誘惑




◆4◆



校内ランキング戦が始まる。
生徒会の方も多少は考慮してくれるらしく、しばらくは放課後に生徒会室に向かわなくてすむのが、ほんの少し嬉しい。


レギュラーを決める校内ランキング戦に、彼をエントリーした。それだけの実力があると判断したからだ。
そのせいか、今日は何事か心に浮かぶことも多いようで、先程から空を見つめたまま彼の表情がクルクル変わっている。
ボンヤリと空を眺めて穏やかな表情をしていたかと思えば、人が変わったようにどこか挑発的な微笑みを浮かべたり、その一瞬後には微かに眉を寄せて小さな溜息を吐いていたりする。
めまぐるしく変わっていくのであろう彼の心の中を覗いてみたいと、そんな想いが胸をよぎる。
だがあまり見つめていると、勘の鋭い彼のことだ、こちらの視線に気づいてしまうだろうと思い、文庫本にも目を向ける。
(?ここはさっきも読んだ、…か)
今日は本の内容が全く頭に入ってこない。それにさっきから同じところを何度も読んでしまって、一頁も読み進んでいない。
溜息が出た。
彼が、気になるのだ。
珍しくコロコロと変わる彼の表情の方に、気に入って買ったはずの本を読むよりも興味がある。
文庫本の文字だけを目で追いながら、小さく苦笑する。
これでは自分もあの二年の荒井と同じだ。越前は何もせずにそこにいるだけなのに、自分は彼が気になって仕方がない。
荒井のように突っかかっていく気などないが、彼の小さな身動ぎさえ「気に障る」。
だがそれは決して嫌なものではない、と思う。
きっと、彼の様子をこっそり窺うのが、ちょっとした楽しみになっているのだ。
(楽しみ、……か)
コートに立つ彼を見ていると、何かを期待させられる。未だ彼が誰にも見せていない「可能性」を秘めているように思えて、彼によってもたらされるだろう輝く未来を想い、胸が高鳴るのだ。
それは彼自身の未来でもあり、青学の未来でもある。
彼は、きっと彼自身と共に、彼の周囲の人間達をも巻き込みながら、光の未来へ導く。
そんな予感のような期待感が、彼を見つめていると、止めどなく胸に溢れてくる。
だから、見ていたい。
(そう、それ以外には、何も……)
もう一度、彼を見る。
光をもたらすだろうその存在は、今だけは一人の少年として、ここに居る。
ここに居るときだけ見せる「少年・越前リョーマ」の素顔。無防備なその横顔に、頬が弛みかけた、その時。
ギギギッと、重いドアが開く嫌な音が聞こえた。
(誰だ)
思わず舌打ちをしてしまった。
自分の好きな時間を邪魔されてひどい不快感が湧き上がる。
「あ、いたいた、やっぱりここに居たんだね、手塚。大石が探しているよ。……あれ、越前?」
ドアから顔を出した不二が彼を見つけて目を見開く。身体を起こした彼が面倒くさそうに「………ちーっス」と言った。
また彼の時間を邪魔してしまった。
ドアから不二が顔を出すか出さないかですぐに立ち上がって、自分と、そして彼の静かな時間を奪う存在を排除しに向かう。
不二を軽く睨みながら近づくと、不二がどこか探るように微笑んで言った。
「意外な取り合わせだね。いつからそんなに仲イイの?」
「…偶然居合わせただけだ。関係ない」
バカなことを言うな、と思った。そんな関係でないのは一目瞭然だろう。
彼には、嫌われているのに。
「…大石は下にいるのか?」
とにかく不二をこの場から追い出したかった。これ以上、彼の時間を邪魔するわけにはいかない。
「ん?たぶん、廊下をうろうろしていたからその辺に……」
不二の言葉を聞くフリをしながら、半ば強引に扉の方へ向かわせる。なんとかドアの向こうへ不二を押し遣ってから、ふと彼が気になり、ほんの少しだけ振り返ってみた。
彼が、不機嫌そうな瞳でじっとこちらを見つめていた。
(すまない)
心の中で彼に謝罪しながら、ドアを閉めた。深く溜息を吐くと、不二がクスクスと笑いながら「ふぅん」と言った。
「……なんだ?」
「ううん。さっきも言ったけど、意外な取り合わせだなと思って」
「偶然だと言っただろう。勘ぐるな」
含みのある瞳を向けてくる不二を威嚇するように、不機嫌さを隠さずに言う。だがそんなことでは、この男が怯まないのは、もうよく知っている。
「そういうことにしておこうか」
「………」
また溜息が出た。彼のことを考えるときに出るものとは、明らかに違う溜息だ。
階段を下りて角を曲がり、教室の並ぶ廊下に出るとすぐに大石を見つけた。
「あ、手塚!どこにいたんだよ」
困ったように笑いながら大石が駆け寄ってきた。不二にも「見つけてくれてありがとう」と言って微笑みかける。
「ランキング戦のことなんだけど」
「ああ」
細かな確認事項がいくつかあったらしく、次々に繰り出される大石の質問に答えながら、屋上に残してきた彼を想う。
(今頃は清々していることだろう……)
彼はまた、最初に屋上に現れたときに垣間見せたような輝く瞳で空を見つめているかもしれない。空に向けて心を解放し、やっと手に入れた独りの時間を満喫しているだろう。
(俺が居ては、味わえない気分なのだろうな…)
なぜだろう、やるせなさがこみ上げる。
「手塚…?」
「ん?ああ、それでいいと思う。大石に任せる」
「うん、わかった」
どこか遠くで聞いていた大石の質問になんとか答えると、その質問ですべて解決したらしい大石が「じゃ、またあとで!次、実験室なんだ!ゴメン」と言って自分の教室に入っていった。
(教室移動があったのか…悪いことをした…)
間もなく予鈴も鳴るだろう。
そうしたら彼が背後の階段を下りてくる。どんな表情をしているだろう。きっと清々しく、すっきりした顔に違いない。
「僕もそろそろ教室に戻るよ」
「ああ」
不二に頷くと同時に予鈴が鳴り始めた。「じゃ、」と言って背を向ける不二を見送ってから、いつもの柱の陰に入り込む。
屋上のドアが開く気配がして、彼がゆっくりと階段を下りてきた。
彼の足が踊り場にさしかかるのを確認して、なぜか、目を逸らした。
足音がすぐ近くを通り過ぎてゆく。
(何をしているのだろう…俺は…)
なぜ、目を逸らしたのだろう。
いつもなら、彼がどんな表情で去ってゆくのかを見届けるというのに。
(今日の表情は…見なくてもわかる)
きっと清々した表情に違いない。屋上を独り占めして、爽快感に包まれたに、違いないのだから。
彼の足音が消え去ってから、いつものように鍵をかけに階段を上る。
溜息が出る。
心が重いのは、好きな時間を中途半端に邪魔されたからだ。屋上で癒されるはずだった心が、充分に癒されないまま放り出されたからだ。
それ以外の理由など、何もない。
深く、息を吐いた。
今度は溜息ではなく、意識して、息を吐き出した。
少しでも、心が軽くなるように。
胸に支えたままでいる得体の知れない塊を、一緒に吐き出したかったから。
(いや…、)
本当は、胸に支える塊の正体を、きっと自分はもう知っている。
だがその正体を言葉にして暴いてしまうことは、自分の中にある「認めてはいけない感情」に名前をつけて認めるということだ。
きっと、認めてしまえば楽なのかもしれない。なのにどうしてだろう、今は、どこか認めたくないと、頑なに思い始めている。
認めてしまった瞬間に、変わってしまうのは、自分だ。自分だけが、先の見えない世界に放り出されるのだ。
微かに、顔が強ばった気がした。
鍵をかけ、そのまましばらくドアを見つめた。
このドアの向こうには青い空と、優しい風がいる。
(……それだけでは、もう、だめなのか……)
認めてはいけない、いや、認めたくない感情の奥で、切なく求め始めているたったひとつの存在。
(……もう、手遅れなのか……?)
きつく眉を寄せた。
自暴自棄に、すべてを投げ捨てたい衝動に駆られた。


もう一度、深く息を吐き出した。
なのに、胸の塊が、また一回り大きくなった気がした。










                            



20041115