笑顔・おまけ




二人は抱き締め合っていた身体を、名残惜しげにそっと離した。
「もうすぐ…本鈴が鳴る…」
吐息と共に手塚が呟くと、リョーマは小さく頷いて踵を返した。
ドアまで歩いて、リョーマが振り返る。
「じゃあ、放課後の練習で…」
「ああ」
手塚は頷き、ドアから出てゆくリョーマを見送った。が、ふと、思い立ったことを告げるためにリョーマを追いかけてドアを開けた。
「越前」
踊り場のところで足を止めたリョーマが、ちょっと驚いたように目を丸くして見上げてきた。
「なんスか?」
「練習の後で…ここに、来るか?」
「え?……あ、夕焼け?」
パッと瞳を輝かせるリョーマに、手塚は微笑みながら頷いた。
「見たいっス!アンタが好きになった夕陽を、オレも見てみたい」
「巧く抜けてこい。待っている」
「ういっス!」
弾けそうな笑顔でそう返事をすると、リョーマは風のように階段を駆け下りていった。
リョーマの去った方をしばらく見ていた手塚は、穏やかな瞳で小さく息を吐くと、ドアの鍵を閉めた。





***





「おう、越前、今日もなんか食って帰ろーぜ」
放課後練習も終盤にさしかかった頃、桃城がそっとリョーマに耳打ちしてきた。
「今日はパス」
「えっ?」
素っ気なく断ってきたリョーマに、桃城は大仰に驚いて見せた。
「何だ、お前、どっか悪いのか???」
「べつに」
「じゃあ、なんで…」
「……べつに」
話はそれだけだとでも言うように、リョーマは桃城を見捨ててさっさと向かいのコートに歩いてゆく。
「振られちゃった?桃」
ポンッと、桃城の肩に手を置いて、背後から不二が楽しそうに声を掛けた。
「不二先輩……」
「どうやら出来上がっちゃったみたいだね。ちょっと残念」
「はぁっ?」
桃城にとっては意味不明の台詞を言いながら、不二はまた楽しげに微笑んだ。
「これから楽しくなりそう」
「はあ……」
疑問符に包まれた桃城を、不二もさっさと見捨ててリョーマの隣のコートへ入っていった。



「よし!最後にワンゲームずつ試合形式で打ち合いを始める。負けた者は次の者と交代。Aコートで負けた者はBコートに回れ。Bコートで負けた者はAコートへ。どちらのコートも勝った者はそのまま残って続けろ」
最後とはいうものの、この練習メニューは、結構厳しいものだった。早めに決着をつければ問題はないが、長引いてしまうと負けた者はコートを走って移動し、立て続けに試合を行わなくてはならない。もちろん、勝ち続けても休まず試合を続けるのだから、このメニューは、勝っても負けてもいい練習にはなる。
「手塚もやるの?」
「ああ」
すれ違いざま不二に問われて、手塚は当然だというように頷いた。
「……ふぅん」
不二はニッコリと微笑むと「楽しみ」と小さく呟いてコートに入った。
「始め!」
二つのコートでそれぞれサーブが打ち込まれ、最後の練習メニューが始まった。

しばらく続けるうちに、手塚はその不自然さに気づいた。
(また不二と、か…?)
先程から不二と良く当たっている。不二が負けて移動する方が多いのだが、リョーマとの試合で酷使した肘を気遣って力をセーブしているせいで自分が負けることもあり、そうして移動しても不二がまた目の前のコートに入ってくるのだ。
(……不二のヤツ……なんのつもりだ……?)
手塚が不二を見つめて眉を寄せると、不二はニコニコと笑っている。
「これが最後の対戦だ」
乾が時計を見ながら宣言した。手塚は内心「早めに片づけよう」と、少しばかり気合いを入れ直す。
だが、相手がまずかった。不二が、此方を見据えて本気で向かってきている。
試合は、予想外に長引いた。
他のレギュラーたちはとうに試合を終えて二人のラリーを見つめている。その中にリョーマを見つけ、手塚は小さく溜息を吐いた。
サーブ権は手塚にある。何度目かのアドバンテージを迎え、手塚はそっと「仕方ない」と呟いた。
「…っ!」
手塚の、纏う空気が変わるのを、リョーマは感じた。
綺麗なフォームでトスが上がる。次の瞬間、手塚の腕は今までとは比にならない鋭さで振り下ろされた。
全員が、息を飲んだ。
あの不二が、一歩も動けないままに、サービスエースをとられたのだ。
「………全員集合!」
何もなかったように号令をかける手塚を見て、不二が「本気じゃ勝ち目はないかな」と小さく呟いた。





「解散!」
「ありがとうございましたっ!」
テニス部の今日の練習がすべて終わった。あとは一・二年が後片付けしてすべてが終了する。
太陽はもうだいぶ傾いてしまってあと十数分もしたら沈んでしまいそうだった。
手塚はチラリと夕陽に目をやり、内心舌打ちした。
不二とのラリーが長引きすぎた。これでは今すぐ屋上へ行かないと約束の夕陽をリョーマに見せてやることができない。
「手塚」
背後から不二が声をかけた。仏頂面のまま振り返ると、不二は楽しそうに笑った。
「やっぱり、なんか約束があった?」
「え?」
「二人とも、朝と全然表情が違うんだもん。わかるよ。良かったね、おめでとう」
「………」
手塚が小さく目を見開く。そのまま、何と答えていいか戸惑っていると、不二がまた笑った。
「行きなよ、手塚。あの子は僕がこっそり逃がすから」
「……」
「早く」
促す不二に向かって、だが手塚は、ゆっくりと首を横に振った。
「手塚?」
「ありがとう、不二。だが、あいつとのことには、もう、誰の手も借りたくない」
「え…」
言うなり、手塚は踵を返して、真っ直ぐリョーマのもとに歩いていった。
「越前」
「え、はい、……わっ!」
コート整備していたリョーマの腕を突然掴み、手塚が他の一年に「すぐ戻る。他の者はそのまま続けろ」と言い渡してずんずん歩いてゆく。
「ぶ、部長?」
リョーマの手から放り出されたトンボを地面につく前にキャッチした不二が、二人を見送りながらクスクスと笑った。
「かなわないなぁ、今の手塚には」
手にしたトンボでついでのようにコート整備を始めると、二年生が慌ててすっ飛んできた。
「せ、先輩!俺がやりますからっ!」
「あ、いいよ。たまにはやりたいから」
楽しげに微笑む不二に、その二年はそれ以上何も言えず、あとで先輩の誰かに怒られそうだと途方に暮れた。





「走れ」
「え?」
校舎内に入ると、いきなり手塚はそう言って走り出した。
まだまばらに残る室内活動系の部活の生徒たちが、何事かと二人を見送る。
屋上のドアの前まで一気に階段を駆け上がり、手塚は少し息を弾ませながらポケットから鍵を取り出した。
「…持って、いたんスか?、鍵……」
「……」
ちらっとリョーマを振り返ってから、手塚は重いドアを開けた。
「う、わ……」
オレンジ色が、屋上全体を染め上げていた。
「間に合ったな…」
手塚が小さく呟き、リョーマを促してオレンジ色の世界に足を踏み入れる。
「すごい……綺麗っスね……」
辺りを見回すリョーマの瞳が夕陽を受けてキラキラと輝く。
手塚はそんなリョーマを見つめ、夕陽よりも眩しいその笑顔に目を細める。
「越前」
名を呼ばれ、輝く瞳のまま手塚を見上げると抱き締められた。リョーマの帽子が、ふわりと落ちてゆく。
「ぶちょ……」
「………」
「……部長…」
身体がほんの少し離れ、リョーマの頬が暖かな手塚の両手に包まれた。
「前にもこうしたことがあったな…」
「………」
あの時は二人とも互いの心が見えなくて、苦しみに藻掻いていた。
こんなふうに触れあっていたのに、その温もりは、それぞれの胸をひどく切なく締め付けるだけだった。
だが、今は違う。
そう語りかけてくるような手塚の微笑みに、リョーマも嬉しそうに微笑んだ。
ゆっくりと、二人の唇が重なってゆく。
目を閉じても瞼の裏側まで美しいオレンジ色に輝いているようだった。
リョーマの唇からそっと離れていった手塚の唇が、そのまま頬や、額や、瞼や、髪にまで優しく落とされ、リョーマは陶酔して甘い吐息を零した。
その唇をもう一度塞ぎながら、手塚の腕がきつく抱き締めてくる。
リョーマはあまりの幸福感に眩暈がした。
手塚の背に腕を回してしがみつくと、より一層強く抱き締められた。嬉しくて嬉しくて、リョーマもさらに強く手塚にしがみついた。
この瞬間を、きっと自分は忘れないだろうと、リョーマは思う。
そして、夕陽を見るたびに、この甘い、初めての口づけを思い出し、心を熱くするに違いない、と。
二人がようやく唇を離し、見つめ合う頃には、太陽はその頭頂だけを残して最後の光を地上に届けていた。
「……なんか、あんまり夕陽見てないんスけど…」
頬を夕陽とは違う色に染めて、俯き加減にそう呟くリョーマの髪を、手塚は優しくそっと撫でてやる。ずっと、触れたかった髪。
「また来ればいい。何度でも…」
「うん…」
「…一緒に、な」
リョーマが顔を上げて微笑んだ。
「ういっス!」
「そろそろ戻ろう」
「あ」
リョーマは小さく声を上げ、手摺から身を乗り出してコートを伺った。
「うわ、もう誰もいないっスよ」
「………」
手塚は左手でクシャッと自分の前髪を掻き上げると溜息をついた。
「サボらせてしまったか……明日の朝、二人でグラウンドでも走るか」
リョーマがプッと吹き出す。
そのままクスクスと笑いながら帽子を拾って被り、ちょっと意地悪そうな目で手塚を覗き込んだ。
「規律を乱すヤツは、アンタ、許さないんだもんね」
「………そうだ」
バツが悪そうにそう呟いてから、手塚はリョーマの手を引いて歩き出した。
「大石が探しているかもしれないな……不二にも何か言われそうだ…」
「え?」
「いや…」
大石にも不二にも、手塚がリョーマに対して特別な感情を抱いていることが知れてしまった。いや、もしかしたら乾も勘付いているかもしれない。
これからのことを思って手塚は小さく溜息をついた。大石はまだいいとして、不二と乾は、扱いが厄介だ。
「部長……」
「ん?」
「あ………いや、何でもないっス」
真っ赤になって俯いたリョーマの肩を、手塚はそっと抱き寄せた。
この、かけがえのない存在を手に入れたのだ。この先にどんな困難があろうと構うものか、と手塚は思う。
例え何があっても、この存在を、手放したりはしない。
ドアに手をかけて、手塚は後ろを振り返った。すでに太陽は完全に沈み、あたりをまた違う色に深く染め始めている。
「………ありがとう」
この場所に、この空に、この風に、自分たちを出逢わせてくれたすべての存在に、手塚は感謝した。
「部長?」
「ああ」
手塚はドアを閉めてしっかりと鍵をかけた。
「行こう」
二人で並んで階段を下りてゆく。
そんなちょっとしたことにまで、手塚の心には喜びが溢れてくる。
「まだまだだ」
「え?」
「もっと、幸せになろう」
一瞬きょとんと目を丸くしたリョーマは、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「ういっス!」

幸せとは「してもらうもの」でも「してやるもの」でもないと手塚は思う。
この先ずっと共に在りたい存在と、共に築き上げてゆくものだと思っている。
そして、どんなに小さな幸せでも、それを感じ取れるような人間でありたいと、思う。
リョーマにも、そうあって欲しい、と。


自分たちは、やっとスタートラインに立った。
何もかも、これから始まってゆく。
廊下を歩きながら、二人は同じことを考えていた。
長くなるであろうこの先の人生という道のりを、こんなふうに肩を並べて、どこまでも二人で歩いていこうと。



オレンジ色の甘い記憶は、未来への小さな誓いと共に、大切に二人の胸の奥にしまわれた。








                          





20050114