  誘惑
  
 
 
  ◆2◆ 
      
  はっきり言って、驚いた。 
      彼が、また屋上に現れたからだ。 
      (俺を嫌っているんじゃないのか?) 
      いや、嫌っている存在がそこにあっても、それ以上の魅力を、彼はこの場所に感じているのかもしれない。 
      その証拠に、彼は昨日と同じ様に、いや、昨日以上に素っ気ない形だけの挨拶を言って昨日と同じ場所に立ち、また背を向けるのだ。 
      (越前リョーマ…) 
      不思議な男だ、と思う。 
      本人は至ってクールに、飄々としているのに、周りの人間たちがどんどん彼に惹きつけられていく。 
      きっと二年の荒井は、その状態がマイナスに現れた、いい例なのだろう。 
      越前の方は「何もしていない」のに、「見ているだけで気に障る」、というヤツだ。それは裏返せば「気になって仕方がない」のだということだと、荒井自身は気づいていないのだろう。 
      そう、昨日も越前は荒井に絡まれていた。
 
 
  いつもと違う歓声の上がるコートが気になり窓辺に寄って目をやると、荒井と向き合う越前の姿。 
      「あれ?」 
      大石が小さく、訝しむ声を上げた。 
      越前側のインパクト音が、おかしい。 
      「て、手塚…あれって…」 
      コートのざわつきがここまで聞こえてくる。 
      「あ、すごい、打ち返したぞ、手塚!確かあのラケットはもう……」 
      「………」 
      瞳を輝かせながら声を弾ませる大石にチラッと目をやり、腕を組んだ。 
      (考えたな) 
      身体全体を使って回転し、打球にスピンをかけている。巧い打ち方だ。あれでは、今の荒井は打ち返せない。 
      なぜあんなラケットを使っているのか少し気になったが、相手が荒井であることからしても、だいたいのいきさつは推測できる。 
      (懲りないヤツだ) 
      だが、そんな荒井を止めようとしない部員たちは、皆同罪だ。越前の小さな姿が、二年前の自分とまた重なって見える。 
      越前を、自分と同じ目に遭わすのだけは避けねばならない。青学テニス部は、間違ったことをしようとする人間をきちんと正すことができる健全な部であって欲しい。 
      「どう思う?、手塚」 
      越前の実力は充分にわかった。彼には、チャンスが与えられるべきだ。 
      だがその分、この先目立つことになるだろう越前を、荒井のような攻撃的な奴から護ってやる必要もある。だから、 
      「規律を乱す奴は許さん。全員走らせておけ」 
      越前が特別扱いをされていないと思わせることが、まずひとつの有効な手段でもある。そして、ある程度の監視と規律の強化・徹底。 
      「え?レギュラー達も?」 
      「あいつらもだ」 
      おもしろがってわざと放っておく不二の楽しそうな微笑みが目に浮かぶ。乾は密かにノートを手にしているはずだ。その二人に同調し、たぶんギャラリーに徹している他のメンバー。荒井を窘めようとしないならば、レギュラーであろうとも、同罪だ。 
      (越前に興味があるのはわかるが、やり方の問題だ) 
      「大石、先に行っていてくれ」 
      一段落ついたらしいコートを見ていて、生徒会の方でも呼ばれていたのを思い出し、軽く溜息をついてから部屋を出た。 
      いつもの自分ならば部員達に内心腹を立てるのだが、なぜだろう、心が、いつもよりもすっきりしている。いや、すっきり、と言うよりは…… 
      「あ、会長!すみません、この書類、明日までなのにお渡しするの忘れていましたっ」 
      生徒会室に入るなり、書記を務める二年の後輩が青ざめた表情で駆け寄ってきた。 
      「明日までなら問題ない。気にするな」 
      「え!?…あ、は、はいっ、すみませんでした」 
      ひどく気分がいい。 
      そうだ、あの屋上にいる時のような、爽快感がある。 
      「………」 
      渡された書類を受け取り、自分の席に着こうとして、ふと、足を窓辺に向けた。この生徒会室からもコートが見えるのだ。 
      ちょうど大石が全員に罰を言い渡しているところだった。人の好い大石は自分も走る気でいるらしい。 
      (俺も練習のあとで走ろう) 
      そう思いながらコートを見つめていると、当事者の越前がいきなり顔を上げて校舎をぐるりと見回し、この部屋に視線を定めた。 
      (視線を察知する能力も野生動物並みなのか…?) 
      目が合う前に窓から離れて自分の席に着く。 
      何か、心の中に、春を運ぶ風のようなものが優しく吹き抜けた気がした。
 
 
  昨日のことを思い出しているうちにチャイムが聞こえてきた。 
      (もう終わりか…今日の昼休みは短く感じたな…) 
      続きが気になっていたはずの文庫本も、あまり読み進めることができなかった。 
      立ち上がって、自分の正面に目をやり、思わず目を見開いた。 
      「寝ている、……のか?」 
      もうチャイムは鳴り終わるというのに、彼は目を閉じて寝転がったまま、ぴくりとも動かない。 
      四月とはいえ、まだ外で寝るには気温が足りないだろうに。 
      「越前」 
      動かない。本当に寝ているのか、それとも寝たフリをしているのか。 
      近くまで行って彼の顔を覗き込んだ。 
      寝ている。 
      部活で見せる表情が別人のものかと思うほど、幼い寝顔。 
      今までは気づかなかったが、睫毛がずいぶんと長い。スウスウと寝息を立てている唇は少し開いていて、その隙間から、赤い舌がほんの少しだけ覗いている。 
      「…っ?」 
      (なんだ?) 
      何かが、胸を突き抜けた。今まで感じたことのない、胸騒ぎのような感覚。 
      その自分の感覚に戸惑っていると、ゆっくりと越前の瞳が開いた。 
      「!」 
      途端、間近で目が合い、越前が驚いて息を飲むのが伝わってくる。 
      大きな瞳だ、とどこか頭の隅で思いながら、立ち上がった。 
      「…起きていたか。予鈴がなったぞ。教室へ戻れ」 
      「う…ういっス」 
      荒井に何を言われても動じなかった彼が、微かに狼狽えているのが少し愉快だった。だが、自分がそんな表情を見せたら、きっと彼はバカにされたと思って不機嫌になるだろう。 
      だから、昨日のように、さっさと帰るフリをする。 
      ドアを出て、階段を下りて。 
      昨日のように柱に背を預けて待っていると、彼がドアから出てきた。どこか浮かない顔をしている。 
      (寝起きに嫌いな奴の顔を見て不機嫌なのかもな…) 
      溜息さえつきながら遠ざかる彼の背中を見つめて、知らず自分も溜息を吐いていた。 
      誰かに嫌われるのは、確かに気分のいいものではない。今までも、言葉が足りなくてよく誤解され、嫌われたりしてきた。 
      しかし、自分は自分。他人に嫌われないように生きるつもりは、これからも、無い。 
      なのに。 
      先程から心を何かが掠めて、そうして小さな何かを奪い取られたような、微かな寂寥感がある。 
      彼に、そう「越前リョーマ」に、嫌われてしまうことを自分の心は拒んでいるというのか。 
      (それはないだろう) 
      まだ出会って間もないというのに。 
      思考を切り替えて、本鈴がなる前にドアに施錠するためにもう一度階段を上がった。 
      鍵をかけながら、急に先程の越前の寝顔を思い出した。 
      顔全体を見ていたと思うのに、長い睫毛と、柔らかそうな唇ばかりが思い出される。 
      また、溜息が洩れた。先程のものとは、違う種類のものだと、心のどこかで感じている。 
      (それは、……ないだろう) 
      先程と同じ言葉を胸の内に呟いて、自分の中に芽生えそうになっている感情から目を逸らした。
 
  鳴り始めた本鈴が、意識を、現実に引き戻してくれた気がした。
 
 
 
 
 
 
 
  
      続
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      20041111
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