  髪の毛
  
 
 
  ◆3◆ 
      
  放課後までの時間が、ひどく長く感じられた。 
      今日は生徒会の仕事も比較的少ない。効率よく進めれば、いつもより幾分かは早く部活に参加できるだろう。 
      「会長、雨、降りそうですね」 
      「……そうだな」 
      副会長に言われて窓の外を見ると、ドンヨリとした雲が今にも泣き出しそうに垂れ込めている。 
      「傘持ってきてよかったなぁ…」 
      「…だができれば降り始める前に帰りたくはないか?」 
      言外に仕事を促す意を込めると、副会長は慌てたように机に戻った。 
      早く、早く彼に逢いたい。 
      雨が降ってしまったら、部活が中止され、彼に逢えずに帰ることになる。 
      「体育祭についての各部へのアンケート作成は、明日に回そう。まだ時間はある。体育祭実行委員の方からも連絡は入っていないようだし」 
      「え?あ、ああ、そうですね」 
      ちょっと意外そうな顔をしていたが、副会長が同意してくれた。 
      これで今日はもう部活にいけるはずだ。 
      「後は任せてもいいか?試合が近いので少しでも部に顔を出しておきたいんだが」 
      「いいですよ。後は俺たちで何とかなりますから」 
      二年の書記がニッコリと微笑んでくれた。 
      「すまない、では、頼む」 
      何かあったらコートに来てくれるように言い残して、バッグを掴み、部室に走った。
 
 
 
 
  コートの入り口で部員達がちょっと驚いたようにこちらを見、慌てて挨拶をしてくる。 
      ざっと視線を奥に走らせると、彼が空を見上げながらレギュラー達と何か話しているのが見えた。 
      挨拶してくる一・二年の部員達に頷きながらAコートまで来たところで、不二がいつもの笑みを浮かべて声をかけてきた。 
      「早いね、手塚」 
      「そうか?」 
      不二がクスッと、意味ありげに笑うのが気に障ったが、今は取り合わないことにする。 
      「手塚、雨が降りそうだけど、どうする?」 
      大石が空を見上げてから訊ねてきた。 
      「やれるだけやろう」 
      確かに今にも雨が降り出しそうだが、少しでも打っておきたいと思う。チラリと盗み見た彼も、そう思っているように見えた。 
      「一年は素振りと球拾い、二・三年はCコートでいつものメニューを、レギュラーはAコートに集合」 
      「ういーっス!」 
      部員に指示を出し、今日のメニューを確認してレギュラーにも指示を出してからアップを始める。 
      ストレッチをしながら、さりげなく視線で彼を追いかける。 
      そう言えば、まだ礼を言っていなかった。だがコートで迂闊にそんな話をすれば、不二や乾の興味を惹き、楽しませるだけだろう。 
      (帰り際に捕まえるか…) 
      「手塚、打つ?」 
      「ああ、そうだな、頼む、不二」 
      立ち上がってラケットを手に取ろうとすると、不二が内緒話でもするかのように、声を潜めて話しかけてきた。 
      「越前、今日なんか変だと思わない?」 
      「変?」 
      彼の話題を出されて思わず眉を顰める。 
      「話しかけても上の空って言うか……なんか、何かに心を奪われているみたいな感じがするんだけど。心当たり、ない?」 
      「?……いや」 
      「気になる人でも、いるんじゃないのかな」 
      「…………」 
      巧く答えることができなかった。 
      確かに、彼も健全な男子だ。誰かに心奪われていないとも限らない。 
      ふと視線を向けた先で、彼が二年の桃城と楽しげに話を始めた。ラケットを振りながらの会話は、たぶん、テニスに関してなのだろう。 
      「…あの二人、最近よく一緒に帰っているんだよね。朝も一緒に登校してくるみたいだし」 
      「だから何だ?」 
      何となく、不二の言いたいことに気づいたが、先を促してみる。 
      「付き合っているのかも」 
      「何をバカな…」 
      言いかけて口を噤んだ。彼の屈託のない笑顔が目に飛び込んできたからだ。 
      (そう、なのか…?) 
      彼のあんな笑顔は初めて見た気がする。何もかも許したような、ひどく嬉しそうな、横顔。 
      「男同士……だぞ…」 
      誰に向けて言ったのか、自分でもわからなかった。 
      ただ瞳は、彼を捕らえたままだった。 
      「好きになっちゃったら、性別なんか関係ないよ」 
      不二が、いつもより少しだけ低いトーンで呟くように言った。 
      好きになったら性別など関係ない。そんなことは、知っている。 
      自分が彼を愛しく想うのは、彼が男だからなのではない。彼が、越前リョーマだからだ。 
      それを自覚して認めたのは、ほんのつい最近のことだけれど。 
      「手塚?」 
      黙り込んでしまったのを心配するように、不二が覗き込んできた。 
      「Bコートの方を使わせてもらおう」 
      「……うん」 
      笑顔の彼から無理矢理視線を引き剥がした。今は部活中だ。それに、 
      (越前が誰を好きになっても、俺の想いは変わらない) 
      元々報われるとは思っていない。嫌われていないのなら、それだけでいい。 
      もう、彼が屋上へ来なくなったとしても、青い空に浮かぶ白い雲を見て、彼を想うことができるだろう。 
      「手塚」 
      不二の向かい側に行こうとするのを、不二の咎めるような声に引き留められた。 
      「…なんだ?」 
      その声音に少し眉を顰めて振り返ると、不二が困ったように微笑んだ。 
      「…優等生ばっかりやっていると、そのうち大切なもの、失くしちゃうよ?」 
      「………」 
      意味はわかる。だが、真意はわからない。 
      話の流れからいって、彼とのことを、何か言っているのかもしれない。 
      (なくすもなにも……) 
      何も得てなどいない。何もない。 
      今、胸にあるのはただ、彼への想いと、それとは違う場所にある、青学テニス部への想い。 
      自分とそれらを繋げているものがあるとすれば、それは「テニス」しかない。 
      失うものなど、今の自分には、何もない。 
      答えになる言葉が見つからなくて、そのまま黙って再び不二に背を向けた。向かい側のコートに入り、振り返ってラケットを構える。 
      「行くよ、手塚」 
      「ああ」 
      軽く打ち込まれた不二のサーブを返しながら、桃城と話しているはずの彼の視線がこちらに向けられるのを、視界の端で感じた。 
      彼に見つめられていると思うだけで、少し、嬉しくなった。 
      本当に、今はこれで充分なのだと、心からそう思った。
 
 
 
 
  結局その日は、彼にリストの礼を言うことができなかった。 
      桃城の自転車の後ろに乗り込んだ彼の髪が風に揺れるのを、ただ見つめることしか、できなかった。
 
 
 
 
 
 
 
  
      続
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      20041206
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