我儘




雨が降ればいいと思った。
そうすれば、部活も休みになるだろうし、そんな天気の時に屋上になんて行かない。
(部長に会わなくてすむし…)
だから、雨が降ればいいと思った。




***



「ひと雨来るかな……」
放課後、ウォーミングアップが一段落する頃、不二が空を見上げて呟いた。
「う〜ん、ビミョ〜だにゃ〜」
菊丸も同じように空を見上げて首を傾げる。
大石や乾までもが二人につられるように空を振り仰いだ。
「今日の降水確率は20%。確かに微妙だな」
乾がノートを捲りながら言った。そのノートには降水確率までメモしてあるのか?と突っ込みたくなったリョーマだが、小さな溜息でそれをやり過ごして、みんなに倣って空を見上げた。
薄暗い雲が空を覆っている。いつも自分が屋上で見ている雲とは全然違う色をしていた。
違うのは色だけでなく、浮いている高度があの白い雲たちよりも低いのか、まるで自分にのしかかってくるように見えて、リョーマは微かに眉を寄せた。
(今日の昼も、真っ白い雲だったのかな……)
ドンヨリとした空を見上げながら、リョーマは眩しいほど白く光る雲を思い浮かべた。
(昼は天気良かったし……)
また胸にモヤモヤが広がり始めた。今日は「モヤモヤの解消」をしていないせいで、余計にモヤモヤが濃い気がする。
確かに雨が降ればいいと、リョーマは午後になってずっと考えていた。
それは昼休みに自分が手塚に対して「妙な行動」をとってしまったためで、何となく気恥ずかしくて、雨で部活が中止になればいいと思ったのだ。
だがこうしてコートに立ってみると、雨なんか降って欲しくないと思い始めている。
(雨が降ったら部活が中止になっちゃうじゃんか…)
手塚は相変わらずまだ姿を現していない。だから、今雨が降ってきて部活が中止にでもなったら、手塚には会えずに帰ることになってしまう。
(あれ?…オレ、今、何を……)
雨が降って欲しくない理由は部活ができなくなるから、ではなく、部活がなくなると手塚に会えないから?
(……違う、会いたくないんだった)
リョーマは混乱した。
会いたくないから雨が降って部活が中止になればいいと思っていた。でも、部活が中止になると手塚に会えなくなるから、雨は降って欲しくない。
完璧に矛盾している。
だいたい「手塚に会えなくなるから嫌だ」とはなんだ?
(そんなこと思ってない)
リョーマは帽子を押し上げて、額をポリポリと掻いた。
(ああ、そうか、今日は「解消」してないから…)
だから、「解消」の条件のひとつでもある手塚にもう一度会えれば、少しは「解消」できるような気がしているだけだ。
(なんだ、そうか。ビックリした)
ホッとして小さく息を吐いていると、コートの入り口の方で「ちーっス」という声が聞こえ始めた。
手塚が小さく頷きながらコートに入ってくる。今日はいつもより早い「お出まし」だった。
「早いね、手塚」
リョーマが思っていたことを、不二が口にする。
「そうか?」
「手塚、雨が降りそうだけど、どうする?」
大石が空を見てから手塚に視線を向けると、手塚もチラリと空を見てから「やれるだけやろう」と言った。
地区予選はこの週末から始まる。一日練習を休めばそれを取り返すのに三日かかると、よくリョーマの父・南次郎も言っていた。だから、少しでもコートに立つことは必要なのだ。
「一年は素振りと球拾い、二・三年はCコートでいつものメニューを、レギュラーはAコートに集合」
「ういーっス!」
バラバラだった部内の雰囲気が統率された風景に変わる。いつも通りの部活が始まった。
リョーマはあれこれと考えて混乱していた自分がバカらしくなった。
手塚の態度もいつもと変わりない。昼休みにリョーマがとった妙な行動も、全く気になんかかけていないのだろう。
(そうだよね…オレとは何も関係ないんだから…)
屋上での手塚にとって、リョーマはやはり異分子なのだろう。だから、リョーマをあれほど強い瞳で睨むのだ。邪魔をしておいて自分だけくつろぐ姿に、やはり、きっと、あまり良い感情は持っていないに違いない。
リョーマの胸のモヤモヤが一気に濃度を増した、と思った次の瞬間、それは胸の奥を締め付ける小さな痛みに変わった。
(なんだろ……)
先輩たちの後に続いてAコートに向かいながら、リョーマはそっと胸に手を置いた。




***



翌日の昼休み。
リョーマの脚は、本人の意志にかかわらず屋上へと向かっていた。
手塚と会ったらどんな顔をすればいいのだろう。
またいつものように寝たフリをすることができるだろうか。
(べつに…できるさ……いつもみたいに……)
そう思うことにして、だから、いつものように重いドアに手をかけてノブを回し、だがすぐにその異変に気づいた。
(開かない……?)
リョーマはノブを掴んだまま、愕然としてその場に立ちすくんだ。ドアには鍵がかかっていた。
昨日手塚がこのドアの鍵を閉めていたから、何となくここの鍵の開け閉めは手塚がしていたのだろうとは思ったが、だとしたら今日は、手塚がここに来る意志がなかったということだ。
つまり、それは。
「ああ、そっか…」
やはり自分は嫌われたのだ。昨日、変なことをしてしまったから。
だから手塚がいよいよ我慢できずに拒絶し始めたのだろう。
(余計なこと、しなきゃよかった……)
胸が、ひどく痛んだ。
リョーマはノブを離してだらりと腕を垂らすと、ゆっくり階段を下り始めた。
踊り場で立ち止まり、昨日ここで会った手塚の表情を思い出そうとしてみる。しかし、記憶の中の手塚は、やはり無表情だった。
リョーマは眉を寄せてまた階段を下り始めた。
つまらないことをした、と思う。
もしかしたら、手塚が喜ぶかもしれないと思った。
そして、自分が屋上に来なかった理由を、一枚の紙切れを証明書代わりにして言い訳したいと思った。
結果、最悪な幕切れをしてしまった。
(気持ちいい場所……だったな……)
青い空が気持ちよかった。
白い雲が眩しかった。
頬を撫でる優しい風に自分も優しくなれるような気がした。
そして、それらの風景に溶け込むように居た存在が不思議な安らぎを与えてくれていた。
誰に邪魔されることのない、空と、雲と、風と、そして手塚がいてくれた空間が、本当に大好きだった。
でもそれは自分だけの想いだった。
自分だけが好きだった。
なのに、自分を起こしてくれる時の手塚の柔らかな声に、勘違いをした。
彼も、あの空間を気に入ってくれているかもしれないと。
だがそれは現実ではなく、ただの虚構。そうあって欲しいと願う、自分の我儘な思い込みだった。
階段の途中で、リョーマは屋上のドアのある方に目を向けた。
固く閉ざされたドア。
あれは、手塚と自分との間にあるドアなのかもしれないと思った。
きっともう二度と、自分に開け放されることはないのだろう。
そう思うと、寂しくて、悲しくて、苦しくなった。
もう胸にモヤモヤは涌いては来ない。
代わりに、締め付けられるような苦しさと、掴み上げられるような痛みだけがあった。






その日以来、リョーマは屋上へ行かなくなった。










                            



20041103