髪の毛




◆1◆



空が青い。
風が少しずつ優しさを増している。
そして今日も、彼は無防備に眠っている。





レギュラーとして彼が練習に参加し始めた。
彼と二年の海堂にレギュラー入りを阻止された乾が、専属のトレーナーのように、理論的に組み上げられた様々なメニューを課してくれる。
今までの練習とはひと味もふた味も違うメニューに、レギュラー達の瞳が輝きを増している。
いや、それだけではない。乾の考えてくれたメニューのせいだけでは、ないのだ。
新たにレギュラーに加わった越前リョーマという男の存在が、レギュラー全員の士気を高めている。
彼に影響を受けたのは、自分だけではなかったのだ。
それに、彼自身も少しずつ変わってきたように思う。
入部したての頃のような、どこか棘のある雰囲気がずいぶん軟らかくなった。部室やコートの外では、声を立てて笑ったりするのを見かけることもある。
特に、菊丸や二年の桃城の前では、彼は柔らかな瞳をしている。決して、こちらには向けてくれない瞳を、あの二人には容易く向けているのだ。
羨ましいとは思わない。至極、当然のことなのだから。
だが、見ていることは、できない。
自分が嫌われているのだと、思い知らされている気になるからだ。
彼から目を逸らし、誰にも気づかれないように溜息を吐く。
(大丈夫だ……今、ここに居るのは、青学テニス部・部長の手塚、だ)
だから、部のことを考えていればいい。『越前リョーマは、大きな戦力になるルーキー』。今は、それだけだ。
あの時間がある限り、自分は現実を見つめていられるはずだ。
あの屋上での時間が、まだ、自分に残されている限りは……





彼はよく昼寝をするようになった。毎日の練習が、相当にきついのかもしれない。
眠そうな目を擦りながら、彼はきちんと朝練にも顔を出している。時折多少の遅刻はあっても、練習を休むことなどはなかった。
彼とコートに立ち、一日が始まる。
そして、この屋上で、彼の寝顔を眺め、放課後にまた彼とコートに立ち、一日を終える。
これ以上、何を望むことがあろうか。
(ささやかな俺の幸せ、かもしれないな…)
彼の寝顔を見つめながら、そっと熱い想いを噛み締める。
今は無防備に眠る彼。その彼の瞳が自分を捉えて微笑むことはないけれど、彼の寝る時の癖なのか、たいていはこちらに顔を向けて寝てくれる。そのおかげで彼の寝顔はよく観察でき、彼を求めて止まない心を宥めるには充分だった。
それでも、日に日に強くなる想いに、時折、言いようのない苦しさがこみ上げる。
このままでいいと思っている。このままで充分だと。
なのに、心は悲鳴を上げ始めている。
心の限界が、近いのかもしれない。もしも、その限界を超えてしまったら、自分はどうなるのだろうか。彼の中の、小さな信頼の芽を無惨にむしり取り、踏みにじり、欲望のままに彼のすべてを汚すのだろうか。
(いや、そんなことはしない……)
彼の存在を、性欲の対象として見ているのではない。
それが全くないとは言わないが、それだけでは、決してないのだ。
だからもし、自分の心が、彼を求めすぎて壊れる時が来たならば、壊れてゆく自分を、甘んじて受け入れようとも思う。
彼を見つめていると、苦しい。
だが、彼を見つめているだけで、嬉しい。
二つの想いは、今、ちょうどバランスよく保たれている。苦しい分だけ嬉しく、嬉しい分だけ苦しく。
今のままならば、何も変わらない。このままでいられる。
だから、自分は、何もしない。何も言わない。何も触れない。
ただひとつだけ、彼をこうして見つめることだけは、自分に許したい。
(本当に、それだけで、いいんだ…)
そうしてチャイムの音に立ち上がり、ひとりの男として彼に声をかける。
唯一の、至福の瞬間。
「越前」
今だけ、愛おしい名前を、柔らかく呼ぶ。
まるで想いを告げるように、そっと、甘く、優しく、誰にも抱いたことのない熱く切ない想いを込めて。
気づかれるだろうか、この想いを。
気づいてくれるだろうか、この切なさを。
「越前、予鈴が鳴ったぞ」
祈るように、彼の傍らに膝をつく。
彼の髪が、風にそよぎ、その瞳がゆっくりと開く。
「起きたか?」
「……ぃっス」
彼の額にかかる髪を、そっと払ってやりたくなる。
だが、そんなふうに触れてはいけない。自制が、利かなくなるに決まっているから。
「遅れるなよ」
彼が起きあがるのを確認して、背を向ける。
こんな日がいつまでも続くといい。続くのだろうか。続いて欲しい。
一日の中で、唯一、彼のことだけで心を一杯にできる時間を、どうか、誰も奪わないで欲しい。
どうか。





なのに、それは、あっさりと奪われた。
誰のしたことでもなく、彼自身によって。






その日、彼はとうとう、昼休みに屋上へ姿を見せなかった。










                            



20041124