髪の毛




◆5◆



悪い予感は的中するのだろうと思う。


あれ以来、彼が屋上に来ることはなくなった。
それどころか、状況はもっと悪化してしまったのだ。
彼に、避けられている。
部活中に会話がなかったのは今までと変わりないことかもしれないが、目を、合わせてくれなくなった。
時折校内で見かける彼はクラスメイトたちと何も変わりなく話しているのに、自分と擦れ違いそうになると急に歩いてきた方へ引き返したり、角を曲がって行ってしまったりする。
この前はチラリと目があっただけで、彼は逃げるように走ってどこかへ行ってしまった。
そうまでして避けられる理由がわからない。
だがきっと、自分でも気づかないうちに、彼に何か不快な思いをさせてしまったのだろう。
どこで?屋上で?部活で?それとも他の場所で?
いろいろ考えてみるが、彼との接触は部活とこの屋上だけなのだから、たかが知れている。やはり直接的な理由は、思い当たらない。
いや、あるとすれば、ここの鍵を開けるタイミングを逃してしまった、あの日だろう。
「………」
屋上でただ一人、空を見上げて溜息を吐く。
数日前まではここに彼がいて、同じ時間と空気を、確かに共有していた。会話はなくとも、彼の存在を感じるだけで、心の中に暖かい想いが溢れた。
またひとつ、溜息が零れる。
手に持っていただけの文庫本を脇に置いて、ポケットの中から一枚の紙を取り出した。彼がくれたA4判の新刊本のリスト。
最近ずっと制服のポケットに入れてあるせいで、少しヨレ始めている。
こんな紙切れなのに、捨てられない。
彼が、自分にくれた唯一のもの、だからだ。
(俺もずいぶん女々しいな……)
これをくれた時の彼は、たぶん、自分を嫌ってはいなかった。わざわざ自分のために、走って持ってきてくれたのだから。
あの時以来、彼とはちゃんと話をしていない。
彼の声が、聴きたい……





***





いよいよ全国大会に向けて地区予選が今週末から始まることになった。
部活の練習も、今まで以上に気合いが入る。自分も朝晩のランニングの距離を伸ばし、肘には負担をかけない程度に筋力アップを図っている。
そんなとき、昼休みに顧問の竜崎に呼び出された。たぶん、地区予選のオーダーの件だろうと推測する。
「どう思う?手塚」
思った通り地区予選の初戦のオーダーを見せられて、だが、一瞬言葉に詰まった。
「………竜崎先生、この、ダブルス2は……」
「ああ、あいつらがどうしてもダブルス組みたいって言うんだよ。やらせてみるのも面白いと思うんだがどうだろうね」
鬼が出るか蛇が出るか、と笑いながら言う顧問に「お任せします」と答えてオーダー用紙を机の上に置いた。
「ダブルスは二人の息が合うかも重要な要素のひとつだと思います。……彼らなら、その点は大丈夫でしょう」
自分でそう言いながら、ひどくつらくなった。
彼の性格やプレイスタイルからして、たぶん、今までダブルスを好んでプレイしてきたとは思えない。なのに、桃城と組みたいと言ったと…。
やはりそうなのか。
不二の言っていたように、彼は、二年の桃城と、想いを通わせ合っているのか。
だから二人で戦いたいと、そう、言うのか。
「生徒会の用事が残っていますので、これで失礼します」
どうにかそれだけを口にして、机の上のオーダー用紙に背を向けた。
ふと視線を窓の方に向けると、部員たちがコートで自主練習に励んでいるのが見えた。いい緊張感が部活内に生まれてきていると頼もしく思いながら視線を外そうとし、その視界の隅に捉えたものに、もう一度目を向けた。
彼がいた。
隣にいるのは、桃城だ。
コートの隅で顔を寄せ合い、何事か話し込んでいる。
「おや、ちゃんと頑張ってるじゃないか」
竜崎が隣に立ち、どこか楽しげにコートの彼らを見つめている。
「組ませてみるかねぇ、ダブルス」
「………そうですね」
一礼をして、今度こそ部屋を出た。
鼓動が、嫌なリズムで脈打っている。
彼は、屋上で過ごす時間よりも、桃城との時間を選んでいた。屋上になど、来るはずがなかったのだ。
ほんの僅かな可能性に期待して、屋上で彼を待っていた自分が哀れになった。
もう彼は屋上には来ない。あの空間よりも、気持ちのいい場所を見つけてしまったから。
(それでも、俺は……)
明日も、明後日も、その先も、きっと屋上に行くだろう。屋上で一人になって、彼を想い続けるだろう。
立ち止まって、廊下の窓から空を見上げた。
彼と想いを通わせることができるかもしれないなどと、一瞬でも考えたのが馬鹿だった。浅はかだった。
そんな可能性を見出したりしなければ、彼らを見て、こんなにもつらく感じはしなかっただろうに。
いや、むしろ、これでよかったのだ。
あるかないかわからない可能性に心を煩わせるよりも、いっそのこと、完全に「無」だと知った方が、心は解放される。
彼を想う気持ちは変わらない。変われない。
だから、一方的に、彼に恋をし続けよう。
見返りはないとわかった。だから、そんなものを求めずに、彼のことを想うだけでいられる。
彼が笑っていてくれるなら、それでいい。
彼が前に進みたいと思う時には、そっと手を貸して、進むべき道へと導いてやればいい。
確かに、今はひどく心が痛い。つらい。だがいつかは、この苦しさも昇華できると思える。
それほど、彼が愛しい。彼が大事だ。大切に、したいのだ。


(きっともう、引き返せないほど俺は越前を……)





*****





地区予選が始まった。
初戦をストレートで下し、順調に勝ち進んだ。彼らの危なっかしいダブルスも、それぞれの技術力でカバーして勝利していた。
試合中の彼らは息が合っているのかいないのか、見ていると時折よくわからなくなった。だが、勝ち気な性格や、やることなすことすべてが似ている彼らは、やはり、ベストパートナーなのかもしれない。
一見冷めているようで内面に熱い情熱を抱えた彼と、逆に無鉄砲で荒っぽく見えるくせに内面は狡猾なほど計算して行動している桃城。
自身と似ているようで、実は自分にはないものを持っている相手。良い組み合わせなのかもしれない。
「いよいよ始まったんだね、手塚」
初戦を終えて、他校の試合を見に行くと言うと不二が一緒について来た。
柿ノ木中の試合を見ながら、機嫌の良いらしい不二がにこやかに言う。
「越前と桃城、良いコンビだね」
「……ああ。まだ荒削りすぎるがな」
正直な感想を言った。
ダブルスとしての彼らは、はっきり言ってこの先の試合では通用しないだろう。だが、それぞれに良いものを持っている彼らなら、鍛え方次第では、大石たちとはまた違った黄金ペアになるだろう。
何より、心が通い合っているのだから。
「でもさっき、もうこりごりだって言っていたよ。二人とももうダブルスは嫌だって」
「…?」
「玉林中の、ほら、越前たちと対戦した彼らと、どうやらなんかあったらしくて、それで桃城と二人でダブルスでリベンジ!ってことになったんだって」
「……なるほど」
直情型の負けず嫌いな彼らなら、そんなこともあるかもしれない。
私怨を試合に持ち込むのはどうかと思うが、それが良い方向に働いたのだから、今回は目を瞑ってもいい。
「負けず嫌いなところがそっくりの、いいコンビ。色気より食い気、みたいだし」
「彼ららしいな」
そう答えてから心の中で苦笑する。
彼にとって桃城は、あまり群れを成すことが得意ではない彼が、ほぼ唯一、傍にいることを許した相手だ。つまり、気を許せる、唯一の相手なのだ。彼にとってはそれほど桃城が「特別」だということだ。
「どうかした?手塚」
知らず、眉をきつく寄せていたらしい顔を覗き込まれて、一瞬答えに詰まる。その時、ちょうど柿ノ木中の試合が終わった。
「よう、手塚、不二。そろって敵視察かよ」
嫌な声だと思った。柿ノ木中テニス部の部長、九鬼だ。思わず溜息が洩れる。
たぶん、試合中からここに自分たちがいることを知っていただろうに、コートから出て、たった今気がついたとでも言うかのように、ニヤつきながら声をかけてくる。
「そういや手塚、玉林戦に出なかったらしいな。………いや本当は『出れなかった』んじゃねぇのか」
弱みを握っているとでも言いたげな目が癇に障る。だが相手にするつもりはない。
「行くぞ、不二」
「待てよ!」
無遠慮に腕を掴まれた。虫唾が走る。
「腕を見せてみろよ。何か理由が……っ!?」
九鬼が言葉に詰まった。肘を痛めたとはいえ、筋肉まで落としたつもりはない。その感触が、九鬼にもわかったのだろう。つけいる隙を奪われた、と言うところか。
「放せよ」
声を荒げたりはしない。ただ、思い切り軽蔑を込めた目で、九鬼の目を見据えてやる。
倒したいというなら正面切って倒しに来ればいい。なのに、人の故障を喜び、それに乗じて潰し、見下そうとする性分が、気にくわない。
背を向けて歩き出すと、後ろで何やらわめいている声が聞こえたが、その言葉に耳を傾ける気はなかった。
隣で不二がクスクスと笑う。
「手塚、九鬼のこと嫌いでしょ」
「………」
「手塚って、一見ポーカーフェイスだけど、気に入っている相手と、嫌いな相手との応対の仕方が全然違うから、すごくよくわかるよ」
そう言って、さも楽しげに不二が笑い続ける。
「だから、今手塚がすごく好きな人、ボクは知ってるよ」
「…思い違いじゃないのか。想いを寄せている女子などいないぞ」
「知ってるよ。今そう言ったじゃない」
立ち止まって、不二を見た。
「どういう意味だ?」
「ボクは手塚の好きな人が誰か知っていると言ったんだよ」
「………」
つまり、想いを寄せている「女子は」いない、と言ったことに気づいたのか。
内心冷や汗が出た。だが顔に出せば、さらに不二がニッコリ微笑むだけだろう。黙ったまま、また歩き出すと、不二も黙ったままついてくる。
「好きだって、言わないつもり?」
しばらくしてそう訊いてきた不二に、視線を向けずに答える。
「不二には関係ない」
「ふぅん」
横を歩きながら、不二がまた笑ったようだった。
「じゃ、ボクが先に、あの子に好きだって言ってもいい?」
「!?」
驚いて足を止めた途端、不二がプッと吹き出した。
しまった、と思ったが遅かった。微かに動揺した表情を、不二に見られた。
「冗談だよ。ホント、わかりやすいね、手塚は」
「………」
からかわれた。
不二は、その、人の善さそうな穏やかな笑顔に反して、内面は時々何を考えているのか理解できなくなるほど複雑だと思う。
だから今、不二が言った言葉が本当に冗談なのか、そうではないのか、判断ができない。
だが、
「……誰が誰を好きになろうとも、それはその人の自由じゃないのか?」
そう言った途端、不二の笑顔が柔らかなものへ変わったように、一瞬、見えた。
「そうだよ。だからキミも、誰に遠慮することもないと思うよ?」
目を、見開いてしまった。不二は遠回しにエールを送ってくれたのか。
本当に、わかりにくい男だ。
「…………ありがとう」
そう言うと、今度は不二が目を見開いた。
「戻ろう」
「うん」
そのあとは、二人とも何も話さずに歩いた。
一瞬、柔らかな風が吹いて、前髪を掬い上げる。


少し、目の前が明るくなった気がした。










                            



20041221