髪の毛




◆4◆



彼がリストを手渡してくれた翌日、二時間目の化学のために教室を移動しようと実験室に向かう途中で、司書教諭に偶然会った。
「あら、手塚くん」
「おはようございます、先生」
図書室をよく利用しているので、何度か話をしているうちに司書教諭には名前を覚えられていた。
「今日あたりから新しく貸し出される本があると聞いたのですが」
「…ええ。昼休み前には貸し出しを開始できると思うわよ」
「そうですか、では昼休みに伺います」
軽く会釈して立ち去ろうとすると、司書教諭が「あ、もしかして」と言いながら瞳を輝かせた。
「昨日越前くんにリストもらった?あの子もテニス部よね?」
「…はい」
「やっぱり。本当は本が入るのがもう少し先の予定だったから学校通信にも載せていないのになんで知っているのかと思ったわ」
「はあ…」
曖昧に返事をしながら、そう言えば先月の学校通信には図書室からの来月の予定の欄に新刊の話題は載っていなかったな、と思い出す。
「昨日、三年の図書委員の子が越前くんを無理矢理捕まえてきたらしくてね。越前くん、行きたいところがあったみたいなのに、溜息つきながらも結局最後まで本のラベル貼りを手伝ってくれたの。それで帰り際にいきなりリストくれって言うからどうするのかと思っていたのよねぇ」
思いの外饒舌になっている司書教諭は「そっか、手塚くんのためだったのね」と納得したようにニッコリと微笑んできた。
「先輩想いのいい後輩ね」
なんと答えていいのかわからず、黙って一礼をしてからその場をあとにした。
心臓が、妙に早く脈打っている。
彼が行きたがっていた場所とは屋上のことか?
本のラベルを貼りながら、彼は何を、誰のことを、考えていたのだろう。
心が、ありもしないことを期待しそうになってきている。
(違う、越前が好きなのは、俺じゃない)
なぜなら彼は、あんな屈託のない笑顔を、自分には向けてくれない。
(…それでも、もしも…)
今日の昼休み、屋上で彼と逢うことができたら、その時こそは素直に礼を言おうと思う。
肩の力を抜いて、ただ素直に、感謝している気持ちを伝えよう。
そうして、彼と、話をしよう。
何の話でもいい。テニスのことでも、本のことでも、委員会のことでも。
とにかく彼と、話がしたい。
本を借りに行くのは、放課後でもいい。せっかく情報をくれた彼には申し訳ないが、先に誰かに借りられてしまっても、返却されるのを待てばいいのだから。
心の真ん中に、ほんのりと熱が灯っている。
昼休みになったら、彼と話をする。そう思うだけで、心が沸き立っているのだ。
昨日、彼の前髪に隠されてしまった表情を、彼の心の中を、ほんの少しでも見せてくれたらと思う。
(でも、もしも…)
もしも彼が来なかったら…
そう考えた途端、心の中の熱が、微かな痛みを伴ってスッとひいてゆく。
思わず苦笑した。散々「今のままでいい」と自分で言いながら、この落胆ぶりはなんだ。それも、ただ想像しただけなのに。
振り回されている。彼に?…いや、自分の感情に、だ。
頭で考えるのでは追いつかない感情の動きに、自分自身が振り回されているのだ。
恋とは、こういうものなのか。
考えるより先に、感情が動くものなのか。
(厄介だな…)
だが、嫌な気はしない。むしろ、楽しい。まるで最大のライバルと、コートで向き合っているような気分だ。
自分でも気づかぬうちに、苦笑が微笑に変わっていたようだった。
昼休みが、待ち遠しい。





しかし、待ち遠しかった昼休みは、今日に限って現れた人物に、大きく予定を狂わされた。
「手塚!さっき図書室に行ったら、この前本屋でお前が買おうかどうしようか迷ってた本が新刊コーナーに並んでいたぞ!すぐ借りに行こう!」
昼食を終えるのとほぼ同時に大石が教室に飛び込んできた。
「いや、俺は…」
屋上に行くから図書室に行かないとは言えない。逡巡していると、ぐいと腕を引っ張られた。
「ほら、早く!誰かに借りられちゃうだろ!」
「大石…」
「ん?なんだ?手塚」
振り返った瞬間の、大石の得意そうな瞳に思わず口を噤んだ。大石は純粋に親切心から、自分を図書室に連れて行こうとしている。無下に断るのは気が引ける。それに断るのなら、それなりの理由を説明しなければならないだろう。
(すぐに戻れば間に合うだろうか)
「いや……わかった、行こう」


それが甘い考えだと気づいたのは、数分後のことだった。





***





「いるわけがない、か……」
なんとか大石を振りきって図書室を出、人目も気にせずに廊下を走った。途中教師に注意されそうになったが、「すみません、急用です」というと珍しいこともあるものだと笑って見逃してくれた。
屋上への扉の前まで、階段を一気に駆け上がった。
ドアに手をついて、大きく息を吐いた。
彼は、そこにはいなかった。
当然だろう。鍵が閉まっていては、屋上へ出ることもできない。約束したわけではなかったから、待っているはずもない。
いや、ここに来てくれたかどうかさえ、本当はわからないのだけれど。
息を整えながら鍵を開けて屋上へ出た。
青い空が、視界に飛び込んでくる。
ドアに背を預けて、眉を寄せた。
あんなに気に入っていたのに、あんなに美しいと思っていたのに、今は、空がいつもと変わらずに青くそこに在るだけで、なぜか虚しくなる。
彼はここに来たのだろうか。来て、くれたのだろうか。
来てくれたのなら、閉まっているドアの前で、何を考えただろうか。
昨日彼に鍵を閉めるところを見られたから、ここの鍵を誰が開け閉めしていたのかはわかってしまっただろう。
だからたまたま、そう、昨日の彼のように、今日はこちらに急用があったのだと、考えてくれただろうか。
それとも、何か悪い方へと勘違いしたりはしていないだろうか。
(勘違い……?)
何を、「悪い方へ勘違い」、なのだ?
自分と彼は心を、想いを、通わせあったわけではないのに。「勘違い」どころか、いきなり好きな空間への出入りを阻まれ、気を悪くして当然だ。
彼とは静かな空間を共有しただけだ。会話もほとんどなかった。
ただ一緒にいて、同じ空を見上げ、同じ風に吹かれていただけだ。
その時間を勝手に気に入って、勝手に相手に心を寄せたのは自分だけだ。
自分だけが、相手を好きになってしまった。
時間を巻き戻すことができないように、この想いもまた、なかったことには、もう、できない。


今は自分しかいない空間に、彼と過ごした時と同じ爽やかな風が吹き、髪を揺らしていった。





彼はもう、ここへは来ない気がする。
そんな予感が、胸をよぎった。










                            




20041210