髪の毛




◆7◆



都大会進出を決めて、部員たちの間にさらなる闘志が漲り始めた。
心地よい緊張感と、連帯感。こんなふうに、互いを高めあえる仲間を、心から誇らしく思う。




地区大会が終わった後、河村の好意でささやかな打ち上げ会が開かれた。今日のみんなの健闘を称える祝勝会だ。
病院に行っている彼が戻ってきてから、改めて乾杯をした。
彼は、ちょっと驚いたように大きな目を見開いてキョロキョロとさせながら、当然のように桃城の前の席に腰を下ろした。
彼の隣にいる不二が、何事か彼に話しかけてから、そっと視線をこちらに向けてきた。その視線を避けるようにカウンターに向き直り手元の湯飲みを見つめていると、隣にいる乾が話しかけてきた。
「さっきは珍しいことをしたね」
「……なんのことだ?」
「越前のことだよ。今までの手塚なら、あの状態で、選手に試合をさせるようなことはしなかっただろう?」
「………」
確かにそうかもしれない。
今までの自分だったら、あの場面ですぐに怪我をした選手を棄権させ、自分で決着をつけるために立ち上がったことだろう。
そうしなかったのは、その怪我をした選手というのが、彼だったからだ。
他の選手だったら、たぶん、今まで通り即座に棄権させた。だが、彼だったから、試合を続けさせたのだ。
明らかなその理由を、今は、乾に説明してやるつもりはないけれど。
黙ったままでいると、乾が小さく笑みを零した。
「手塚が誰かを信頼するなんて、本当に珍しいことだね」
内心ギクリとしながら、視線だけをチラリと乾に向けた。乾が手にしていた湯飲みを置いて、こちらに視線を向けてくる。
「越前は特別、と言うことかな?」
「………」
乾の言っている言葉を深読みしそうで、なんと答えるべきか迷っていると、大石が乾の肩越しに笑顔で覗いてきた。
「手塚、鰻のにぎり、頼むか?」
「……ああ」
こちらの会話を全く聴いていなかったらしい大石が、満面の笑顔でカウンター向こうの店主に「鰻の握りを二人前作ってくださいますか?」と声をかけている。
乾は、ちょっと呆れたように笑って「まあ、いいか」と口の中で呟いたようだった。



しばらくして、大石が席を立ち、こちらにやってきた。少し声を潜めて言う。
「手塚、この後、おじさんの病院に行くんだったよな?」
「ああ」
「だったらそろそろ行かないと。今だったらちょうど空いている頃だから。俺も一緒に行くよ」
大石の叔父の病院はかなりの人気があり、タイミングを間違えるとずいぶんと待たされることがある。それを心配して、大石が声をかけてくれたのだ。
そろそろ完治したという宣言を貰ってもいい頃だと思うのだが、慎重な家系らしい先生はなかなかGOサインを出してはくれない。
「乾、俺たちは先に帰るが、みんなのこと、頼んでいいか?」
「ああ、わかった。あまり長居しないように気をつけるよ」
「頼む」
そう言って帰り支度を始めた。
河村の父である店主に礼を言ってから店を出ることにする。店を出る寸前、彼を振り返って見た。
少し眠気を催しているのか、頬が火照っているようにほんのりと赤みが差している。河村から渡されたらしい皿を持ったまま、まるで想いを寄せる人間を見つめるような甘い瞳で、彼はボンヤリとこちらを見ていた。
一瞬、愛しさに、息ができなくなる。
そんな無防備な表情を見せられては、これから先、彼に対して戦いを挑もうとする自分の心が揺らぎそうだ。
彼の柔らかな視線を、柔らかく見つめ返してやりたかった。だが、あえて逆の視線を、彼に向けた。
明らかな敵意を乗せて、甘い感情など一切含ませない、鋭い瞳で、彼を見る。
途端に、彼がハッとしたように、身を竦ませた。明らかな動揺の色が伺える。
(俺は、お前に勝たなくてはならないんだ)
彼に向かって、いや、彼の中にある、テニスへの歪んだ想いに向けて、冷たい視線のナイフを突きつけた。
見開かれた彼の瞳が、なぜかひどく悲しげに見えた。
悲しむ必要などないのに。
むしろ、喜ぶべきなのだ。この試合を終えた後、彼は歪んだ呪縛から解放され、空高く飛び立てるのだから。
そして、「手塚国光」という、危険な男から、遠ざかることができるのだから。
「行こう、大石」
大石を促して店を出た。
落ちかけた太陽の光が、なぜだかひどく眩しい気がして、そっと目を伏せた。








*****







数日が過ぎた。
彼の瞼の怪我も、そろそろ完治する。




河村の店を出た後、病院に寄って診察を受けると、待ちに待った「GOサイン」が出た。
もう何も心配いらない。この肘は、完治した。
その足ですぐに学校に向かった。
何の用があるのか、と訝しげに尋ねる大石には何も言わず、ただ竜崎先生に話があるからと、道を急いだ。
竜崎先生に、彼との試合を許可してもらいたかった。
許可を貰わなくても試合はできる。だが、自分が彼を認め、彼に青学の行く末を任せたいほど期待しているということを、竜崎先生にも知っていて欲しかったのだ。
竜崎先生には快諾を貰ったが、案の定、とでも言うのか、大石は不安を訴えてきた。瞼の怪我が治ったばかりである彼の精神的な衝撃と、同じく治ったばかりの、この肘の具合を心配してのことだ。
彼は大丈夫だろう。きっと、どんなに打ちのめされても、さらなる強さを身につけて立ち上がってくるはずだ。
そんな彼だからこそ、好きに、なったのだから。
彼との試合のセッティングはできた。後は、時が来るのを、待つだけだった。



そうして、いよいよその時は来たのだ。


彼を呼び寄せ、人気のない場所で、日時と場所を告げる。
人目のあるところで告げなかったのは、これが、単なる果たし合い的な試合ではないから。
上辺だけしか見ない連中に、茶々を入れられるのが堪らなく嫌だから。
彼は意外そうな、不思議そうな、何とも形容しがたい表情をした。
それでも断らなかったので、諾、と受け取る。
彼に背を向けて歩き出し、しばらくしてから自分が息を詰めていたことに気づき、深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
「越前と何を話していたんだい、手塚?」
突然背後から声をかけられて、驚いた。
「不二…」
振り返ると、そこには少し表情の硬い不二が立っていた。
「不二には…」
「関係ない?」
言いかけた言葉を先に言われてしまい、肯定の意味も込めて不二を真っ直ぐ見つめ返した。
「確かにね……これは君たちの問題だから、ボクには関係ないかもしれないけど…」
「?」
珍しく言いづらそうに口を噤む不二を怪訝に思って、眉を寄せ探るように見つめてみる。
すると不二は、そっと目を伏せ、小さく溜息をついた。
「越前のこと、考えたこと、ある?」
「え?」
いきなり核心をつくような質問に、何と答えていいかわからず、ただ目を見開いてしまった。
「越前が、すごくつらそうなんだ……知ってる?越前は、恋をしてるよ」
「………」
誰に、とは訊かない。相手なら、見当はついている。だが、そんなつらい想いをしているとは知らなかった。
自然と、眉をきつく寄せてしまう。
「越前自身も、まだきっと気づいていないんだ。自分がその人に恋をしているって。だから、その人の行動が気になるのに、いや、気になるから、その行動の意味を計りかねて、怖がっているみたいに見えるよ」
「怖がっている……?」
不二が顔を上げた。
「キミもそうなんじゃないの?手塚」
「?」
不二の言葉の意味がわからず、眉を寄せると、不二はまた溜息を吐いた。いや、吐き捨てた。
「キミも『好きな人』の行動が気になって、その行動の意味を計りかねて、怖がっている」
「………」
「それだけならまだしも、勝手にいろいろ自己完結して、勝手に身を引こうとしているんじゃない?」
「何が言いたいんだ?」
不二の言いたいことがわからない。そのことと、彼の恋と、何の繋がりがあるというのだ。
「…これ以上のことは、ボクの口から言うつもりはないよ。ただ、今しか出逢えないものを、絶対に逃さないで欲しいんだ」
「今しか出逢えないもの?」
少しだけ表情を和らげて、不二が頷く。
「たくさんいる人間の中から、僕たちがこうして『青学』の名の下に集まったこと。そして、何億もいる人間の中でただ一人を選び、選ばれているということ」
「………」
「出逢えた奇跡を、無駄にしないで欲しいんだ」
不二は「それだけだから」と言って、いつもの微笑みを残して部室の方へ去っていった。
「……出逢えた奇跡……か」
本当にそうだと思う。彼と出逢えたのは、きっと奇跡だ。
もしもっと早く生まれてしまっていたら、彼と同じ学校に通うことはなかった。
もし別の学校を選んでいたら、彼と接する機会などなかった。
もし彼がアメリカにずっと住むことを選んでいたら、一生出逢うことはなかった。
例え「テニス」というものが自分たちを繋いでいたとしても、こんなふうに、彼に恋をすることはなかっただろう。
そしてあの日、偶然に彼が屋上へ現れたのも奇跡、かもしれない。
いや、彼だけじゃないのかもしれない。
この青学で出会ったものすべてが、奇跡なのかもしれない。
「………そういうことか…」
不二が言いたいことの片鱗が理解できた。
つまりは、人との繋がりを簡単に断ち切るべきではないと、そう言ったのだろう。それは、今の自分に置き換えれば、簡単に彼のことを諦めてしまうな、と。
だが、なぜそんなことを。
彼も恋をしていると言っていたではないか。それなのに、自分が諦めずにいることに、何の意味があるのだろう。
まさか。
いや、そんなはずはない。
不二の言葉を、自分の都合のいいように、願望を織り交ぜて受け取ってはいけない。
違う。
彼の想いは、自分ではない誰かに、そう、きっとあの二年生に向けられているはずだ。
(……俺じゃない)
彼が好きなのは…
ふいに、河村の店で見た彼の瞳を思い出した。とろけそうに甘い、潤んだ瞳を。
もしも、あの瞳を向けられていたのが、本当に自分だったのなら…。
そう考えた途端、胸の奥にカッと炎が燃え上がった。今まで、じりじりと燻るだけだった心が、激しい炎に包まれる。
その焔は瞬く間に全身を包み、熱く焦がし、髪を巻き上げ、呼吸を奪う。
(違う、彼の瞳は俺に向けられたのではない)
どんなにそう思おうとしても、一度燃え上がった炎はすでに抑える術はない。
そうして炎の中に、彼の姿が不意に現れる。
河村の店で、とろけるような瞳でこちらを見ていた彼が。
(違う)
屋上へ続く階段の踊り場で、息を弾ませて白い紙切れを握り締めていた彼が。
(そうじゃない)
屋上で無防備に寝顔を晒している彼が。
(そんなはずはない)
「そんなはずはないんだ…っ」
声に出して言ってしまい、自分の声に驚いて目を見開いた。
鼓動が早鐘のように激しく胸を打っている。両手をゆっくりと開くと、じっとりと汗ばんでいた。
息を吐いた。
深く吸い込んで、もう一度、ゆっくり吐き出した。
もう、こんなにも、限界に来ていたのか。
彼を愛しすぎて、求めすぎて、自分の心はもう息も絶え絶えになっていたのだ。
ならば、一度殺して貰えばいいのかもしれない。
彼の言葉で。
彼の瞳で。
この心に、とどめを刺して貰えばいい。
否、と。
一縷の望みもないほど、はっきりと拒絶して貰えば、もう二度と、ありもしないことへの期待に胸を焦がすことはなくなるはずだ。
(すべてを、打ち明けよう)
彼との試合がすんだら。彼が、本当の情熱を手にしたら。
その時に、この想いを殺して貰おう。
すべてを打ち明け、すべてを拒絶して貰おう。
きっと、それが一番いい方法なのだ。
「すべてを……」
前髪を掻き上げ、しっかりと前方を見据えた。







すべてのことに決着をつける日まで、あと3日………










                            




20050105