  耳たぶ
   
      
 
  青春学園男子テニス部は順調に地区予選を勝ち抜き、決勝まで漕ぎ着けた。 
      相手は、強豪と言われていた柿ノ木中を下した、通称・黒い軍団『不動峰』中。相手にとって不足はない。 
      リョーマもシングル2にエントリーされている。 
      慣れないダブルスで戦ったり補欠で戦えなかったりと、幾分いつもよりストレスも溜まっているのかもしれない。ウズウズと、身体中が早く試合をしたいと訴えていた。
 
 
 
 
  リョーマが屋上へ行かなくなっても、表面上は何も変わったことは起こらなかった。 
      手塚の態度が変わることはもちろんなく、リョーマ自身もあの屋上での安らかな時間を忘れてしまったかのように、ただ地区予選に向けて日々を過ごした。 
      初めのうちは昼休みになるとリョーマの脚が勝手に屋上へ向かおうとしたが、机にしがみつくように突っ伏して目を閉じれば、なんとか時間をやり過ごすことができた。 
      地区予選間際になってからは、昼休みには桃城を誘ってコートに立つようになった。 
      集中してボールだけを追えば、何も考えないでいられた。 
      だが、ふとした瞬間に、心があの空間を求めてしまう。 
      例えば空が抜けるように青かった時。 
      例えば雲が白く輝いている時。 
      例えば優しい風がそっと頬を撫でた時。 
      そして、部活以外で手塚を見つけてしまった時……… 
      一番質が悪いのが最後の、そう、手塚を部活以外で見かけてしまった時だ。 
      部活での手塚は、それこそ今までも会話なんか皆無に等しかったから気にはならない。でも、制服にきっちりと身を包み、クラスメイトと何か話しながら歩く手塚の姿を偶然見つけてしまえばすぐに屋上での「素」の手塚を思い出してしまい、その隣にいる人にはたまに笑顔を見せたりするのだろうかとか、そんなことまでも考えてしまう。 
      だからリョーマは、校内で制服姿の手塚を見つけると、すぐにその姿を視界から排除するように身を翻した。 
      時折、一瞬目があったような気がしても、無礼を承知で道を変えたりUターンしたりした。徹底的に避けたのだ。 
      そんなことをしても手塚は何も言わない。いや、リョーマが手塚を避けているなどと、きっと気づきもしていない。むしろ、もしかしたら、目障りな存在が自分の視界から消えて、清々しているかもしれない。 
      そう思うと、リョーマの胸に決まって小さな痛みが走る。 
      そんなときリョーマは急いで教室に戻り、その窓から四角い空を眺めた。少しでも胸の痛みが無くなればいいと期待して。 
      結果は期待通りにはならなかったけれど。 
      そんなふうに取り残されているのは自分の心ばかりで、自分を取り巻くすべては、何事もなかったかのようにあっさりと流れてゆく。 
      あの場所にも、確かに時間が流れていた。 
      静かに、ただ静かに流れてゆく時間が。 
      何に遠慮することもなく、何に邪魔されるわけでもなく、自分を害する物など一切無く、心にも身体にも気持ちのいい、静かな時間だった。 
      できるならもう一度、あの空間でのんびりと空を眺めたかったが、もうそれは叶わない。 
      叶わないことなら、もう、追い求めるのをやめなければ、とも思う。…思ってはいるが、思うようにいかないのだ。 
      リョーマは先輩たちの試合を見つめながら小さく溜息をついた。 
      (コートに立ってないと、ダメだね…) 
      ラケットを持ってボールを追っていないと余計なことばかり考えてしまう。 
      こんな風に、ひとつのことにいつまでも心囚われるなんて、リョーマは初めてのことだった。だから、自分でもどう対処していいのかわからない。 
      時間が経てば、また元の通りに飄々と日々を過ごせるようになるのだろうか。 
      (あの場所を忘れて……?) 
      途端に胸がひどく痛んだ。 
      なぜそんなに痛いのか、リョーマにはどうしてもわからない。 
      リョーマはそっと、ほんの少しだけ、視線を手塚に向けた。 
      じっと試合を見守る手塚の瞳には、コートで戦う者だけが映ることができる。 
      (そうだ…コートに立てば…!) 
      もしかしたら手塚の視線を独り占めできるのではないか。そう気づいて、リョーマの瞳に光が灯った。 
      手塚の瞳に自分の姿が映し出される。そう考えただけで、リョーマの心の痛みが微かに和らいだ気がした。 
      (早くコートに立ちたい…早く……っ!) 
      逸る心を隠しもせずに試合を見つめるリョーマの視線の先で、ようやっと、泥だらけの海堂が小さくガッツポーズを決めた。
 
  いよいよリョーマの出番が来た。青学に入って、三試合目にしてやっと手にした「シングルスデビュー戦」。 
      コートに入る前に、リョーマは手塚を真正面から見た。手塚もリョーマを真っ直ぐ見つめ返し、深く頷いた。 
      それだけで、リョーマの胸はいっぱいになった。
 
  対戦相手の不動峰中二年・伊武深司は厄介な強敵だった。 
      追い込んでいると思っているのに、先程から時折腕が痺れるような感覚がある。左手に一瞬力が入らず、ラケットを落としそうになる。 
      (なんだ…?) 
      手を握ったり開いたりしてみるが、別段、痺れなどはない。伊武との打ち合いが始まると、一瞬痺れるのだ。 
      (力が入らない……だったら) 
      リョーマはボロラケットで荒井を打ち負かした時のように身体を回転させてボールめがけてラケットを振り抜いた。 
      「危ない!!」 
      誰かが叫んだ。 
      リョーマの手からすっぽ抜けたラケットがポールにぶつかって砕け、その柄の部分が自分の方へ飛んで来るのがスローモーションのように見えた。次の瞬間、その自分の視界が赤く染まった。 
      「…っ」 
      瞼が焼けるように熱くなる。左頬を、何か生暖かいものが伝い落ちるのがわかった。 
      (あ…血……?) 
      左目の瞼が痺れて開けられない。切ったか、とリョーマは誰か他人事のようにそう思った。 
      試合が中断し、コート脇まで飛び出してきた誰かがリョーマをベンチに引きずってゆく。 
      「ダメだ、血が止まらない」 
      傷口を見ながら大石が深刻そうに言う。 
      (べつに、こんなの大したことないのに…) 
      先輩たちの顔色が自分の傷を見てみるみる変わってゆく。出血がひどいのだ。 
      平然としていたのは本人と、桃城と、そして少し離れたところから静かに自分を見つめる手塚。 
      (………まだ終わりたくない) 
      コートにいれば、手塚が真っ直ぐな瞳で「越前リョーマ」を見つめていてくれる。 
      だがここで試合を棄権してしまえば、彼の視界から自分は外され、さらには「期待はずれ」とさえ思われてしまうかもしれない。 
      そんなのはいやだった。だって、まだ自分は動ける。戦える。手塚に、ちゃんと最後まで見届けて欲しい。 
      だから絶対、試合を続けなければならない。 
      頑なに試合を続けようとするリョーマをほとんどの者が制止する中、顧問の竜崎は笑いながらリョーマを呼び寄せ、血止めを施してくれた。 
      (さすが、親父が気に入ってるだけのことはあるオバサンだな…) 
      慣れているのか、竜崎の強引な血止め処置のおかげでとりあえず噴き出す血は堰き止められた。 
      残る障害は大石副部長だった。桃城がリョーマにラケットを渡そうとするのを、顔を強ばらせて阻止してくる。 
      大石を強引に押しのけてコートに向かいたかったが、本当に心配してくれているのがわかる分、どうにかして説得できたらと思う。 
      (あんまりのんびりしているとまた血が……) 
      だが、桃城からラケットを奪い取って大石を押しのけたのは意外な人物だった。 
      「手塚…」 
      大石が訝しげに声をかける。 
      (部長?) 
      「10分だ」 
      耳を疑った。あの堅物そうな部長が、無謀とも言える試合を許してくれる、と。 
      「10分で決着がつかなかったら棄権させるぞ」 
      手塚の真っ直ぐな瞳に、全身を貫かれた気がした。 
      「いいな?」 
      しっかりと視線を合わせたまま、手塚が近づき、ラケットを手渡してくれる。 
      リョーマはあまりの嬉しさに、知らず小さく微笑んでいた。 
      「充分!」 
      手塚が見ていてくれる。 
      心配そうな顔すらしないのは、もしかしたらそれだけ自分は信用されているのかもしれない。 
      そう思うと、リョーマの胸に熱い何かがこみ上げてくる。 
      (ちゃんと見ていて。アンタに失望はさせないから…!) 
      リョーマは約束通り、10分以内に勝利を手にした。
 
 
 
 
  閉会式を終え、更衣室に行く途中、スッと手塚が目の前に立った。 
      「部長…?」 
      手塚はじっとリョーマを見つめると、おもむろに両手でリョーマの頭を挟み込むようにして上向かせた。おまけに顔をズイッと近づけられ、リョーマは慌てた。 
      「な……っ?」 
      「やはりまた血が滲んできたな……俺たちのことは気にせず、先に着替えて竜崎先生に病院へ連れて行ってもらえ」 
      そういうと手塚は顔を離した。 
      「あ……はい…」 
      (ケガを覗き込んだのか……ビックリした…) 
      だが、用件は済んだはずなのに、手塚がまだ手を離してくれない。じっとリョーマを見つめたまま、何か言いたげに眉を寄せた。 
      「部長……あの……?」 
      手塚は一瞬微かに目を見開いたが、ふっと瞳に影を落とし、リョーマのこめかみに血で張り付いた前髪をそっと払った。 
      優しい指先の感触に、リョーマの心臓が跳ね上がる。 
      右目を大きく見開き、硬直してしまったリョーマからさっと手を離して手塚は背を向けた。 
      「……様子を見て、傷が痛むようなら明日は部活を休め」 
      背中越しに言われた言葉に、リョーマの心が震えた。その内容よりも、その声の柔らかさに。 
      (屋上で起こしてくれた時と同じ声だ…) 
      リョーマはやっとの事で「はい」と小さく返事をしてから更衣室に飛び込んだ。 
      ドクドクと鼓動がうるさい。頬が火照ってきて、そのせいか瞼がジンジンと痛み出した。 
      手塚に触れられたところに、まだその感触が残っている。頬と、こめかみと、そして指先がほんの少し掠めた耳朶。 
      その耳の奥には、あの優しい声が何度も何度も蘇ってリョーマの心を締め付けた。 
      (嫌われて、ないのかな…) 
      嫌っている人間に、あれほど柔らかな声をかけるだろうか。 
      そういえば、試合の合間に手塚に難癖をつけているような他校生を見かけたが、その時の手塚は無表情にどこか凄みが付け足され、追い払うようなその声は遠くで聴いていても身が竦みそうなほど迫力があった。 
      あんな声、初めて聴いた。 
      あとで不二にそれとなく「さっきの誰っスか?」と訊ねたら「手塚の大嫌いなヤツ」と笑いながら答えてくれた。そして付け足すように「手塚って案外好き嫌い激しくて、態度に出るから面白いよ」とさらに笑みを深くしていた。 
      でも、と、希望の光に緩みそうになる心を、リョーマは引き締める。 
      自分は他校生ではなく、青学の部員だから邪険にしないのは当たり前だ、と。 
      責任感の強い手塚なら尚更、自分の個人的な好き嫌いで身内を邪険に扱うようなことは絶対にしないはずだ。 
      (部員だから………それだけだ…) 
      リョーマは自分に言い聞かせるように、「期待しちゃダメだ」と、繰り返し繰り返し心の中で呟いた。
 
 
 
 
 
 
 
  
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      20041105
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