  髪の毛
  
 
 
  ◆6◆ 
      
  地区予選、決勝戦がついに始まった。 
      相手はダークホースと密かに囁かれる不動峰中だ。あの九鬼のいる柿ノ木中を下して目の前に立ちはだかってきた。 
      油断はできない。なぜなら不動峰中を率いているあの三年の橘という部長には見覚えがあるからだ。 
      (あの男は確か九州の……) 
      「手塚」 
      不二の声に思考を遮られる。 
      「いよいよ越前のシングルスデビューだね」 
      「ああ」 
      特に感情を込めないように注意して返事をすると、不二が困ったように眉を寄せて小さく笑ったようだった。 
      「あいつにはもうダブルスはやらせん」 
      さらに溜息混じりにそう言ってやると、今度は肩を揺らして不二が笑う。 
      「部長って…本当に、大変なんだね」 
      不二には答えずに、そっと彼に視線を移す。先程から屈伸を繰り返したり、アキレス腱を伸ばしたりと、身体を解すことに集中しているようだ。 
      それだけ、試合に全力を注ごうという意気込みが伺える。 
      たぶん、この不動峰戦で、自分がコートに立つことはないだろう。 
      彼が、きっと青学を勝利に導いてくれる。 
      そんな、確信に近い予感がした。
 
 
  ***
 
 
  ダブルス2は河村のアクシデントにより途中棄権となった。 
      河村は時折、試合中であっても優しすぎる面が現れてしまうと思う。ラケットを持つと人格が変わったように見えるが、根底の性分までも変わる人間など滅多にいるものではない。 
      今回も、河村は不二を庇った。 
      確かに、不二の腕であの強い打球(波動球と銘打っているらしい)を受けたなら、確実に筋を痛めるか、関節、もしくは骨にまで異常を来してしまっていたかもしれない。河村だから、筋だけですんだ。 
      あの不二が殊勝な態度で河村を気遣うのが、どこか新鮮に見えた。 
      その河村を病院に行かせている間に、ダブルス1の大石・菊丸ペアは安定した試合運びで勝利し、シングルス3の海堂も、雨にぬかるんだコートに苦戦しながら持ち前のねばり強さで勝利を手にしていた。
  そして、ついに、彼の番になった。
  海堂の試合をすぐ隣に座って見ていた彼がゆっくりと立ち上がり、真正面から視線を向けてきた。 
      久しぶりに真っ直ぐ向けられる彼の瞳に、眩暈を感じそうなほど、心が歓喜する。 
      だが、今は、そんな感慨に浸るシーンではない。 
      彼の視線を真正面から受け止めてやり、真っ直ぐに見つめ返す。 
      (越前……思いきり、戦ってこい!) 
      彼へのエールを込めて、しっかりと頷いてやると、彼の表情が一瞬だけ柔らかく綻んだ。
 
 
 
  試合は彼の優勢のまま進んでいった。 
      対戦相手である不動峰の選手が、一年生の彼を前にして油断したわけではないだろうが、試合開始直後から彼の優位が続いている。一方的、と言ってもいいかもしれない。 
      だが、相手もすんなりとは終わらせてはくれないだろう。何しろ、あの橘のもとに集ったメンバーたちだ。一筋縄ではいかないはずだ。 
      そんなことを考えながら彼を見つめていると、一瞬、彼の動きに違和感が走った。 
      (なんだ?) 
      「越前の動きが一瞬………」 
      声に出して呟くと、不二もこちらを見て頷いた。 
      何か、嫌な予感がする。 
      相手のプレーヤーが、不正を働いたわけではない。ヒントは、あの、スライスとトップスピンを確実に交互に打ってくるショットにありそうだ。 
      きっと彼自身、何が起こっているのかわかっていないのだろう。妙な動きをするたびに、自分の腕をさすったり、手を握ったり開いたりして訝しげに手の平や手の甲を見つめている。 
      応援の連中も一部で彼の異変に気づいた頃、そのアクシデントは起こった。 
      無理に身体を回転させて打ち返そうとした彼の手からラケットがすっぽ抜けていき、ポールに当たって砕けた破片が跳ね返って彼の顔を傷つけたのだ。 
      (越前……っ!) 
      ざわつくコートの中にいるはずなのに、一切の音が自分のまわりから消えた。代わりに、嫌な響き方をする鼓動が聞こえる。手の平に、冷たい汗が滲んできた。 
      「う…」 
      蹲る彼のもとに走っていきたかった。 
      だが、自分が動くより先に、大石が飛び出していった。 
      大石に寄り添われながらベンチに歩いてくる彼を見つめ、眉を寄せる。 
      目を、痛めたのだろうか。あの大きな、この心を射抜いてくる瞳を、傷つけてしまったのだろうか。 
      「眼球は大丈夫そうだけど、まぶたの肉がパックリえぐられている」 
      大石の冷静な見分に、少しだけ緊張を緩める。 
      (問題は止まらない血の方か…) 
      彼を見ると、強がっているのか、痛覚が鈍いのか、平然とした表情のまま、青ざめる大石を見つめている。さらには、まだ試合を続けたいらしく、桃城に新しくラケットを出すように頼んでいる。 
      彼らしい、と思う。 
      きっと彼にとっては、こんなケガなど、アクシデントとも感じないのだろう。それだけ、彼にはその自信を支える確かな積み重ねがあるのだ。 
      彼の試合を初めて見た時から感じていたが、彼は試合に慣れている。同じ年頃の連中と比べても、彼は飛び抜けて「試合」という形式に慣れているのだ。 
      アメリカでいくつもの大会に出たせいだろうか。いや、それだけではない気もする。 
      そうして、ふと、彼と同じ苗字のプロテニスプレーヤーを思い出した。もう何年も前に引退してしまったが、彼のプレーは天衣無縫と謳われ、強烈な印象をテニス界に残したまま、駆け抜けるように若くしてあっさりと引退していった。 
      確か、その名は越前南次郎。 
      彼のプレーは、その越前南次郎のプレイに似ている気がする。年頃から言っても「息子」であってもおかしくはない。試合慣れした彼のプレイだって、父親との一対一の練習をしてきたのなら、納得できる。 
      そして、彼のプレイに、彼自身の本当の想いが含まれていない気がするのにも、頷けるのだ。 
      確かに彼は強い、巧い。中学生レベルとは思えない技術と度胸を持っていると思う。だが、それらを操る彼の心が、そこにはない気がするのだ。どこか、冷めている、と。 
      (彼は、自分の意志で、テニスをしようとしているのだろうか) 
      そんな疑問が湧き上がる。 
      幼い頃から、そう、それこそ物心つく前からラケットを持たされ、当たり前のようにテニスを始めたとしたら、彼の中のテニスへの情熱がどこかねじ曲がったものになっている可能性がある。 
      だとしたら、彼はこれ以上は伸びてゆかない。歪んだ想いのままでは、テニスで高みを目指すことなど出来はしない。 
      「止まった」 
      誰かの驚いたような声で、ふと我に返った。 
      今は、この状況をどうするか考えなくてはならない。 
      こういう処置に手慣れているらしい竜崎先生の手によって血止めをされた彼が試合に出ると言い張るのを、大石が身体を張って阻止しようとしている。 
      彼は、きっと大丈夫だろう。 
      なぜなら、今は隠されている左目の輝きが、右目を通じてこちらに伝わってくるからだ。 
      (俺は、お前を信じている) 
      桃城の手から、彼のラケットを貰い受けて、彼に差し出す。 
      「手塚…」 
      部員を心配する大石の気持ちもわかるが、彼を、ただの「庇護する者」として見てはいけない。 
      「10分だ」 
      彼の目を、真っ直ぐに見つめた。 
      「10分で決着がつかなかったら棄権させるぞ。いいな?」 
      彼の右目が、驚いたように一瞬大きく見開かれるが、すぐにそれは、戦う者の瞳に変わる。 
      「充分!」 
      彼の口元に浮かんだ強気な笑みを裏付けるように、彼は宣言通りに10分以内に試合を終わらせてみせた。
 
 
 
 
  彼の傷が気になり、閉会式が済んだ後で、彼を捕まえた。 
      「部長…?」 
      彼の目の前に立つと、ちょっと驚いたように大きな瞳が丸くなる。 
      「…………」 
      彼の長めの前髪がかかって左目の具合がよく見えない。髪を掻き上げるよりはと思い、何気なさを装って彼の両頬に手を添え、上を向かせて覗き込んだ。 
      「な……っ?」 
      彼の頬がほんのりと熱を帯びる。 
      そう言えば、この体勢は、まるで恋人に口づけるシーンに似ている。彼もたぶん、そんなシーンを連想してしまって頬を染めているのだろう。添えた指先に伝わる熱に、愛しさが増してくる。 
      (このまま抱き締めてしまえたら…) 
      出来もしないことに想いを馳せつつ、一切そんな素振りを見せないように、心を押さえ込んで淡々と告げる。 
      「やはりまた血が滲んできたな……俺たちのことは気にせず、先に着替えて竜崎先生に病院へ連れて行ってもらえ」 
      「あ……はい…」 
      此方の声音の冷静さに彼も少し安心したのか、素直に返事をした。 
      それでも、彼の頬はまだ熱くて、両手が、彼の頬から離れるのを拒んでいるように感じる。 
      このまま、こうして触れていられたらいいのにと、心が切ない願いを抱く。そして、真っ直ぐ見つめてくれる彼に、いっそのこと尋ねてしまいたくなる。
  なぜ最近俺を避けるんだ? 
      俺のことを、嫌いなのか?
  「部長……あの……?」 
      彼の声に、ハッとした。 
      (訊けるわけがない…) 
      訊いてどうするというのか。 
      彼のことは、誰よりも大切で、愛しいと感じている。だが、彼にも同じように自分を想って欲しいとまでは思わない。 
      いや、本音を言えば、彼とそんな間柄になれたのなら、天にも昇る喜びを感じるだろう。しかし、こうして実際に彼に触れていると、傍にいて彼を想うことが許されるだけでも幸運だと思う。 
      彼の髪が、血で汚れてこめかみに張り付いている。 
      それくらいなら髪に触れてもいいだろうかと思い、そっと指先ではがしてなでつけてやると彼の体が小さく震えた。 
      (しまった) 
      そのまま硬直してしまった彼から、内心慌てて、だが手はゆっくりとした動きでそっと、引く。 
      彼の頬に触れることができて、調子に乗ってしまったようだ。彼に、変な警戒心を起こさせてしまっただろうか。 
      「……様子を見て、傷が痛むようなら明日は部活を休め」 
      背を向けてそれだけをやっと口にした。 
      胸の中に、彼への熱い想いが渦巻いて、彼を抱き締めたくて仕方がない。それをすればすべてが終わってしまうとわかるから、血が滲みそうなほど手を握り締めて、衝動を抑え込んでいる。 
      もう、彼に触れるのはよそう。 
      彼の頬に触れただけで、ただそれだけで、自分の彼への想いが、もう自分の意思ではどうにも押さえきれないほどの強さを持って溢れ出しそうになる。 
      (そろそろ、限界、なのか……) 
      彼から、この危険な男「手塚国光」を遠ざける必要があるかもしれない。 
      (だがその前に…) 
      そう、その前に、ひとつだけやることがある。 
      それをしなければ、彼はこの先へ進めなくなるのだ。 
      自分の存在が、進むべき未来への道を彼自身が見つけるための、ほんの少しの手助けになればいいと思う。 
      そうしてそのあとは、卒業まで、彼には一切触れずにいよう。交わす言葉も、必要最小限だけに留めよう。 
      屋上へも、もう、行かない。 
      すべては、彼のために。 
      自分の想いも、言葉も、行動も、すべて彼のためにあればいい。 
      彼の傷が治ったら、今までで最強の「敵」と戦おう。 
      生半可な想いでは、きっと勝つことのできない、最強の相手。そして、誰の力も借りられない試合。自分一人だけで、彼の中の「敵」と戦わなくてはならない。 
      だが、絶対に負けるわけにはいかない試合だ。 
      ふと、自分の肘を押さえる。 
      (もつだろうか…) 
      最初から全力で行って、彼を叩きのめすまで、彼からテニスへの情熱を引き出すまで、この肘はもつだろうか。 
      (いや、この身の大事は考えまい) 
      例えこの肘がもう二度と使い物にならなくなったとしても、彼が目覚めてくれるのなら、後悔はしない。 
      彼を愛している。 
      甘やかして、抱き締めて、口づけて、彼の身体の内にも外にも自分を刻み込むような愛し方はできなくてもいい。 
      愛しい者が、最上の生き方ができるように願う。そんな愛し方があってもいい。 
      (いや、俺には、そんなふうにしか、あいつを愛せない…)
 
  どこからか舞い込んだ風が、髪を柔らかく撫でていった。 
      先程、ほんの少しだけ触れた彼の髪の感触を思い出して自分の指先を見つめた。 
      もう触れることはない彼の髪の感触を、きっとこの指先は、生涯忘れることはないだろう。 
      そして、この心は、彼を想うことを決してやめないだろう。 
      こんなにも愛せる存在に出逢えてよかった。 
      彼と、「越前リョーマ」と、出逢えて、良かった。
 
 
 
 
  もう一度、風が吹き抜けた。 
      彼と共に受けた、あの屋上の風に、どこか似ている優しい風だった。 
      
 
 
 
 
 
 
 
  
      続
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      20050103
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