  唇
   
      
 
  病院でリョーマに診察を受けさせた後、竜崎は一軒の寿司屋の前で車を止めた。 
      リョーマだけを車から降ろした竜崎は「いいからそこ、ちょっと覗いてみろ」と言い残してさっさと車を発進させた。 
      置き去りにされたリョーマは言われた通りにその店の引き戸を半分ほど開け、すぐに閉めた。 
      (部長が居た???) 
      しかも、あまり会いたくない「制服姿の手塚」だ。 
      リョーマはもう癖になってしまったかのように回れ右をしてすぐに立ち去ろうとしたが、中から伸びてきた腕に捕まり、店内に引きずり込まれた。 
      寿司は大好きだが、今日は特に「制服の手塚」には会いたくなかった。 
      頬とこめかみと耳朶に、また手塚の感触が蘇りそうになり、リョーマは周りに気づかれないように小さく、ふるふると首を振る。 
      リョーマを待ちかねていたようにすぐに始まった大騒ぎの中、カウンターの手塚を見ないようにして不二の隣に滑り込む。 
      「お疲れ、越前」 
      不二がにこやかに自分の湯飲みをリョーマの湯飲みにこつんとぶつけた。 
      「あ、ども」 
      「早く食べないと、桃に全部食べられちゃうよ?」 
      「あっ」 
      向かいの桃城が口いっぱいに寿司を詰め込んでいる。 
      「桃先輩、ズルイっ」 
      リョーマも負けじと口に寿司を放り込み始めた。すると途端に、空腹だったのを身体が思い出したように食欲が湧いてきた。
 
 
 
 
  目一杯腹に寿司を詰め込むとなんだか眠気が襲ってきた。 
      試合の緊張で疲れたというわけではなかったが、一日でいろいろなことがあったせいだろうか、と霞のかかってゆく思考の中でボンヤリと思う。 
      「最後にこの特製ちらし寿司、食べないか?」 
      もう腹はいっぱいだと思っていたが、綺麗に飾り付けされたちらし寿司が目に入った途端、新たな食欲が湧いてくるから不思議だ。リョーマの母や同居している従姉の菜々子がよく言っている「デザートは別腹」というのがこんな感じなんだろうかと思い、リョーマは小さく笑った。 
      取り分けてもらった皿を河村から受け取る時、リョーマの視界の隅に、バッグを持って席を立つ手塚と大石の姿が映った。 
      大石がこちらに向かって何か言っていたが、ちらし寿司を褒め称える周りの声でかき消されて聞こえなかった。その大石の向こうで、河村の父でもある店主に礼を言っているらしい手塚の姿が目に入る。 
      (部長……もう帰るんだ……) 
      ボンヤリと手塚を見つめていると、ふと目が合った。 
      「!」 
      途端に、リョーマは持っている皿を落としそうなほどギクリとした。 
      手塚の真っ直ぐな瞳のナイフが、リョーマに突き刺さったような気がした。 
      凍り付いたように目を見開いたままでいるリョーマから、手塚はあっさりと視線を外して外に出て行く。 
      ピシャリと閉じられた戸を見つめて動けずにいると、リョーマの様子に気づいた河村がそっと声をかけてきた。 
      「ちらしはあんまり好きじゃない?」 
      「……え?いえ、好きっスよ」 
      心配そうに覗き込んでくる河村へ無理に笑顔を作って答え、リョーマはいただきますと言ってちらし寿司を口に運んだ。 
      だが、味がしなかった。 
      (やっぱり嫌われてた……) 
      あの強く自分を刺し貫くような瞳にはリョーマに対する甘い感情など一切なかった。まるで絶対に負けられない敵を見据えるような、冷静で容赦のない光しか見えなかったのだ。 
      リョーマはもそもそと口を動かしながら、更衣室の前での手塚とのやりとりを思い出していた。 
      (あったかい手だったな…) 
      頬と、こめかみを包んだ手塚の手は温かかった。だが耳朶を掠めた指先は、どうしてかひどく冷たかったような気がする。 
      自分の瞼の傷を覗き込む手塚の瞳には、ほんの少しだけ心配してくれているような色が伺えたのに。 
      そして、背を向けて発せられた言葉は暖かくて、何よりその声音はひどく優しくて。 
      (また勘違いしちゃったじゃんか……) 
      胸が痛い。うまく息ができない。 
      期待するなと、あれほど自分に言い聞かせていたのに。 
      やはり考えの甘い自分は、心のどこかで「嫌われていないのかもしれない」と期待してしまっていた。 
      その結果、受けた衝撃はこんなにも大きい。 
      「ごちそうさまでした」 
      なんとか自分に取り分けられた分を食べ終えて静かに箸を置いた。自分の横で、残りのちらし寿司を巡って賑やかな争奪戦を繰り広げている先輩たちを見るでもなく瞳に映しながら、リョーマは疲れたように壁に寄りかかった。 
      「もうお腹いっぱい?」 
      グッタリと壁に寄りかかるリョーマに、不二が微笑みながら話しかけてくる。 
      「……そっスね…もうなにもいらないっス……」 
      本当に、なんだかもう何もいらない、とリョーマは思った。 なぜだろう、何か、すごく欲しいものがあるのに、それは絶対に手に入ることがないと悟ったかのような虚脱感がある。 
      ひどく投げやりになっている自分に気づいたが、そんな自分を取り繕うのも面倒だった。 
      不二はクスッと笑ったようだった。 
      「疲れた?」 
      「………うん」 
      心が、ひどく疲れている。今はもう何も考えたくない。何も、思い出したくない。 
      「越前、…………でしょ?」 
      不二が何かを訊ねたようだった。うまく頭が回らなくて、何を訊かれたのかよくわからなかったが、自分の唇が、何か勝手に答えていた。 
      「つらいんだね」 
      やっぱりまたよくわからない質問だったが、今自分はとてもつらいと感じているので「うん」と答えた。 
      「少し寝ていなよ。帰る時に起こしてあげるから」 
      「………っス……」 
      目を閉じると、フッと心が軽くなった気がした。照明が眩しかったので、テーブルに突っ伏した。 
      「……も、きっと……だよ、越前」 
      耳元で何か囁かれたが、今度こそ不二が何を言ったのかわからなかった。 
      ただ、自分の唇だけが、その言葉を理解したようにそっと綺麗な弧を描いていた。
 
 
 
 
  ***
 
 
 
 
  それから数日が過ぎ、瞼の傷は痕を残さず綺麗に治った。 
      練習を終え、コートにトンボをかけていると手塚に呼ばれた。 
      心持ち緊張して人気のない校舎の裏まで手塚について行くと、リョーマを振り返った手塚は無表情のまま告げた。 
      「春野台の区営コート、知ってるか?」 
      ちょっと考えたが、ああ、と思い出した。 
      「高架下のところっスね。知ってますけど?」 
      いきなり何の話だろうと訝しげに手塚を見つめる。今は青学ジャージに身を包んだ手塚だから、なんとか真っ直ぐに見つめることができた。 
      「!、なんスか?」 
      いきなりボールを投げてよこされ、それを受け取ったリョーマは眉を寄せた。 
      「三日後の午後三時に待っている。一人で来い」 
      「!?」 
      「ボールは俺が用意する」 
      それだけを言うと、手塚はリョーマの返事も聴かずに背を向けた。 
      (オレと……試合するってこと………?) 
      リョーマは瞬きも忘れて、ただ目を見開いたまま、去ってゆく手塚の後ろ姿を見つめていた。
 
 
 
 
  ***
 
 
 
 
  第一印象は最悪だった。 
      でもそのテニスの実力は、たぶん、自分よりも上だと思う。 
      だから、戦ってみたいと思った。 
      同じコートに立って、ネットを挟んで向かい合いたかった。 
      だが今は、きっとそれだけではない想いが、自分の中に生まれてきている。 
      その想いの正体を確かめたい。
 
  リョーマは、手塚から渡されたボールを持つ手に、ギュッと力を込めた。
 
 
 
 
 
 
 
  
      続
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      20041107
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