誘惑




◆3◆



青学テニス部の新入部員・越前リョーマが、生徒会長専用の場所「昼休みの屋上」に現れるようになって数日。今日も彼は姿を見せ、当然のように向かいの柵の前に寝転んでいる。
彼が来るようになる前から、昼休みには屋上への扉を開けてくつろいでいたとは言うものの、最近はさらに早く、一分一秒を争うような心境で屋上へ向かうようになっていた。
それは、「屋上の鍵を生徒会長が持っている」ということを彼に気づかれないようにするため。彼が見ている目の前で、屋上の鍵を開けることができないから。ただ、それだけ。
彼が屋上に現れるからといって、今までの時間と変わったこともないのだし、と思う。
今までと変わらず、澄んだ青空に包まれ、爽やかな優しい風を感じながら好きな本を読む。
彼の方も、干渉されるのを固く拒んでいるのは目に見えて伝わってくるし、うるさく音を立てるわけでもないから、こちらはとにかく今までと同じように、ただ黙って本を読んでいれば問題はないのだ。
(越前も、ただ静かな時間を過ごしたいだけなのかもしれない)
部活中、彼は騒がしい連中に囲まれると、ほんの少し不機嫌になる。周りは気づかないようだが、彼の視線がソワソワと地面や空に向かい始め、「この状況、どうにかして欲しい」と顔に書いてあるように眉間に小さくしわが寄る。
そんな彼の表情を見ると、いつもの彼の表情とのギャップを感じて、つい頬が緩みそうになる。そうして、驚くのだ。
彼を、ずっと見つめていた自分に。
「………」
溜息が出る。
ここのところ溜息が多い、と不二にそう指摘されたが、自分でもわかっていた。
『恋煩い?』
からかうような不二の微笑みが脳裏に浮かび、眉を寄せる。
自分たち三年生にとって、今年はこの青学テニス部で全国大会出場、いや、全国制覇を狙う最後のチャンスだ。テニス以外のことに心奪われている暇など無い。
もしも自分が越前リョーマという男に関心があるというならば、それは、彼が青学にとって有益な存在かどうかを見極めたいからだ。それ以外の感情など、彼に向けてはいない。
それに、例え彼に感心があるのが別の理由だとしても、それが彼に受け入れられることは有り得ない。
なぜなら彼は、手塚国光という人間をひどく嫌っているからだ。
彼がこの屋上に来るのも、澄んだ青空と爽やかな風を堪能することができる心地いい空間で、静かな時間を過ごしたいからだ。その『心地いい空間』に、『手塚国光』は決して含まれてはいない。それは、完全にこちらとの接触を拒む彼の態度からして明白だ。
だから万が一、こちらが自分の存在を主張するようなことをしたら、彼は途端に不快に思うに違いないのだ。
自分の気に入っている時間を邪魔された、と。
「………」
文庫本から目を上げて、彼の様子を窺ってみる。彼は空を見つめたまま動かない。
(今日は寝てないのか)
ここに来てすぐに寝転んで、彼はずっと空を見ている。彼の視線の先には空しかないはずだが、何か別にあるのかと思い、自分もそっと視線を上に向けてみる。
その時。
「…っ」
不覚だった。いたずらな風に、鼻孔をくすぐられた。生理現象には、逆らえなかった。
しまった、と思ったが遅かった。彼の視線がこちらを、『心地いい空間で排除されるべき存在』を、捉えた。
「………すまん」
すんなりと、謝罪の言葉が出た。
彼の時間を、邪魔してしまった。微妙なバランスでどうにか保っていた互いの空間を、壊してしまった気がしたのだ。
「へ?……あ、べつに…」
やはり彼は不機嫌そうに眉を寄せた。呟くようにそれだけ言って、また元の時間に戻ろうと視線を外す。
(謝ったのもまずかったか)
不快になる存在が、声まで発してしまったのでは、その存在感をさらに主張したようなものだ。これ以上は邪魔しないように、文庫本に目を落とす。
だが突然、彼が身体を起こした。
今日はもう、出て、行くのだろうか。
「部長」
(?)
起きあがったまま、彼は出ていくでもなく、いきなり話しかけてきた。今度は声は出さずに、彼に視線だけを向ける。
「何で謝るんスか?」
訝しげに眉を寄せて彼が訊ねてくる。
先程の謝罪の意味がわからないのか?
確かに、いきなり謝られただけでは、何に対して謝罪されているのかはわからなかったかもしれない。
「ああ…、邪魔をしたかと思ったんだが…」
巧く説明の言葉が出てこなくて、言い淀んでいると、彼の眉がさらに顰められた。
「邪魔?なん……」
彼が何かを言おうとするのを、チャイムが遮った。時間切れだ。どこかホッとした気分の自分に、内心苦笑する。
そんな気配を気取られないように、いつものごとくさっさと立ち上がり、ドアに向かう。
まだ彼がこちらを見つめているような気がして、彼を振り返った。案の定、目が合った。
「悪かったな」
心地いい時間を邪魔してしまって。
自分も、好きな時間を邪魔される時の不快感を人一倍感じる方だから、今の彼の心境がわかる気がした。だから、もう一度、きちんと謝ろうと、思った。
チラリと見た彼の表情は、予想していたものとは違った。ポカンと口を開け、「間の抜けた」と形容したくなるほど、素っ頓狂な表情をしていた。
(……何か変なことを言ったのだろうか)
いや、自分はただ彼に謝っただけだ。
少し気にしつつ、階段を下りていつもの柱の陰で彼を待つ。しかし、なかなか彼が出てこない。もうそろそろ本鈴が鳴る、と思った瞬間に本当にチャイムが鳴り始めた。
まさかサボる気か、と思っていると、彼が初日と同じように転がるように飛び出てきた。階段の方に向かいかけていたので、危うく見つかるところだった。
彼を見送る暇もなく、急いで施錠し、教師が教室に入る前に何とか自分の席に滑り込む。
「手塚くんがギリギリに戻るなんて、珍しいわね」
隣の席の女子にニッコリ微笑まれて、言葉に詰まった。
確かに、自分らしくないことをしている気がする。
いつもは時間に余裕を持って行動している自分が、チャイムが鳴り終わるまでに教室に戻れなかった。
(それだけじゃない)
さっきまでの、自分の行動を思い起こして眉を寄せた。
昼休みになって、彼が来る前に急いで屋上への鍵を開けに行った。それは諸事情から仕方がないとしても、彼が現れると、それが当然のことのように思えていなかったか。あの空間に彼がいることが、ひどく自然に感じるようになっていないか。
好きな時間を邪魔される時の不快感を人一倍感じるはずの自分が、彼が現れても「不快感」を感じなかった。
つまり、自分だけの空間だったはずの場所に入り込んだ存在を疎ましく思うどころか、むしろ今では、その存在ごと、あの場所を気に入っているのではないか。
そしてさらには、彼が不快な思いをしないようにと、自分の息を潜めてはいなかったか。
(越前の、ために……?)
誰かのために自分を抑えることなど、今までほとんどしたことがなかったように思う。
それは、自分の我が儘を通すという意味ではなく、相手が「どう思うか」を気にかけて「できれば相手に嫌われないように」と行動することなど無かった、という意味だ。
だから、目上の人間にも平気で苦言を呈することもあったし、年下だからといって甘やかすこともなかった。
なのに。
もう今以上には、彼に拒絶されたくないと思う自分が、確かに、在る。
(越前、リョーマ…)
彼について何かを考える時、必ず自分は溜息を吐く。
その溜息がどういう類のものなのかも、おそらく自分の心の奥では気づきかけている。
だがそれを認めるわけにはいかない。
認めてしまったら、何かが変わっていってしまうからだ。
自分にとって、彼は危険な存在かもしれない。
それでもきっと自分は、昼休みになればあの屋上へと足を運ぶのだろう。
なぜならば、あの空間で過ごす時間は、日々の消耗で擦り切れそうになる自分の心を、どんな栄養剤よりも確実に癒してくれているからだ。
澄んだ青い空と、爽やかな風と、素っ気ないテニス部のルーキー。
ただそれだけの空間なのに、そこに居たいと、ひどく自分を惹きつけるものがある。


その感情につける名前を、今は、まだ知らぬフリをして目を逸らすしかないと、思った。









                            



20041113