オレのことすごく理解してくれて、昨日の試合を持ちかけてくれたんだと思っているっス。…でも、」 
      そこで言葉を句切ると、リョーマは改めて手塚を強い瞳で見上げた。 
      「アンタは、オレのことを、本当は何もわかっていない」 
      「………」 
      強いリョーマの瞳と、驚きを隠せない手塚の瞳がぶつかり合って熱を孕む。 
      「…っ」 
      だが、何かを堪えるように、苦しげに眉を寄せて手塚は目を逸らした。 
      「……ああ、わからない。お前が何を考えているのか、俺にはわからない」 
      「部長…?」 
      低く呻くように言う手塚に、今度はリョーマが目を見開いた。 
      「最初は偶然だったろうが、そのあともここへ来ていたのはなぜだ。ここが好きだという理由だけなのか。俺がここにいたことを、お前はどう思っていたんだ?」 
      「それは…」 
      どう答えようかとリョーマが口を噤むと、手塚は眉をきつく寄せて言葉を続けた。 
      「……なぜお前はあの日、新刊のリストを俺に届けるためだけにわざわざここまで来てくれたんだ。そのあと一度ドアが閉まっていたからと言って、ここに来なくなってしまったのはなぜなんだ。校内で俺を避けていたのはなぜなんだ。俺が…」 
      手塚が苦しげな吐息を漏らす。 
      「俺が、……嫌いなんじゃ……なかったのか?」 
      リョーマは大きく目を見開いたまま、じっと手塚を見つめた。 
      こんな手塚は初めて見る。 
      自分の感情のままに、胸に秘めていただろうつらい想いを素直に口にする手塚を。 
      「部長……」 
      リョーマの胸に、例えようのない嬉しさが込み上げてきた。 
      手塚が、誰にも見せてこなかったであろう胸の内を自分にぶつけてきてくれることが、ひどく嬉しかった。そして、手塚もまた自分と同じように相手の心がわからずに胸を痛めていたことを知り、それさえも、今のリョーマにとっては大きな喜びとなって胸に押し寄せてきた。 
      柔らかく見つめてくるリョーマの視線を感じて、手塚はゆっくりとその瞳にリョーマを映した。 
      「越前」 
      手塚は真っ直ぐリョーマを見つめる。 
      「お前はなぜ、今、ここに居るんだ……?」 
      リョーマはふわりと、花が綻ぶように微笑んだ。 
      「……だから、俺がココにいるのは、アンタがオレの話を聴いてくれないからっスよ」 
      「……」 
      「オレの話、聴いてくれますか?」 
      短い逡巡の後、そっと頷くと、そのまま手塚はもう何も言わなかった。 
      ただ黙って、リョーマの唇が紡ぎ出そうとしている言葉を待つ。 
      「オレは、アンタの笑顔が見たいんス」 
      心持ち俯いて呟くように言ったリョーマの言葉に、手塚は少し不思議そうな色を瞳に浮かべた。 
      「ねえ、どうしたら、アンタの笑顔、オレに見せてくれるんスか?」 
      手塚の瞳の不思議そうだった色が、徐々に揺らめく光に変わり始める。 
      「オレが、なんて言ったら、アンタは笑ってくれるんスか?」 
      言いながら、リョーマの頬が少しずつ赤く染まってゆく。 
      「……オレも、ずっとアンタの考えてることがわかんなくて…どうしたらいいかわかんなかった……今だって……どうしようかってドキドキしちゃってワケわかんなくなってるんス」 
      手塚の瞳がゆっくりと見開かれる。 
      「だから、オレに教えてください。………オレは…」 
      リョーマがスッと顔を上げて手塚を真っ直ぐ見上げた。 
      「オレは、アンタに、どんな言葉で、この想いを伝えればいいんスか?」 「………っ」
  時の流れが、一瞬、止まった。
  手塚はリョーマを見つめたまま動かない。 
      リョーマもまた、頬を染めて手塚を見上げたまま動かない。 
      風だけが、流れることを許されたように、見つめ合う二人の髪を同じ方向へ揺らして通り過ぎてゆく。
  ここへ来て何度目かの静寂を崩したのは、手塚だった。 
      手塚は目を閉じ、大きく息を吸い込んで、空を仰いだ。そのまま、胸に深く吸い込んだ空気を、一気に吐き出す。 
      「………部長……」 
      頬を真っ赤にしたままリョーマがそっと手塚を呼ぶと、手塚はもう一度短く息を吐き出してから、リョーマに視線を戻した。 
      「…越前、それはとても簡単なことだ」 
      「え……」 
      「飾らなければいい。飾らずに、思ったままの言葉を、そのまま言ってくれれば、それでいいんだ」 
      俺にはできなかったけれど、と心の中で呟いて、手塚は柔らかな瞳をリョーマに向けた。 
      ドキドキと、リョーマの鼓動が、また派手な音を立て始める。 
      「飾らないで…?」 
      「ああ」 
      「この、まま…?」 
      手塚は黙って頷く。 
      リョーマは一度下を向いて、唇をキュッとひき結んでから、ぐいっと顔を上げた。 
      「オレ…は………」 
      見下ろしてくる手塚の瞳がひどく優しい。リョーマは頬の熱で潤んでくる瞳を揺らしながら、両手を力いっぱい握り締めた。 
      「オレは…アンタが……」 
      昼休みの終了を告げる予鈴が鳴り始めた。 
      リョーマの唇は、ゆっくりと、しっかりと、躊躇いなく言葉を紡ぐ。 
      チャイムの音にかき消された言葉は、しかし、手塚にはしっかりと聴こえていた。手塚の心には、その想いが届いていた。 
      「…ありがとう」 
      チャイムが鳴り終わると同時に、そう言って自分に向けられた手塚の笑顔に、リョーマはあっさりと瞳を奪われた。 
      穏やかで、優しくて、すべてを包み込んでくれるような笑顔だと、リョーマは思った。想像していたものよりも、ずっとずっと、何倍も、何十倍も、綺麗な笑顔だと思った。 
      「……越前?」 
      頬をさらに真っ赤に染めたまま、目を見開いて黙ってしまったリョーマを、手塚は困ったように微笑みながらそっと覗き込んだ。 
      「越前?」 
      すぐ傍でそっと囁かれた声に、リョーマはさらに大きく目を見開くと、二・三歩後退ってから手塚を睨んだ。 
      「………アンタ、笑っちゃダメ」 
      「え?」 
      「オレ以外には、誰にも、笑いかけちゃダメっス」 
      「………」 
      手塚は小さく目を見開いてから、じっとリョーマを見つめた。 
      「…わかった」 
      真剣な表情でそう答えると、手塚はリョーマに向かってもう一度微笑んだ。 
      「その代わり、お前もそんな顔、他のヤツには見せるな」 
      「え?そんな顔って……」 
      「…抱き締めたくなる」 
      言い終わらないうちに、手塚の腕がリョーマを引き寄せ、倒れ込んできた華奢な身体を強く強く抱き締めた。 
      「ぶ、ちょ…っ」 
      「好きだ……お前が、好きだ……」 
      耳元に、吐息と共に熱く囁かれ、リョーマの心が震える。 
      「部長……オレも……」 
      手塚の背に腕を回して、リョーマはうっとりと目を閉じた。 
      「大好き……」 
      そう呟いたリョーマの顔には、今までで最高の、輝くような笑顔が浮かんでいた。
 
 
  強く抱き締めあう二人の髪を、優しい風がそっと撫でてゆく。 
      そして二人の頭上には、突き抜けるように輝く青空がどこまでも広がっていた。
  空と、風と、お互いがいれば、それだけでここは楽園になると、二人は思った。 
      
 
 
 
 
 
  
      終
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      20050114
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