  涙
  
  
      
  更衣室に入り、ウェアを脱ごうとして、手が震えていることに手塚は気づいた。 
      すべてを告白した。して、しまった。 
      もう後戻りはできない。 
      もしかしたらもう、リョーマとは言葉すらも交わせなくなるのではないかと思っていた。だがリョーマは「明日」と言った。 
      あの屋上で、明日、待っていて欲しい、と。 
      「越前……」 
      思考に囚われて固まりそうになる身体を叱咤して、手塚はどうにか着替え終えて更衣室を出た。
 
 
  「手塚」 
      コートから少し離れたところで大石が現れた。 
      「来ていたのか、大石」 
      「…気になったから…」 
      「………」 
      それからしばらくは会話をせずに歩いて駅に向かい、二人は電車に乗り込んだ。 
      「全力を出すとは聞いてなかったぞ」 
      車内に入ると大石が口を開いた。 
      「全力でいかなければやられていた…のか?」 
      手塚は口を噤んだ。リョーマとの試合について、例え大石相手であっても、その想いを語るつもりはない。 
      「大石、これから病院に寄ってもいいか?」 
      最初から最後まで全力を出していったので、やはり肘のことが気にかかる。 
      リョーマのためなら肘が壊れてもいいと思う気持ちに嘘はないが、できるならば、まだ、青学の仲間と共に戦っていたい。 
      大石は「無理するからだ」と、少し怒ったように言ったものの、本当に心配してくれているのが手塚にはわかって、少し申し訳ない気持ちになった。 
      「……手塚…越前は…乗りこえてくれるだろうか」 
      不安げに呟く大石の声に、手塚は窓の外を見つめる瞳をそっと伏せた。 
      (「乗り越える」どころじゃない。あいつは、これからもっと高く羽ばたいてゆくんだ) 
      試合を終えて自分を見上げてきた瞳の強さを、手塚は思い浮かべた。 
      強く、鋭く、決して諦めない、真っ直ぐで澄んだ瞳を。 
      思い出しただけで心が熱くなった。心が、歓喜した。 
      自分のすべてを託せる存在を、やっと見つけることができた。 
      試合中、明らかに動きの変わったリョーマの背後にサムライを見た気がした。サムライ、と表現するのは、その殺気とも取れる気迫が、闘志が、日本古来の漢(おとこ)が放つもののように感じたからだ。 
      (そう言えば、越前南次郎も「サムライ南次郎」と呼ばれていたな…) 
      手塚は映像や写真でしか見たことのない南次郎のプレイを思い出す。 
      (越前は、きっと父親を越えるだろう) 
      越える、と言うよりも、南次郎とは別の「サムライ」になるだろうと思う。越前リョーマという名の、全く新しい、違う「サムライ」に。 
      そう思った途端手塚は、自分の中で何かが熱く燃え上がるのを感じた。 
      (あいつと、もう一度戦いたい…) 
      もっともっと強くなったリョーマと、何の柵もなく、ただ純粋に、コートで向き合いたい。 
      全力で追いかけてくるリョーマを、さらに強くなった自分で、迎え撃ちたい。 
      (もう一度……) 
      「聞いてるのか、手塚?」 
      大石の声に、手塚はハッと我に返った。 
      曖昧に「ああ…」とだけ返事をする手塚に、大石は呆れたような視線を向ける。 
      「……試合の後、何を話していたんだ?」 
      「……」 
      再び沈黙した手塚に、大石は小さく溜息をついた。 
      「……お前と、越前との間に何があるのかは知らないけど、越前はきっとお前の想いをわかってくれるさ」 
      ふと、手塚は顔を上げて大石を見つめた。 
      視線を向けられた大石は、ニッコリと微笑む。 
      「越前のヤツ、練習中はいつも一生懸命、お前のこと見ていたんだぞ。知っていたか?」 
      「え…」 
      「練習中だけじゃないかな。いつだったか、校内で越前を見かけた時、何かをじっと見ているから、何を見てるのかなと思ってその視線を辿ってみたらお前がいたんだよ」 
      手塚は目を見開いた。避けられていると思っていた校内で、自分の気づかないうちに、リョーマにじっと見られていたなんて。 
      「すごく一生懸命な目をしていたんだ。越前が女の子だったら『手塚に恋してるのかな』って思うくらい」 
      「………」 
      「手塚?」 
      ただの沈黙ではなく、言葉をなくしたように黙り込んだ手塚を怪訝そうに見て、大石が首を傾げた。 
      「……いや」 
      手塚はやっとそれだけを口にすると、再び窓の外に視線を移す。 
      見つめる、と言う行為は何を表すのかわからない。何を想って、リョーマは自分を見つめていたのか、聞いてみたい。 
      「明日も天気よさそうだな、手塚」 
      「………ああ」 
      目を上げればかなり傾いた太陽がオレンジ色の穏やかな光で視界を覆い尽くす。 
      眩しさに目を細めながら、手塚は愛しいその名を心の中で呟いた。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  病院の診察では大石の叔父でもある医師に少し小言を食らったが、大事には至っていなかったようなので、手塚はほっとした。 
      竜崎への報告に同行するという大石を何とか宥めて別れ、手塚は学校へと向かった。「報告をする」事が、リョーマとの試合を許可してもらう一つの条件でもあったのだ。 
      休日であるにもかかわらず学校で待っていてくれた竜崎に試合のことを報告すると、竜崎は大きく頷いてニッコリと笑った。 
      「ご苦労だったね、手塚。肘はどうだい?」 
      「ここへ来る前に病院に寄ってきましたが、異常はありませんでした」 
      竜崎は「そうかい」とだけ言って、安堵の笑みを浮かべた。 
      「ご心配ばかりおかけして申し訳ありません」 
      「いいや」 
      「………竜崎先生、まだここに居られますか?」 
      唐突な手塚の言葉に、竜崎は怪訝そうに眉を上げた。 
      「まあ、ついでにちょっと書類を片づけようとは思っているが………なんか用かい?」 
      「少し、屋上に行きたいのですが、いいでしょうか」 
      「ああ……」 
      竜崎も生徒会長の特権のことは知っていたので、怪訝そうな目をしながらも「ちょっとだけだぞ」と言って許可した。
 
 
  誰もいない校内を歩き、階段を上り、屋上への扉の前に辿り着く。そうしてゆっくりと鍵を回し、なぜかとても久しぶりに来るように思える屋上へ、手塚は足を踏み入れた。 
      そこにはいつも見ている青空はなく、オレンジ色に染まった美しい世界があった。 
      その、心を打つような優しい美しさに、手塚は知らず胸のあたりをギュッと掴んでいた。 
      「越前…」 
      名を口にするだけで胸が締め付けられる。 
      手塚は息を吐いて、いつもリョーマが寝そべっていたあたりまで歩いていった。 
      傍らにバッグを置いて柵に手をかけ、グラウンドの西端に浮かぶ太陽を見つめる。 
      「明日…か…」 
      明日、リョーマはどんな宣告を自分に下すのだろうと思い、手塚はきつく眉を寄せる。 
      こんなことならあの場でリョーマの話を聴けば良かったかもしれないとも思う。 
      (いや、あの場では、どんな宣告でも冷静には聴けなかっただろう) 
      激しい罵倒や決別を告げる言葉を聴かされたなら、これで終わりなのだと激情に身を任せ、リョーマを更衣室に押し込んで無理矢理自分の想いを押しつけてしまったかもしれない。 
      それくらい、ギリギリのところで自分を抑え込んでいた。 
      (どうしようもない危険なヤツだな、俺は…) 
      どうして想うだけでいられないのだろう、と手塚は自分に問うてみる。 
      (どうして…) 
      それは分かり切っていることだった。 
      愛しいのだ。どうしようもないほど、リョーマが愛しくてならないのだ。 
      この身も、この心も、すべてをリョーマに捧げてもいいほど愛しい。だからこの肘が壊れても構わないとさえ思った。 
      なのに、すべてを投げ出してもいいほどの強い想いと同じくらいの激しさで、リョーマを欲していることも真実なのだ。 
      あの瞳で、真っ直ぐ見つめられたい。 
      あの唇で、名を呼んで欲しい。 
      あのしなやかな腕を、脚を、自分に絡めて欲しい。
  あの心が、欲しい。
  ふいに穏やかな色をした太陽が揺らいだ。 
      手塚はそっと左手で眼鏡を外し、もう一方の手で目元を覆った。 
      リョーマが愛しすぎて、胸が苦しい。求めすぎて、つらい。 
      (離れることなど、できるのだろうか……) 
      こんなにも激しい恋情を抱えたまま、リョーマから離れて、自分は生きてゆけるのだろうか。 
      部活で見かけるだろうリョーマに、想いを溢れさせたりしないだろうか。 
      試合中に、共に戦うであろうリョーマを想って、心乱れたりしないだろうか。 
      自分を見失いそうなほどのリョーマへの想いを、自分は抑えることができるのだろうか。 
      「………」 
      しばらく動かないでいた手塚は、大きく息を吐いてからそっと目元の手を外し、眼鏡をつけた。 
      (…いや、離れてなど生きてはゆけない。だから、この想いを抑えることができなくとも、傍にいることを選ぶのだろう) 
      誰よりも愛するリョーマに、誰よりも幸福になってもらうために、自分は傍に居続けるのだ。 
      自分が想いを押しつければリョーマに幸せはない。試合中に自分が心乱れれば、リョーマは責任を感じて心に影を落とすだろう。 
      そんなことは、そんな思いは、リョーマにはさせない。 
      例えリョーマへの想いに自分を見失っても、リョーマのことだけは何者からも、どんなことからも、守り通してみせる。 
      そういう愛し方をしようと、決めたはずだ。つらさも、苦しさも、リョーマが光の中で笑んでくれることを思えば、大したことではないはずだ。 
      覚悟を、今こそ決めようと手塚は思う。 
      リョーマの宣告がどんなものであれ、取り乱さずに、受け入れよう、と。 
      それが、「手塚国光」にとって、最後のプライドなのだと。 
      手塚はもう一度、しっかりと、沈みゆく太陽を見据えた。 
      「すべては、明日だ…」 
      青空も、優しい風もない屋上で、まるで儀式を済ませたように、手塚の瞳から雑多な色が消えた。 
      残されたのは、ただ、リョーマへの愛しさだけだった。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  眠れぬ夜を過ごし、夜明けと共に手塚がベッドから起き出した頃、リョーマもまた、逸る想いに浅い眠りから目覚めていた。 
      いつものように登校し、いつものように朝練をこなし、授業が進んでゆく。
 
  そして、ついに四時間目の授業の終わりを告げるチャイムが響いた。 
      手塚は昼食も摂らずに屋上へと向かう。 
      リョーマもまた、昼食にはほとんど手をつけずに屋上へと向かった。 
      いつものところに、しかし、いつもとは違って立ったまま空を見上げる手塚の耳に、ドアの開く重い音が静かに聞こえた。
  手塚は、グッと奥歯を噛み締めた。 
      
 
 
 
 
 
  
      続
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      20050111
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