  誘惑
  
 
 
  ◆1◆ 
      
  「グラウンド20周だ」
  騒ぎの中心にいた部員にそれだけ言い渡し、背を向けた。 
      溜息が出た。 
      だがその溜息に気づいたのは、こちらを見て小さく笑んだ不二くらいだろう。 
      あの二年の荒井はそこそこ実力をつけてきているのに、人間性に多少問題がある。ああいうタイプは自分で気づかなければ、いつまで経っても前へは進めない。 
      今回も荒井の方があの新入部員に突っかかっていったのだとは承知している。そして荒井の挑発を、彼が取り合わなかったのも。 
      だが、新入部員の彼には悪いが荒井に付き合って一緒に走ってもらうことにする。ここで荒井だけを処罰することになったら、彼にさらなるとばっちりが行くのは必至だからだ。 
      「部長は大変だね。憎まれ役ばっかりで」 
      いつの間にか隣に来ていた不二が呟くようにそう言って笑う。 
      あの新入部員は、確か越前と言ったか。飄々としているように見えるが、帽子の下から一瞬見えた瞳はかなり言いたいことがありそうだった。 
      なのに、文句も言わずに、言われた通りにグラウンドに出て行ったのは賢い選択だ。 
      だがたぶん、嫌われただろう。 
      もう一度、そっと溜息を吐いた。 
      部活といい、生徒会といい、個性的な奴らを束ねるのは一苦労だ。それでもこの部が、そしてこの学校が好きだから、愚痴はこぼさずにいられる。 
      それに、「男子テニス部・部長」には顧問の保管用とは別に「何かあった時のために」という理由で部室とコートの出入り口の合い鍵が預けられるので、常識の範囲内で、好きな時にコートを使うことができるという特権があった。 
      そして「生徒会長」にも、やはり、あまり知られていない、ちょっと変わった特権がある。 
      それは代々の生徒会長だけが知る特権らしく、前生徒会長からそれを聞いた時は少し驚いたものの、それがなんの役に立つのかはわからなかった。 
      「まあ、またいつものストレス解消ができるから大丈夫、かな?」 
      また不二が笑う。 
      不二はその「特権」のことを知っていた。彼の姉が、この学校では今のところ最初で最後の女性の生徒会長だったらしい。 
      「桃がね、ちょっとだけ、彼と打ち合ったらしいよ」 
      「桃城が?」 
      「彼、越前って言うんだっけ?たぶん、すぐに上がってくるよ。楽しみだね」 
      「………」 
      顧問の竜崎が「今年の新入部員に、面白いのがいる」と言っていたのを思い出した。あれは彼のことを言っていたのだろう。 つまりは、 
      (ただの初心者ではない、ということか…) 
      黙々と走る彼に、ほんの少し、視線を向けた。 
      「周りがなんと言おうが、特別扱いをするつもりはない」 
      だが一瞬、彼の姿に、一年の時の自分の姿が重なって見えて、思わず顔を顰めた。 
      特別扱いはしない。だが、可能性を潰すつもりもない。実力があるなら、チャンスは与える。 
      また不二が小さく笑った。 
      心を読まれているようで、思わずきつく眉を寄せてしまった。
 
 
 
 
  青春学園中等部の生徒会長に与えられる、ちょっと変わった特権。それは「屋上の合い鍵が手に入る」ことだった。 
      名目上、屋上の鍵は職員室で管理されている。しかし、この学校の生徒会長には代々、生徒会長である証として、なぜかその「合い鍵」が手渡されるのだ。 
      最初は何の用途があるのかと不思議だった。 
      だが前生徒会との諸々の引き継ぎを終えた、あるとても天気のいい日に、ふと気が向いて屋上に出てみた。もちろん普段は「立ち入り禁止」なので、合い鍵を使って。 
      鍵を開けて、重い扉を開けて、息を飲んだ。 
      視界が、澄んだ空色に埋め尽くされる。 
      ドアを後ろ手に閉め、しばらくそこに佇んでいると、頬を柔らかな風が撫でていった。 
      気持ちがいい。 
      まだ少し肌寒いが、本来独りの時間が好きな自分にとっては絶好の「避難場所」になりそうだった。 
      その日から屋上は、密かな「お気に入りの場所」になった。
 
 
  四月になり、新学期がスタートしてからは、毎日屋上で好きな本を読みながら昼休みを過ごすのが日課になっていた。 
      それこそ毎日のように、なんだかんだと生徒会の仕事があったから、特に急ぎでない限りそれらは全部放課後に回し、短い昼休みは独りの時間を過ごすことにしていたのだ。 
      そんなある日、唐突に、けれどもゆっくりと、ドアが開けられた。重いドアだから、風などでは決して開かない。誰かが、入ってきたのだ。 
      教師たちはこの屋上の合い鍵を代々生徒会長が持っているのは知っているらしい。だが暗黙の了解のようなものがあって、取り上げようとはせず、その使用を黙認してくれていた。 
      それだけ『生徒会長』の重圧が半端ではないことを、教師たちも考慮してくれているのだろう。きっとこの屋上は、代々の生徒会長たちの「癒しの場」というわけなのだ。 
      だから、教師が昼休みにここに来ることは、まず、ない。 
      訝しんでドアを見つめていると、入ってきたのは見覚えのある、そう、新入部員の越前だった。 
      ドアを開けて一歩踏み出した途端に、彼の表情が明らかに変わる。 
      心を解放したように、瞳を輝かせている。部活にいる時には見られない、「素」の彼の表情なのだろう。 
      きっと、視界一杯に広がる青い空に、心を奪われているに違いない。 
      自分が最初にこの場所に足を踏み入れた時と全く同じ反応を示している彼に、何となく親近感が湧いた。 
      だが、彼の瞳がこちらに向けられた瞬間、その表情は一変して不機嫌なものに変わった。 
      「部長……」 
      さっきまで輝いていた瞳が、違う光を湛える。そう、反抗心という、光。やはり嫌われているらしい。 
      「ちーっス」 
      「ああ」 
      無感情の、上辺だけの挨拶。無理もない、と思う。 
      ほぼ初対面であったのに、自分はこの少年にいきなり『罰』を言いつけたのだから。 
      嫌っている相手がここにいるのだから、彼はそのまま引き返すかと思った。が、彼はトコトコと反対側の柵まで来るとグラウンドや空を眺め始めた。 
      どうやらここが「生徒会長専用の場所」だとは知らないらしい。何も知らずに、偶然、鍵の開いている屋上に立ち寄ってみた、というところか。 
      (『立ち入り禁止』の札は見えなかったのか?) 
      そう思ってから、自分もここにいるのだから同罪か、と内心苦笑した。 
      チラリと見た彼の背中は、完全にこちらとの接触を拒絶している。ならば、こちらからは何も言わずにいよう、と思う。 
      彼は何をするでもなくただそこに佇んでいるだけなので、不思議と気にはならなかった。
 
 
  文庫本に集中して読み耽っていると、チャイムが聞こえてきた。突然の来訪者に驚きはしたが、いつもと同じくらいの頁数を読み進めることができて満足する。 
      立ち上がってふと見ると、彼が身じろぎもせずに、同じ場所に立っている。 
      (授業に出ないつもりか?) 
      自分が傍にいるのに、それを見逃すわけにはいかない。そう思って訊ねてみると、授業には出るという。 
      (そういえば…) 
      今朝、用があって職員室を訪れた時、竜崎に意気揚々と話す宮野という若い教師の言葉が耳に入ってきた。 
      「一年生は最初が肝心ですからね、そろそろ本気で行こうと思うんですよ。今日担当する五時間目のクラス、本鈴が鳴った時にいなかった奴らは全部遅刻にしてやります」 などと息巻いていた。 
      そう言えば、昨年からこの学校に赴任したあの教師に大石も一度遅刻にされかけたことがあると言っていた。大人げない教師だ、と思った。竜崎も苦笑していたのを覚えている。 
      目の前の彼の次の時間が数学かどうかは知らないが、あんな大人げないことをしようとする教師のせいで、大切なテニス部員が遅刻扱いにされるのは不愉快だった。 
      「……今年、一年を担当している数学の宮野という教師は本鈴がなった段階で席に着いていないと遅刻扱いにするぞ。注意した方がいい」 
      「ういーっス」 
      ちゃんと聞いているのかどうかはわからないが、とりあえず返事は帰ってきたので了承したと見なすことにする。 
      そうして、自分がこの屋上の鍵を持っていると知られるわけにはいかなかったので、先に出ることにした。彼が屋上を出たのを見届けてから、戻ってきて鍵を閉めればいいことだ。 
      階段を下りて、柱の陰にそっと身を潜ませて待っていると、彼が、転がるように階段を下り、こちらには全く気づかずに走り去っていった。 
      (ちゃんと聞いていたか) 
      どうやら次の授業は数学だったらしい。 
      彼の走り去った方をチラッと見てから、屋上へ続く階段を再び上り、ドアに鍵をかける。 
      きっと彼は明日は来ないだろう。 
      なぜなら、たぶん気の強い彼が、我慢をしてまで嫌っている人間と同じ時間を共有するとは考えにくいからだ。 
      別に、それでも構わない、と思う。 
      ただ。 
      あの、屋上に足を踏み入れた瞬間に自分と同じ反応をした彼は、もしかしたら自分のことを一番理解してくれる存在になるのではないかと瞬間的に思った。 
      誰かに説明できるような明確な根拠はない。だからそれは『確信』ではない。 
      それに、もうそれはすでに「無理な話」なのだ。 
      彼にとって、自分の第一印象は最悪だろうから。 
      「ぁ、手塚!」 
      「大石?」 
      教室に入るところをテニス部副部長でもある大石に呼び止められた。 
      「竜崎先生が、そろそろ校内ランキング戦のブロック分け、最終決定のヤツ出せって言ってたぞ」 
      「そうか。わかった」 
      ブロック分けはほぼ出来上がっている。 
      あと一人、あの竜崎に「面白い」と言わしめた彼を、慣例に逆らってまでエントリーするかどうか、もう少し考えたかった。まだ彼の実力のほどがわからないからだ。 
      「とりあえず、未完成でもいいから、今日の放課後練習の前に、一度三人で検討しようって」 
      「わかった」 
      そう言って頷いたところでちょうど本鈴が鳴ったので、大石に「じゃあな」と言って教室に入ることにする。 
      (越前、間に合っただろうか) 
      慌てて走っていった小さな背中を思い出す。屋上から一年の教室までは結構距離がある。微妙だな、と思う。 
      苗字からして、彼の出席番号はかなり早いはずだ。 
      (越前リョーマ、か………) 
      心の中でその名を呟いてみた。 
      彼は、今まで自分の周りにいた人間と、何かが違う気がする。 
      テニスプレーヤーとしても、一人の人間としても。 
      (あの瞳のせいだな) 
      最初に見た反抗的な瞳と、さっき屋上で一瞬見た無邪気に輝いていた瞳。そのギャップに、なぜか心がざわつく。 
      とりあえずは彼を観察してみようと思う。 
      そうして見極めるのは彼の実力と、自分が彼の瞳に関心を持つ理由。 
      (関心、か……) 
      その理由を知ってどうするのか、と自分に問うてみるが、どうしたいという明確な答えなんかなかった。 
      ただ、その理由を知ることが、ひどく魅力的なことに思えた。 
      まるで何かが、自分を誘惑しているように。
 
  だから、経験したことのない自分の胸のざわつきを、ほんの少し戸惑いながら見守ることにした。
 
 
 
 
 
 
 
  
      続
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      20041109
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