  流れる汗
  
  
      
  その日は朝から落ち着かなかった。 
      いや、その日だけではなく、もうずっと、リョーマは落ち着かない日々を送っている。 
      三日前の、手塚に試合を言い渡された、あの日からずっと。
 
 
  春野台の区営コートは家から少し離れたところにあった。 
      バスに乗って駅まで行き、そこから一駅だけ電車に乗った方が早く着くので、リョーマはそのルートでコートに向かう。 
      (どうして急にオレと試合なんか…) 
      瞼の傷も治り、練習も普通に開始しているのでコンディションはいい。怪我をしたことへの恐怖もまるでない。 
      なのに、落ち着かない。 
      手塚が自分に試合を持ちかける理由が、リョーマにはわからないからだ。 
      地区大会に勝利した後、河村の店で向けられた手塚の視線を、リョーマはずっと忘れないでいる。いや、忘れられないでいる。 
      ひどく冷たく、痛いほど鋭い瞳だった。 
      それがそのまま自分に向けられた感情なのだろうと思うと、リョーマはいつもつらくなって溜息を吐いた。 
      だが。 
      試合を挑まれたからには、負けるつもりはない。 
      どんなに実力が上と思える相手であっても、気持ちで負けるつもりは決してないのだ。 
      リョーマはグッとバッグを担ぎ直すと、しっかりとした足取りで指定されたコートへの道を一歩一歩踏みしめて歩いた。
 
 
  リョーマがコートに着くと、手塚がすでにコートの端でウォーミングアップをしていた。 
      手塚の他には、誰もいなかった。 
      「ちーっス」 
      更衣室で着替え終えたリョーマが声をかけてコートに入ってゆくと、手塚はチラリと視線を向けて頷いただけで、何も言わずアップを続ける。 
      リョーマは小さく溜息をついてから、持ってきたバッグを手塚のバッグから少し離れたところに置いた。 
      コートの端から端までを何往復か走ってからストレッチを始める。気温はさほど低くはないので、すぐに身体は温まってきた。 
      手塚は何面かある内の一番端のコートの方へ行き、一人で壁打ちを行っている。 
      リョーマはストレッチを続けながら、手塚の背中を見つめた。 
      (部長と…戦えるんだ…) 
      それも、誰もいないところで、誰にも邪魔されないところで、たった二人きりで。 
      そう思った途端、リョーマの鼓動がドクンと大きく脈打った。 
      (あの屋上みたいだ……) 
      見上げれば青い空もある。柔らかな風も時折頬を撫でてゆく。 
      そして、手塚がいる。 
      まさに、あの、リョーマの大好きな場所そのものだった。 
      少し違うのは、見上げた空をよぎるように電車が轟音と共に走り抜けるのと、そして、二人が制服を着ていないことだった。 
      今、着ているのはテニスウェア。いわば、戦うための服だ。 
      リョーマは目を閉じて息を吐いた。 
      (気持ちを、切り替えなきゃ…) 
      念じるように口の中でそう呟き、ゆっくりと目を開ける。 
      その瞳には、もう、迷いのない光が宿っていた。
 
 
 
 
  ***
 
 
 
 
  リョーマに試合を持ちかけてから、手塚は入念にコンディションを整えていった。 
      しばらく90%程度の力でショットを放つことが多かったせいか、本気でショットを打ち込むと微妙に球筋がぶれる感触があったが、それもすぐに直すことができた。 
      どんな試合よりも、この試合は、自分のコンディションを完璧な状態にしておかなくてはならない。 
      そうしなければ、リョーマに戦いを挑む意味がなくなる。 
      今日も手塚は約束の時間よりもずいぶん前に出向き、ウォーミングアップを開始していた。念入りにランニングをして身体を温め、充分にストレッチをして身体を解す。 
      そうして一段落ついた頃、ふと、手塚は空を見上げた。 
      午後になって落ち着いてきた空は突き抜けるような眩しさはないが、代わりにどこまでも穏やかな色で自分たちを包んでくれている気がする。 
      (あの屋上で見た空のようだ…) 
      二人であの空間を共有していたのはほんの少し前のことなのに、もうずいぶん時が経っているような錯覚を起こす。 
      それほど、自分の心に大きな変化があったのだろう、と手塚は思う。 
      リョーマを心から愛していると自覚した。 
      いつからかなんてことはわからない。明確にする必要もない。リョーマを想う心に揺るぎがないことだけで、手塚は前に進める。 
      ただリョーマのためだけに。 
      例え完治したばかりの肘を再び痛めることになっても、全力を出してリョーマと対峙したい。そうすることでしか、リョーマへの想いを表せない。 
      言葉で想いを告げるのは、ある意味、簡単なことだと思う。「好きだ」と、たった三文字の言葉を発すればいいのだから。 
      だが、相手の心に自分の想いを伝えるのには、それだけではあまりにも不十分すぎる。それどころか、真っ直ぐに伝わるのかも疑問だ。 
      手塚は言葉を巧みには操れない。操れるのは、自分のラケットから繰り出されるボールくらいなものだ。 
      だからと言うわけではないが、テニスというスポーツを通じて、打ち出すボールに自分の想いをも、込めてみようと思う。 
      深く深くリョーマを想い、その行く末を、真剣に案じていることを。 
      リョーマがどう応えるのかはわからない。いや、応えてくれるのかも、わからない。 
      それでもいい、と手塚は思う。 
      それでも、この試合をきっかけにして、リョーマの中のテニスというスポーツの存在意義が、ほんの少しでも違うものへと変わっていってくれるなら。 
      手塚は空を見上げる。 
      この空のように、自分は変わらずリョーマを見守り続けようと思う。 
      例えどんな結果になっても。
 
 
  珍しく時間より早めにリョーマが姿を現した。 
      挨拶してくるリョーマの声が、心なしか固いように感じる。きっと自分の表情も、いつにもまして硬いだろうと手塚は思う。 
      もう、賽は投げられたのだ。 
      手塚が揺るぎのない瞳をして、ラケットを手に取った。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  手塚とリョーマのワンセットマッチの試合が、ついに開始された。 
      いつものようにどこか人を嘲るような笑みを浮かべるリョーマに、手塚は表情を消し、ひと欠片の容赦もなくショットを打ち込む。 
      手塚の本気を感じ取り、リョーマの表情から笑みが消えた。
 
  *
 
  こんなにもこの人は強かったのか、とリョーマは思った。 
      まるで歯が立たない。 
      どこに打ち返しても、どんなに強力なショットを打っても、忽ちベストポジションに回り込んで、リョーマの数倍もの威力のあるショットを打ち返してくる。 
      むしろ、リョーマのボールが手塚のベストポジションに吸い込まれて向かっていくように思えて、リョーマは苛立ちを覚えた。 
      (何なんだ、この人は…!) 
      レベルが中学生のものではない。それどころか、手塚なら自分の父親とだって、対等とまではいかなくても、リョーマのような一方的な試合にはならないだろう。 
      (ちくしょう……っ!) 
      学年は違えど、同じ中学生にこんな人がいたなんて。こんなにも巧い人がいるなんて。リョーマの胸に、今まで感じたことのないほどの悔しさが湧き起こった。 
      (勝ちたい) 
      リョーマは歯を食いしばった。 
      (勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい!) 
      「くそっ!」 
      追いつけなかったボールが転がるのを見つめてリョーマが吐き捨てるように言った。 
      今まで自分がやってきた練習は何だったんだろうと、リョーマは思う。自分のプレイなど、この男の前では幼子の遊びのようなものだ。 
      自分が今までやってきたこと、それは、ただの「父親への反抗」だったのかもしれない。 
      気がつけばラケットを持たされていて、いつの間にかコートに立たされていた。コートに立てば当然のようにボールを打つようになり、打つようになれば、もっと巧く打てるようになりたいと思った。それなのに、なかなか巧くなれなくて、父親に鼻で笑われる日々が続いた。 
      悔しかった。 
      悔しくて悔しくて、いつかこのテニスで、父親を泣かすほど強くなってやろうと思うようになった。 
      純粋に「巧くなりたい」と思っていたテニスは、いつからか、ただ「父親を叩きのめす」ための道具になり果てていた。 
      『お前は何のためにテニスをするんだ?』 
      「え?」 
      すぐ耳元で手塚に囁かれた気がした。 
      (何の……ために……?) 
      同じことを同級生にも訊かれた気がする。その時リョーマは「倒したいヤツがいるから」だと答えた。 
      でも、今、このコートに立っている自分は、父親に勝ちたいから戦っているのではない。もっと違う、もっと純粋な…… 
      『お前だけのショットを打ってこい。俺が打ち返せないような、お前だけのショットを』 
      また手塚の声が聞こえた気がする。 
      (そうか、この打球が…) 
      なぜだろうか、手塚のショットを打ち返すたびに、リョーマの心に手塚の声が響くのだ。 
      それはとても厳しく、揺るぎなく、なのにとても暖かな声で、リョーマの心に入り込んでくる。 
      (オレだけのショット……) 
      リョーマはふと、目を上げた。そして、今まで、自分が目で追っていたものを思い出した。 
      それは父親のプレイ。自分の敵わないショットを打ち出すそのフォーム。試合の運び方。挑発するような瞳までも。 
      リョーマはそれを必死になって覚え込み、完璧に真似をしてみせようと思った。そうすることで、強くなれる気がした。 
      (それだけじゃ、ダメなんだ) 
      コピーしただけでは、本物を越えられるはずがない。本物に敵うはずがなかったのだ。 
      (だから、オレだけのショットを、って……) 
      リョーマの心の中に立ち込めていた深い霧が、一気に晴れていくような気がした。 
      (部長……) 
      その名を心の中で呟きながら、リョーマは、真っ直ぐな瞳で手塚を見つめた。手塚もリョーマを見つめ返す。深い、どこまでも深い色をした瞳だった。 
      (手塚部長……) 
      あの河村の店でリョーマに向けられた瞳の意味が、たった今、リョーマにはわかった気がした。 
      手塚は真剣にリョーマと向き合い、身を以て、リョーマが進むべき正しい道に気づかせてくれたのだ。きっと、生半可な想いでは、こんなふうに『気づきの瞬間』を与えてはくれなかっただろう。 
      刺し貫かれそうなほど鋭い瞳が見ていたものは、リョーマではなく、リョーマの中の、テニスへの歪んだ情熱。いつからか、本来のテニスへの想いを歪めていた父への執着。 
      (胸が……熱い…) 
      手塚のショットを打ち返す腕が、ふと、軽くなった気がした。 
      いや、腕だけでなく、足が、身体が、何よりもこの心が、ふわりと別世界に降り立ったように軽くなっている。 
      (動く…!) 
      リョーマの動きが変わった。 
      手塚のショットに食らいつき、がむしゃらに打ち返し始める。 
      どこに打ち込まれても、どんなに強いショットが来ても、リョーマは何も考えずに食らいついた。 
      「まだまだぁっ!」 
      脇を抜かれたショットを見送りもせず、そう叫んだリョーマを見て、手塚の瞳がふわりと柔らかく細められた。
 
  *
 
  リョーマの中で何かが変わったと、手塚はそう感じた。 
      無鉄砲に、ただがむしゃらに突っ込んでくるようにも見えるが、そうではないことを手塚はわかっている。 
      (気づいてくれたか…) 
      いや、思い出してくれたのか、と言う方が正しいかもしれない。 
      ここ数年間、リョーマの中で押さえつけられていた本来の情熱が、リョーマの中で息を吹き返してきたのが手に取るようにわかる。 
      (もう、大丈夫だな……?) 
      手塚の中で、ひどく張りつめていたものが、その瞬間、ふっつりと弾け飛んだ。 
      それでも手塚は最後まで手を緩めることなくリョーマを叩きのめした。リョーマと同じ歳頃の普通の選手だったなら、きっと立ち直れずにテニスをやめてしまうくらい厳しく、容赦なく、完膚無きまでに。 
      そして最後の最後で、手塚はリョーマに伝えたいショットを打った。リョーマならば、一度見ただけでこのショットを覚えることだろう。 
      それは、どのショットよりも儚く、柔らかく、だが、どのショットよりも切り札として使える『零式ドロップショット』。 
      (このショットを、お前に託す) 
      地面についた途端まるで巻き戻されるようにネットの方へ転がってゆくボールを見て、リョーマはガックリと膝をついた。 
      そうして、長くもあり短かった試合に決着がついた。 
      膝をついたまま俯くリョーマへネット越しに歩み寄った手塚は、少しだけ息を弾ませながら「越前」と、その名を呼んだ。 
      顔を上げたリョーマが真っ直ぐ手塚を見つめる。その瞳は、敗者のものではなく、まだ諦めてはいない、挑戦者の瞳だった。 
      手塚は、あまりの嬉しさに言葉が出てこなかった。 
      こんなにも徹底的に打ち負かされたのにもかかわらず、これほど強く輝く瞳を、手塚は今まで見たことがない。 
      この揺るぎない闘志は、自分が大事にしているものを託すに値する。きっとこの男はどこまでも高く羽ばたき、周り中を巻き込んで、光の満ちた場所へと飛んでゆくだろう。 
      「越前」 
      もう一度、手塚はリョーマの名を呼んだ。愛しくて堪らない、その名を。 
      「お前は、青学の柱になれ」 
      自分が卒業していった後の青学を、お前と共に、お前の手で、光の満ちる場所へ導いて欲しい、と。 
      「………」 
      リョーマはほんの少し不思議そうな瞳をした。なぜ今、それを言うのか。 
      手塚たちが卒業していくのはまだ少し先のことだ。なのに、なぜ今すぐ別れを言い渡すかのように、自分の切り札のショットを見せ、そんなことを言うのか。 
      「………」 
      「………」 
      長い、沈黙が二人に訪れた。 
      手塚はリョーマをじっと見つめたまま動かない。 
      心持ち逆光になっている手塚のこめかみから、一筋の汗が伝い落ちるのをリョーマは見ていた。 
      手塚がランニング以外で汗ばむのを、リョーマは初めて見た気がする。いつも無駄のない動きで冷静なプレイを見せる手塚が、自分との試合で汗ばみ、僅かに息を乱しているのが、リョーマはほんの少し嬉しい気がした。 
      だがリョーマは、その嬉しさの反面、なぜだかよくわからない不安が少しずつ胸に押し寄せて来るのを感じていた。 
      長い沈黙の後に来る手塚の言葉が、何か自分にとって良くないもののように思えて、苛立ちとは違う焦りのようなものが込み上げてくる。手塚が次に発する言葉を待ちながら、リョーマは自分でも気づかぬうちに息を詰めていた。 
      「越前」 
      「はい」 
      ようやく手塚の唇が動き、リョーマの名を呼んだ。リョーマはいつもと違う空気に、少し表情を強ばらせながら、固い返事を返した。 
      「これから俺が話すことを、しばらく黙って聞いていて欲しい」 
      「……はい」 
      「これから話すことは、テニスとは関係のない話だ。部活とも関係ない。だから、俺をテニス部の部長とは思わずに、話を聴いて欲しい」 
      リョーマには手塚の言葉の意味が少しわからなかったが、小さく「はい」と答えた。 
      返事をした時に、自分のこめかみからも新たな汗が流れ落ちて、リョーマは無造作にリストバンドで顔を拭った。 
      また手塚が押し黙った。 
      沈黙を埋めるように、頭上を派手な音を立てながら電車が通過してゆく。その電車が通過するのを待っていたように、手塚がゆっくりと口を開いた。 
      「…あの屋上は、本当は一般生徒の立ち入りを禁止している。知っていたか?」 
      「え?」 
      緊張して構えていた割に、そんな他愛もないようなことを言われ、リョーマは拍子抜けして目を丸くした。 
      「一般生徒には開放されていない。あそこに自由に出入りできるのは、先生と、そして生徒会長だけなんだ」 
      「あ……」 
      リョーマはドアにかかっていた「立ち入り禁止」のプレートの存在を思い出した。いつも、完全に無視してドアを開けてしまっていたけれど。 
      「生徒会長という役職は、かなりストレスが溜まるんだ。だから、それを考慮して、あの場所で溜まったストレスを解消できるようにして欲しいと、ずっと前の生徒会長が、学校側に進言したらしい」 
      なるほど、とリョーマは思ったが返事はせずに手塚の言葉の続きを待った。 
      「だから、あの場所にお前が来た時は、正直言って驚いた」 
      手塚が小さく溜息混じりにそう言ったので、リョーマはやはり自分の存在が手塚にとっては迷惑だったのだろうと思い、胸が痛んだ。 
      「あの場所で、一人で本を読むのが好きだった。だから、お前が現れた時は好きな時間を邪魔されるのかと思ったが……そうでもなかった」 
      そう言いながら空を見上げた手塚を、リョーマは小さく目を見開いたままじっと見つめる。邪魔ではなかった、と言われた気がした。だが、受け取り方が間違っているのではないかと言葉の続きが早く聴きたいと思う。 
      「最初にお前が屋上に現れた時、空を見上げて、どこか嬉しそうな顔をしただろう。それがとても印象に残っている。…俺と同じ感覚を持っているのかもしれないと、少し親近感を覚えたから」 
      リョーマは少しだけ頬を染めた。そんな一瞬の表情を手塚には見られていたのかと。そしてその時自分は手塚に良い感情を抱いていなかったのに、手塚の方は親近感を抱いてくれたと知って、なぜか恥ずかしい気持ちになった。 
      「あの屋上が、好きだったのだろう?」 
      手塚に問われてリョーマは頷いた。 
      あの屋上が、あの空間が、リョーマは大好きだった。 
      「俺も好きだった。……だが、お前は急に来なくなった。なぜだ?」 
      「……っ」 
      リョーマはビクッと身体を揺らして口を噤んだ。どう、説明すればいいのかと、少し戸惑う。 
      だが手塚はリョーマが答えないのを気にしないかのように、言葉を続けた。 
      「…お前が図書室の新刊のリストをくれた時は、驚いた」 
      「う……」 
      今度こそリョーマは頬を赤く染めた。手塚には無用だったかもしれないリストのことを言われて、あの時の自分の行動を思い出し、堪らなく恥ずかしくなる。 
      「あのリストの礼をまだ言ってなかった。ありがとう、越前。すごく嬉しかった」 
      穏やかな瞳で礼を言われ、リョーマは大きく目を見開いて、先程とは違う意味で頬を染めた。真っ直ぐ手塚を見つめていられなくて、そっと視線を逸らす。 
      「だが、次の日からお前は屋上に来なくなったな。俺が、ドアを開けるのが遅かったからか?」 
      「え?じゃあ…」 
      自分が立ち去った後で、やはり手塚はあの屋上に現れたのかと思い、リョーマは切なげに眉を寄せた。待っていれば良かったと、今更後悔が胸に浮かぶ。 
      「それからもずっと、お前は屋上に来なかった。だがお前が来なくなって、俺は気づいたんだ。あの空間にいて心が癒されると感じたのは、青い空と、柔らかな風と、そしてお前がいたからだと」 
      「…っ」 
      声が出せずに、リョーマは息を吸い込んだ。 
      今、手塚はなんと言った? 
      手塚があの空間を気に入っている要素のひとつに、自分も含まれていた? 
      「……ぅ……そ…」 
      手塚の眉が、そっと寄せられた。 
      「………いつからかはわからない。気がついた時には、俺はお前と共有するあの空間がとても好きになっていて……毎日、昼休みになるのが待ち遠しくなっていた」 
      大きく見開かれたリョーマの瞳に、手塚の真剣な瞳が映る。 
      「お前に逢えるのが……堪らなく、嬉しかった」 
      あまりの驚きで、リョーマの喉が硬直してしまい、言葉を紡ぎ出せない。息さえもままならなくて、リョーマは無意識のうちに小さく眉を寄せていた。その表情を見た手塚は、一度つらそうに目を閉じて静かに息を吐き出すと、ゆっくりと目を開けて、もう一度リョーマを見つめた。 
      「すまない」 
      「え……」 
      リョーマはやっとの事で短く声を発して訊き返した。 
      「…お前のことを、好きになってしまって、………すまなかった」 
      「!」 
      「心配するな。もうこんなことは言わない。部活以外では、お前に関わることはしない。…あの屋上も、鍵は開けるが、俺は行かないから、俺が生徒会長の間は好きに使っていい」 
      そう言って手塚はリョーマに背を向けた。 
      「……不快な思いをさせてすまない。テニス部は、やめないでくれ。……これは、テニス部の部長として頼む」 
      「……ぁ…」 
      「話はそれだけだ。聞いてくれてありがとう」 
      手塚がバッグを担いで更衣室に向けて歩き出した。 
      リョーマは混乱していた。 
      手塚が発した言葉を最初から思い起こして整理しようとするが、あまりに思考が混乱しすぎて、何も考えられなくなっている。 
      (部長が、オレのこと、好き……?) 
      「……ちょっ、待ってよ!」 
      叫ぶようなリョーマの声に、手塚の足が止まった。だが背を向けたまま、リョーマを振り向きはしなかった。 
      「待って……ちょっと、待って……」 
      「いいんだ、越前」 
      手塚の静かな声が、リョーマの言葉を遮った。 
      「悪いのは俺だ。お前は何も気に病むことはない。…お前の想い人と、うまくいくよう祈っている」 
      「え……?」 
      何のことを、手塚が言っているのかリョーマにはわからなかった。ただ、手塚が何かを誤解していることだけはわかる。 
      「明日!」 
      堪らず立ち上がって叫んだリョーマを、今度は手塚も振り返って見つめた。 
      「明日?」 
      「明日、屋上行くから。……アンタもあそこで待っていて」 
      今は冷静になれそうにないと、リョーマは思った。手塚も、どこか自分の思考に囚われていて、此方の言葉を素直に聞いてくれそうにないと、それだけは混乱したリョーマの頭でも判断できた。 
      「越前…?」 
      「明日!絶対行くから、待っててください!」 
      「………」 
      必死な様相のリョーマに、手塚は「わかった」とだけ言って頷いた。 
      そのまま立ちつくすリョーマを置いて、手塚は帰っていった。
 
 
  しばらくして、やっと身体が動くようになったリョーマは、足下に転がっているボールをのろのろと拾い上げた。 
      まだ、思考は混乱したままだった。 
      (部長が、オレを、好き?) 
      「うそ……」 
      俄には信じられない言葉だった。 
      だが、リョーマを見つめていた手塚の瞳には、偽りの色など微塵も感じなかった。 
      (部長が……オレのこと……) 
      「好き…」 
      そう言葉にした途端、リョーマの胸がカッと熱くなった。頬も燃えるように熱くなる。心臓が胸を突き破って飛び出しそうなほどドクドクと脈打ち始めた。 
      「好き……部長が、オレを……」 
      リョーマは「ああ」と呟いて空を見上げた。 
      ゆっくりと黄昏色に染まってゆく空に、今日までの手塚とのやりとりが鮮明に蘇ってくる。 
      第一印象は最悪だった。 
      人の話を聴こうともしない、頭の固い、テニスが巧いだけの鉄面皮だと思った。 
      屋上にいる手塚を見ていて、それは違うのだとわかった。いつか、テニスで戦ってみたいと思うようになった。 
      そうしていつしか、あの屋上で手塚に逢うのが楽しみになっていた。自分だけが、「素」の手塚を知っていることに、優越感を覚えた。 
      それから、手塚の瞳に自分が映っていて欲しいと、思うようになった。あの真っ直ぐな瞳で「越前リョーマ」を見て欲しいと、そう思った。 
      (どうして今までわからなかったんだろう…) 
      こんなにも自分の心の中で、手塚の存在が大きくなっていた意味に、どうして今まで気づかなかったんだろう。 
      いや、本当は知っていた。そして、その意味を表す言葉も、リョーマは知っていたのだ。 
      ふいに、河村の店で不二に尋ねられた言葉が、耳の奥で蘇ってきた。
  『越前、手塚のこと、好きなんでしょ?』
  不二はそう訊いてきたのだ。 
      柔らかく、優しいその声音に、自分は素直にこう答えた。
  『うん。すごく好き。大好き』
  リョーマは空を見上げた格好のまま、目を閉じた。 
      「好き」 
      そっと呟いてみる。 
      「部長が、好き。大好き」 
      今まで胸に渦巻いていたモヤモヤが綺麗になくなり、つかえていた大きな重い塊までもが、ゆっくりと溶けて消えてゆくのを感じる。 
      リョーマはふわりと目を開けた。 
      美しい夕焼けが柔らかく微笑むように、自分を包んでいる。 
      リョーマは握り締めていたボールを持って、エンドラインまで歩いていった。 
      (アンタが、好きだ……) 
      手塚がいた向かいのコートを見つめてから、ゆっくりとトスを上げた。 
      「はぁっ!」 
      力いっぱいサーブを打ち込み、フェンスに当たって転がるボールをじっと見つめた。 
      「部長…」 
      呟いて、リョーマは向かいのコートに行ってボールを拾い上げ、またサーブを打った。何度も何度も、ボールを拾い上げてはサーブを打ち込んだ。 
      リョーマの額に汗が滲み始める。 
      (アンタと一緒に、もっと、ずっと、遙かな上を目指したい) 
      そのために、自分は今のままではダメだと思う。 
      もっと強く、もっともっと、手塚と並ぶほど強く、なりたい。そうでなければ、手塚と共にこの先の時間を共有することなど、きっとできない。 
      「ラストォ!」 
      渾身の力を込めて、リョーマはサーブを叩き込む。 
      コートに叩きつけられたボールは弾けるようにバウンドして向かいのフェンスに大きな音を立ててぶつかった。ボールはそのまま、自身とフェンスを少し変形させて嵌り込んでいる。 
      「もっと…強くなりたい…」 
      リョーマはひとつ息を吐き出すと、帽子を取って、リストバンドで汗を拭った。
 
  自分がテニスをするのは父親を倒したいからだった。この頃はそんなことばかり考えていた。 
      でも本当は、テニスが好きだから、ずっと続けてきた。強く、巧くなりたいから、練習を重ねてきた。 
      今日、そのことを思い出させてくれた手塚に、心から感謝している。 
      そして、そんな手塚と、この先もずっと一緒にテニスをしていたいと思う。 
      いや、テニスだけでなく、たくさんの時間を共有していきたい。 
      「部長……」 
      すべては、明日。 
      二人が共に好きだったあの場所で、これからの新しい『二人の時間』を始められるかもしれない。
 
  くるりと踵を返したリョーマの髪から汗がひとしずく零れ落ちた。 
      地面に辿り着く間の、ほんの一瞬、それは夕日を受けてキラリと輝く。
  その光はまるで、リョーマの心から零れ落ちた、新しい希望の光のようだった。 
      
 
 
 
 
 
  
      続
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      20050108
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