  髪の毛
  
 
 
  ◆2◆ 
      
  こんなにも広い場所だったのかと思った。 
      吹き抜ける風が、自分の心の中にまで流れ込んですべてを攫っていったかのように、心を動かすものが、ここには、ない。
 
 
 
 
  時計を見た。 
      昼休みがもうじき終わる。 
      彼は、来ない。 
      なぜ。 
      何かあったのだろうか。 
      朝練の時の彼は、いつもと何も変わらなかった。 
      いつものようにちょっと眠そうな目を擦りながら部室に姿を現し、だがコートに立てば生き生きとした瞳でボールを追って軽やかに動き回っていた。 
      もしかしたら、何か、してしまったのか。 
      (俺が………?) 
      思い当たるフシはない。何も変わったことはない。 
      ならばなぜ彼は来ない…? 
      授業中に何かあったか。 
      読みかけの文庫本の、栞を挟んだところを開き、その栞さえ抜き取らないまま様々に考えを巡らす。答えは、見つかるはずもなく。 
      (飽きた、……のか……) 
      空を見上げた。今日も白い雲が浮かんでいる。彼の好きな、いや、好きだった、白い雲が。 
      「っ!」 
      突然突風が手元を攫い、本に挟んであった栞を巻き上げた。ひらひらと舞い上がった栞は、すぐに力をなくしたようにまた落ちてくる。 
      音もなく舞い降りる栞を見つめる。栞は、いつも彼が寝転ぶ場所に落ちていった。 
      もし、今、彼がいたなら、飛んでいった栞を拾い上げてくれただろうか。 
      ボンヤリと細長い紙切れを見つめ、小さく溜息を零す。 
      (飽きるというより、ここに来る必要がなくなったのかもしれない…) 
      たぶん、それが「答え」だろう。 
      最近の彼はずいぶんと表情も軟らかくなった。声も立てて笑う。ちょっとした冗談を言って周りを笑わせたり驚かせたりもしている。 
      もう、ここに来てストレスを発散させる必要がないのだ。発散させるべきストレスがないのだから。 
      むしろ、自分と二人きりでこの場所にいることの方が、今の彼にはストレスになるかもしれなかった。 
      いや、ストレスになるのだろう。間違いなく。なぜなら、 
      (嫌いな相手と一緒にいたがるヤツなどいない) 
      部活中、時折視線を感じることがある。相手に気づかれないように見遣ると、たいていはその視線の主が彼なのだ。 
      帽子の下から、何か言いたげに、だが決して声など掛けるつもりがないとでも言うように唇を軽く噛んだまま、じっと見つめてくる。だが、その行動は本人もあまり意識していないようで、こちらが真っ直ぐに視線を返すと、そこで初めて自分が無意識に見ていたものに気づいたように身体を揺らし、帽子を深く被り直してそっぽを向いてしまう。 
      彼のことだから、たぶん、「いつか倒してやる」などと思って見つめて(いや、睨んで)いるに違いない。 
      そんな彼の様子を見ると、微笑ましくてつい頬が緩んでしまいそうになり、誤魔化すためにわざと眉を寄せたりしてしまう。 
      (もしも…) 
      もしもその時、彼に自然に微笑みかけることができていたら、彼はどんな反応を返してくれるのだろう。 
      バカにされたと感じて目をつり上げるだろうか。それとも… 
      (やめよう。出来もしないことを考えるのは) 
      ゆっくりと目を閉じ、ゆっくりと目を開ける。そこには、変わらず、ただ落ちているだけの栞。彼の姿は、ない。 
      これで良かったのだと思う。 
      膨らみすぎた自分の想いに負けて、彼に何かをしでかさないうちに、彼の方から遠ざかってくれて良かったのだと。 
      彼にとっては迷惑この上ない想いを抱いてしまった自分が悪いのだから。 
      (それに今ならまだ…) 
      いつの日か、彼のことを忘れられるかもしれない。 
      あまりに強烈な彼の瞳を、完全に忘れることはできなくとも、いつか、この胸の苦しさだけは薄まっていってくれるかもしれない。 
      (…教室に戻ろう) 
      立ち上がり、栞を拾ったところで予鈴が鳴り始めた。 
      ドアに向かいながら栞を本に挟み込み、そう言えば今日はあの柱の陰で彼を待ってから施錠しなくてもいいのだと、ボンヤリ考える。 
      重いドアを開き、肩越しに一度青い空を振り返ってから、閉めた。 
      ノブに手をかけたままドアを見つめ、ここから出てきた彼の様々な表情を思い出してみる。 
      時には転がるように階段を下り、時には憮然とし、時には階段を踏み外すのではないかと心配になるほどボンヤリとしていた。 
      部活で彼が見せるようになった柔らかな一面とはまた違う「素」の表情を、彼はここで見せてくれた。 
      それだけで、もういいではないか、と思う。頭では、そう、思っている。 
      二度と会えないわけではない。部活での彼を、さりげなく見守ればいいのだ。部長として。 
      ひとつ、短く溜息を吐き出してから鍵をかけた。気持ちを切り替えて教室に戻ろうと階段を下りかけ、思わず息を飲んだ。 
      彼が、すぐ下の踊り場からこちらを見上げて佇んでいたのだ。 
      瞬間、思考が吹っ飛んだ感覚があった。頭の中が真っ白になる、というのはこういう感覚なのか。 
      だがそれは本当に一瞬のことで、上辺だけは、何とかいつもの自分に戻すことができた。 
      「…どうした?予鈴はもう鳴ったぞ」 
      声が出しづらかった。緊張、しているのかもしれない。 
      「……ぁ、の、これ…」 
      階段をゆっくり下り始めると、彼らしくない小さな声で、口籠もりながらなにやら一枚の紙を差し出してきた。 
      「?」 
      軽く眉を寄せながら踊り場の彼のすぐ傍に立ち、それを受け取る。 
      手渡された紙をチラリと見ると、何かのリストのようだった。 
      「これは?」 
      「ぁ、……えっと、明日辺りから図書室の書架に並ぶ新刊のリストっス。部長、本好きそうだから、興味あるかなと思って」 
      「………」 
      彼の言った言葉が、すぐには理解できなかった。と言うより、信じがたかった。 
      手の中の紙にもう一度目を通すと、本のタイトル、作者、出版社などといった項目が書き出してある。 
      (図書室の新刊のリスト?「本が好きそうだから」…?) 
      彼は今まで図書室にいたということか。そして、一般の生徒の手には渡ることのないこのリストを入手して、それをここまで届けに来てくれた、ということなのか。 
      なぜ? 
      思わず本音が口から出る。 
      「……わざわざこれを?」 
      どういうことだろう。 
      なぜ、嫌っている相手にわざわざ時間を割いてこんなものを渡しに来てくれるのだろう。 
      彼の真意がわからなくて彼を見ると、ふいっと視線を逸らされた。 
      「…新刊は人気があってすぐに借りて行かれちゃうらしいんスよ。気に入ったヤツがあったら、すぐに借りに行った方がいいっスよ」 
      (……え?) 
      胸に、何か熱い大きな塊がこみ上げてきて、言葉に詰まってしまった。 
      (俺の、ために……?) 
      何か、言葉をかけなくては。 
      そうだ、礼を、言わなくては。 
      そう思うのに、喉の奥が張り付いてうまく声が出てきてくれない。 
      (俺のことを、嫌っているんじゃ、なかったのか?) 
      あと少しでそんな言葉が出るというその時、彼は俯いたまま「失礼します」と短く言って走り去ってしまった。まるで逃げ出すように。 
      (越前……?) 
      彼の行動の意味を、どう、捉えればいいのだろうか。 
      思考回路が、勝手に自分の都合のいい解釈を始めそうになっている。 
      (そんなはずは……ない……) 
      期待してはいけない。 
      過剰に反応してはいけない。 
      どんなにそう言い聞かせても、心が、歓喜に沸き立っている。 
      彼の走り去った方向を見つめながら、ゆっくりと階段を下り、教室に向かう。 
      席について、彼に渡された新刊のリストをじっくりと眺めた。本屋で購入しようか迷っていた本のタイトルがリストの中程にあげられていた。 
      早速借りに行こうと思いながら、その本のことよりも彼のことで胸がいっぱいになってくる。 
      今日、彼が屋上に来なかったのは、たぶん委員会の仕事が突発的に入ったからなのだろう。彼が図書委員なのは知っている。だから、まだ書架に出ていない新刊のリストを入手できたのだ。 
      そしてそのリストは、自分のために手に入れてくれたものらしかった。でなければ、軽く息を弾ませるほどに急いで「今日中に」届けてなどくれないはずだ。 
      眩暈のような思考の揺らめきを感じて思わず額に手を当て、目を閉じた。 
      (嫌われて、いなかった……) 
      甘い吐息が零れた。 
      嬉しい、などという一言では括れない想いが胸にこみ上げる。 
      安堵、なのかもしれない。でもそれだけではない。嫌われているからと、無意識のうちに無理矢理押さえ込んでいた熱い想いが、まるで箍が外れてしまったかのように、激流のように彼へ向かって流れ出そうとしている。 
      深く、息を吐いた。 
      唇が微かに震えた。 
      (越前……) 
      彼が、愛おしい。 
      傍に、いてもいいのだろうか。もっと傍に。彼の近くに。 
      好きになってくれるとは思わない。自分たちは同性なのだから。 
      でも、嫌われていないのなら、想うことだけは許されるだろうか。彼を想う、この気持ちだけは、胸に抱いていても、いいのだろうか。 
      ゆっくりと目を開け、彼のくれたリストをもう一度見つめる。 
      そうしてこのリストを手渡してくれた時の彼の表情を思い浮かべる。 
      真っ直ぐに見上げてくる彼の瞳の中に、ほんのりと漂っていた不安げな何か。何に対しての不安なのかはわからない。ただ、自分の何かが彼を不安にさせているのなら、その不安をすべて取り除いてやりたいと思う。見つめていた瞳はすぐに逸らされてしまったけれど。 
      そのあと、言葉を続けた彼の表情を知りたい。俯いた彼の表情は、彼の長めの前髪に隠されてしまったから。 
      そう、彼を、もっとよく知りたい。 
      彼が何を考え、何を望んでいるのかを。
 
  
      あの前髪に隠された彼の心を、知りたい。
 
 
 
 
  今すぐ、彼に逢いたい………
 
 
 
 
 
 
 
  
      続
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      20041130
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