  誘惑
  
 
 
  ◆5◆ 
      
  校内ランキング戦が終わった。 
      予想通り、と言うべきなのか、越前リョーマは新たな青学テニス部レギュラーとして、同じ旗の下、全国大会に向け共に戦うことになった。
 
  嬉しい、と思った。 
      嬉しいと、思ってしまった。 
      テニス部をまとめる存在である自分が、たった一人の勝利に、いちいち心を躍らせていた。 
      彼の試合を見ていて、もう誤魔化すことができないほど彼に惹かれている自分に、嫌というほど気づかされた。 
      自分は、越前リョーマを、ただの後輩として見ていない。 
      もう手遅れだったのだ。なにもかも。 
      試合中に見せる不敵な笑みも、エースを取ったときに見せるちょっと素直な微笑みも、追いつめられて尚燃える瞳も、対戦相手への物怖じしない言葉も、何もかもが鮮明な色合いを保ったまま自分の心に焼き付き、深いところに刻み込まれた。 
      試合を、いや、試合中の彼を、食い入るように見つめながら、自分の心が「越前リョーマ」という存在を受け入れることに歓喜するのを感じた。 
      もう、認めるしかなかった。
  時には熱く、そして時には重く自分にのしかかってきた彼への想い。 
      その名前を「恋」というのだと。
  認めた途端、すべてが、彼を中心に動き始めた。 
      彼を中心に、色が、音が、意識が、めまぐるしく生まれ変わり、息づき、自分の心を掻き乱して舞い上がる。 
      そして、その想いは胸から溢れ出し、全身を満たしていった。 
      世界が、一変してしまった。 
      だが彼によって変えられてしまった自分の世界も、悪くはないと思える。はっきりとした世界の中心を見つけたようで、いっそ心地いいくらいだった。 
      どこにいても、彼のことを考えるだけで、あの屋上にいるときのような爽快感と開放感と、そして初めて知った甘い感覚が全身を包む。 
      そう、初めて知った。初めて感じた。 
      他人に対して、言葉にできないような、甘く、熱く、狂おしい想いが胸に溢れてくる感覚。 
      (俺は、越前を求めている) 
      新たにレギュラーに決定したメンバーの名を読み上げる自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるような感じがする。 
      彼が、目の前にいるだけで、すべての自分の神経や感覚や意識が彼へと向かうのがわかる。 
      こんな自分がいたなんて。 
      たった一人のために、自分の心がこんなにも揺さぶられるなんて。 
      (だが……) 
      解散を言い渡して、散らばる部員達を瞳に映しながら、深く息を吐き出した。 
      どんなに心乱れたとしても、ひとつだけ、忘れてはいけないことがある。 
      (知られては、いけない) 
      そう、この想いを彼に知られるのだけは避けねばならない。絶対に。 
      根本的に、自分と彼は同じ男なのだ。本来ならば、有り得ない想いのはずだ。 
      例え彼の生まれ育った土地が、同性間の恋愛に寛容な場所であったとしても、自分自身の問題となれば話は違う。 
      拒絶されるに違いないのだ。 
      ただでさえ嫌っている人間から、あらぬ感情を寄せられているなどとわかったら、彼はどんなに不快になるだろう。 
      そんな気分にさせるわけにはいかない。 
      「………」 
      ほんの少しだけ視線をずらして、コートの整備をする彼を盗み見た。 
      彼の姿を捕らえた瞳が歓喜し、舞い上がる心とは裏腹に、重い塊が、胸にのしかかる。 
      それは、きっとこの先も、日を追うごとに大きさと重さを増してゆくだろう。 
      (つらい、のだろうか…) 
      自分の心は、つらいと、感じてしまっているのだろうか。 
      彼に恋をして、彼を求めて、でもそれは成就することはなく、彼に伝えることさえできない想いなのだと。 
      自分は彼を求めている。だが、奪いたいわけではない。 
      (大切に、したいんだ…) 
      まだ磨ききれていない原石のような彼が、どんどん輝きを増し、光を放つ様を見つめていたい。 
      広い世界へと羽ばたく瞬間を、傍で、見守っていたい。 
      (封じよう…) 
      彼への想いを、誰にも知られてはならない想いを。 
      自分ならばできるはずだ。いや、そうしなくてはならない。 
      それが、彼に恋をしてしまった自分ができる、たったひとつの贖罪なのだから。
 
 
 
 
  何も知らない彼が、今日もいつも通り屋上に姿を現し、無防備に自分の目の前で眠っている。 
      先程まで少し気が立っていたのか落ち着かない様子だったが、いつの間にかピクリとも動かなくなった。 
      もう文庫本に夢中になっているフリはしなくてもいい。 
      ページを捲ったりしていたが、本当は一行だって頭には入っていない。 
      自分の意識は、すべて彼に向いていたのだ。 
      嫌われていても、こうして無防備な姿をさらせるほどには信頼されているのならば、自分はもう、充分だ。 
      こんなふうに少しの間でも、彼を見つめることが許されるだけでいい。 
      これ以上は、何も望まない。 
      そうだ、これ以上は望まない、望んでいない、はずなのに。
  無意識の彼に、試されている。
  穏やかで静かな空間が、まるで彼の気配だけで満たされているような錯覚。 
      自分の顔が、少しずつ強ばっていくのがわかる。 
      彼が目を閉じて眠りに落ちている今だけは、彼を真っ直ぐに見つめるのが許される。なのに、どうして自分は目を逸らすのだろう。 
      どうして彼を、見ていられなくなるのだろう。 
      「………ん」 
      「…っ」 
      彼が時折漏らす小さな声にすら、身体の奥が熱く反応する。 
      目を逸らしても、立ち上がって背を向けても、どうしようもないほど全身で彼を感じようとしてしまう。 
      抑えても、抑えようとしても、あとからあとから溢れてくる邪な衝動に、我を忘れて彼を踏みにじってしまいそうになる。 
      危険だ。 
      彼が危険なのではない。 
      彼にとって、手塚国光という存在が、危険すぎる。
 
  彼に背を向けて、手摺を握り締めて、なんとかその衝動を堪えているうちに予鈴が鳴る。 
      少しだけホッとして、彼を振り返った。 
      彼はまだ起きない。 
      傍に立って名を呼んでも、彼はまだ目を開けなかった。 
      無防備な少年の寝顔。 
      そういえば前にもこんなふうに彼の寝顔を見つめて、彼の唇に目が釘付けになったことがあった。 
      あの時、すでに彼に惹かれていたのだろう。 
      いや、彼に出会った時から、そして、あの強い瞳を見てしまった瞬間から、この想いは胸の片隅に芽生えていたのかもしれない。 
      こんな危険な男に魅入られているとも知らずに、ほんのりと頬まで染めて何を夢見ているのか。 
      「……困ったヤツだな……」 
      小さな溜息と共に呟いた。その声に覚醒したのか、彼の瞳がいきなり開いた。思わず息を飲む。 
      「ぅわっ!」 
      彼もこれほど間近に相手がいるとは思わなかったらしく、ひどく驚いたように大きな目をさらに見開いて小さく叫んだ。 
      それだけでなく、よほど動揺しているのか「う」とか「あ」とか、意味のない音をその唇から漏らして頬を紅潮させてゆく。 
      思わず、微笑んでしまいそうになった。 
      彼の動揺が、楽しいし、どこか嬉しい。 
      彼への恋心を自覚してしまった自分の目には、彼のすべてが愛おしく映る。 
      (だめだ…) 
      これ以上、彼を見つめていることができない。 
      自覚してしまった瞬間から、暴走とも言えるスピードで、彼への想いが膨らんできているのだ。こんな男は、危険極まりない。 
      彼からどうにか視線を外して立ち上がる。 
      「……予鈴が鳴ったぞ」 
      言い捨てるようにそれだけ言って、今までと変わりなく見えるように背を向け、ドアに向かう。 
      返ってきた彼の小さな返事までが、愛おしく聞こえて胸が詰まった。 
      嫌われたくない。これ以上は。 
      好いてもらえるとは思っていない。だからせめて、これ以上嫌わないで欲しい。 
      ドアを閉め、いつものところで彼を待つ。 
      降りてきた彼は、どこかボンヤリとしていた。上にいる時は気づかなかったが、少し困ったように眉が寄せられている。 
      何か悩みでもあるのだろうか。 
      そう思いながら見つめていると、彼が、すぐ近くで足を止めた。 
      「………なんなんだよ、もう…っ」 
      そう言い捨ててから、彼は走って行ってしまった。 
      (?……俺のことか?) 
      微かに動揺しながらも、身体が覚えてしまったかのように階段を上り、ドアに鍵をかける。 
      何か気に障ることをしたのだろうか。いや、自分はいつも通りだったはずだ。 
      何でも自分に関係づけて考えたくなるのは、彼への執着が強いからなのだろう。 
      彼には彼の生活がある。彼の思考がすべて自分に関わっていることなど有り得ないのだ。 
      (戻ろう) 
      溜息を吐いて、教室に戻る。 
      (今は、大会のことを考えなければ……) 
      彼への想いを封じようと決めたのは自分だったはずだ。 
      だから、あの屋上以外では、彼のことを考えるのは、もう、よそう。 
      あの屋上だけは特別だ。 
      なぜならあの場所は、自分にだけ与えられた癒しの空間なのだから。
 
  あの場所でだけは、彼を想って過ごそう。 
      あの場所でだけは、彼に優しくしよう。 
      日常の空間で、すべてを彼の前にさらけ出したい誘惑に負けないように。 
      あの場所でだけは。
 
 
  あの空間でだけは、ただの、彼を想うひとりの男でいよう……
 
 
 
 
 
 
 
  
      続
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      20041118
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