  首筋
   
      
 
  レギュラーとしての練習に参加するようになって、リョーマは始めて『団体としての練習』が案外面白いことに気づいた。 
      今までは父である南次郎と一対一の練習が多かったから、余計に新鮮だったのかもしれない。 
      他人のペースでランニングをし、軽く談笑しながら柔軟体操やらストレッチやらをして身体を解す。コートに立てば、次々に課されるメニューに、知らず瞳を輝かせ、時には思いも寄らないペナルティに苦しみながらも着実にレベルアップしていく。 
      「まあまあだね」 
      などと呟いてみるが、部活の時間になれば弾むような足取りで部室に向かう自分の行動は、明らかに「楽しい」と語っているようなものだ。 
      ちょっかいを出されて煩わしいと思っていたレギュラーの先輩たちも、実際にいろいろと話してみれば、それぞれ個性的な言動がいちいち面白い。特に二年の桃城とは妙にウマがあって、帰りには一緒にファストフード店に寄り道までするようになった。 
      「お前、昼飯どこで食ってる?」 
      今日も部活を終えた帰り道に桃城と駅前のファストフード店で応急処置的に空腹を満たしていた。 
      「学食が多いっスね。後は購買部でパン買ったり。ウチの母さん、メチャクチャ忙しいヒトなんで、弁当は滅多に持ってこないっス」 
      「へえ。それにしちゃ、あんま会わねえよな」 
      「………そっスね」 
      桃城と学食で会わないのはリョーマが食事を終えてすぐに屋上へ走るせいだ。そうわかってはいるが、桃城にそのことを告げるつもりはなかった。 
      手塚の存在感に気づいてからも、リョーマは戸惑いを抱えつつ、相変わらず屋上に通っている。 
      少し変わったことと言えば、リョーマは毎日「寝たフリ」をするようになったことだ。寝たフリをして、そっと手塚を盗み見るのが日課になってしまった。 
      不思議なことに、手塚の方も、リョーマが寝たフリを始めると、必ず文庫本を閉じてリョーマをじっと見つめてくる。そうしてなぜか溜息をついて終いにはリョーマに背を向けてしまうのだ。 
      (すごーく文句言いたいのを我慢しているような顔してるし……) 
      日に日に、リョーマを見つめる手塚の眉間のシワがきつくなってきている。本当はすごく嫌われているのではないか、とも思うのだが、予鈴が鳴ってリョーマを起こしてくれる時の声音が存外優しくて、その滅多に聴けない手塚の柔らかな声を聴きたくてまた次の日も寝たフリを続けてしまうのだ。 
      なぜ自分が屋上へ行くのか、なぜ手塚の優しい声を聴きたいのか、その本当の意味はまだリョーマ自身にもよくわからない。 
      ただ、あの空間でなければリョーマの胸のモヤモヤが消えてくれないのだ。だから、あの場所へ行く。 
      あれこれ考えるのは苦手だったから、シンプルに、「モヤモヤをすっきりさせに行く」のだと決めた。そう決めた途端に、今まで以上に、あの場所へ行くのが楽しみになった。 
      青い空と、白い雲と、爽やかな風と、そしてテニス部員はきっと知らない「素」の手塚。 
      あの空間を思い出すだけで、なぜか微笑みたい気分になってくる。 
      「……なんか楽しそうだな、越前」 
      「そっスか?…ああ、ポテトが揚げたてだからっスよ」 
      言いながら、まだ熱いポテトを二、三本まとめて口に放り込む。程良い塩加減と、ジャガイモ自体の持つさりげない甘みが口いっぱいに広がって、リョーマは満足そうに微笑んだ。 
      桃城がクスクスと笑う。 
      その桃城の笑顔を見てリョーマはふと思った。 
      (あの人の笑顔って……見てみたいよな……) 
      どんなだろう、と想像しようとしたが、全くイメージが浮かんでこなかった。 
      あんなに優しい声でリョーマを起こすくせに、微笑みかけられたことなんて一度もない。どうしてだろう、と考えようとして、やめた。それは出会って間もない頃に、もう結論が出ていたからだ。 
      (オレの前では、きっと、あの人は笑わない) 
      ふいに、心が沈んだ。 
      前にこの結論を出した時はどうでもよかったことが、今は、なぜか寂しいと感じる。 
      (全部「偶然」なんだし) 
      たまたまあの場所に偶然入り込んだのが自分であっただけで、きっと手塚はそれが他の誰かであっても予鈴が鳴ればあの優しい声で起こしてやるのだろう。 
      (面倒見、良さそうだしね) 
      部長やら生徒会長やらをきっちりこなすことから見ても、その責任感は人一倍ありそうだし、とも思う。 
      「越前?聴いてるか?」 
      「え?ああ、聞いてるっスよ」 
      自分の思考に囚われていて、桃城の話など本当は何も聞いていなかったが、とりあえず、面倒くさいので適当に答えておいた。 
      「よし、じゃあ明日の昼休み、コートで待っているからな」 
      「えっ!?」 
      「あ?…なんだよ、やっぱ聴いてねえのか?」 
      「昼休みは…ちょっと……その、図書委員とか、あるし」 
      思いついた言い訳を口にしてみる。図書委員なのは本当だから、完全な嘘を言ったことにはならない。 
      「ああ、そっか、お前そんなのやっていたっけ」 
      納得してくれたようで、リョーマはホッとする。 
      いくら気の合う桃城といえども、あの大好きな時間を邪魔されてはかなわない。 
      リョーマは桃城に気づかれないように、そっと安堵の溜息を吐いた。
 
 
 
  ***
 
 
 
  言霊という物がこの世にあることを、リョーマは知らなかった。 
      口に出して言った言葉には力があり、それが実現すると言われている。 
      「次、これお願いね、越前くん」 
      「ういーっス」 
      昼休みにリョーマは図書室に来ていた。 
      昨日桃城に言ったことが現実になってしまったのだ。 
      昼食を終えて屋上へいそいそと向かうリョーマを呼び止める声があった。三年の図書委員の先輩である。ヤバイ、と思った次の瞬間には、リョーマは図書室(正確には図書室の横にある司書室だが)に強引に連れて行かれ、新しく学校が購入した本の分類ラベル貼りを手伝わされることになってしまった。 
      (部長…今日も居るよな……) 
      目の前に積み上げられた本の山を見つめて、リョーマは盛大に溜息を吐いた。
 
 
  「ありがとう、助かったわ」 
      女性の司書教諭が普段あまり見せない笑顔を浮かべてリョーマと、それからリョーマのように巻き込まれた数人の図書委員を見渡して礼を言った。 
      予鈴はまだ鳴っていない。巻き込まれた人数の多さが、大量の本の山に勝利した結果だった。 
      リョーマは今からでも屋上に行こうかと考えながらみんなと一緒にドアに向かいかけ、ふと思い立って司書教諭を振り返った。 
      「先生、新しく入った本のリストって、あるんスか?」 
      「え?ええ、あるわよ」 
      「コピーしてもらえます?」 
      きょとんと見つめ返されて、リョーマは居心地悪そうにしながらポケットに両手を突っ込んだ。 
      「……時間、ないんスけど」 
      「…ちょっと待っててね」 
      司書教諭はハッとしたように慌てて一枚のリストをコピーし、リョーマに手渡した。 
      「これでいい?」 
      「ありがとうゴザイマス」 
      リョーマはペコッと頭を下げると脱兎のごとく司書室から飛び出した。
 
 
  もうすぐ屋上に着くと言うところで予鈴が鳴り始めた。 
      (間に合わないか…) 
      屋上へ続く階段を上り、踊り場に辿り着いたところでドアを閉める手塚の背中が目に入った。 
      「ぶちょ…」 
      声をかけようとして、手塚がとった次の動作に目を見開いた。 
      ガチャン。 
      手塚が屋上へ出入りするドアに、鍵をかけたのだ。 
      (え……なんで?開けっ放しじゃ、なかった…?) 
      振り返って階段を下りかけ、そこに呆然と立ちすくむリョーマに気づいた手塚が、ひどく驚いたように目を見開いた。だがそれは一瞬のことで、すぐにいつもの無表情に戻る。 
      「…どうした?予鈴はもう鳴ったぞ」 
      「……ぁ、の、これ…」 
      リョーマは握り締めていたA4判の紙を手塚に差し出した。 
      「?」 
      軽く眉を寄せながら踊り場まで降りてきた手塚がそれを受け取る。 
      「これは?」 
      「ぁ、……えっと、明日辺りから図書室の書架に並ぶ新刊のリストっス。部長、本好きそうだから、興味あるかなと思って」 
      「……わざわざこれを?」 
      リストに目を通していた手塚が、不思議そうにリョーマを見た。その視線が妙にこそばゆくて、リョーマは前髪を掻き上げながら、逃げるように目を逸らす。 
      「…新刊は人気があってすぐに借りて行かれちゃうらしいんスよ。気に入ったヤツがあったら、すぐに借りに行った方がいいっスよ」 
      リョーマは早口でそう言うと「失礼します」と言い捨ててその場から走り出した。 
      目を逸らしたままだったので手塚の表情は見ていない。呆れていただろうか。見当違いの、全く必要のない物だったろうか。 
      だいたい、図書室の新刊は別コーナーが設けられて、しばらくは新刊だけを物色することだってできるのだ。本が好きで図書室によく行く生徒なら、そんなことは分かり切っているはずだった。 
      だから、手塚には、リストなんて不要だったかもしれない。 
      (何やってんだろ……オレ……) 
      なんだか自分がひどく滑稽に思えてきた。 
      いつから鳴りだしていたのか、心臓がまたもや耳元でドキドキとうるさく音を立てている。 
      リョーマが教室に辿り着くと、間をあけずして本鈴が鳴り始めた。 
      どっかりと自分の席に腰を下ろすリョーマに気づいた堀尾が、繋がりそうな眉をさらに引き寄せてリョーマを覗き込んだ。 
      「どうしたんだよ越前、熱でもあんのか?」 
      「……は?」 
      軽く息を弾ませながら面倒くさそうに、それでも一応返事を返してきたリョーマを見下ろして、堀尾が怪訝そうな目をする。 
      「耳まで……ってか、首まで真っ赤だぜ?」 
      「………」 
      そう言われてリョーマは自分の首に手を当てた。ほんのりと汗ばんだ首筋はひどく熱く、ドクドクと脈打っている。それとは対照的に、触れた手の平はひんやりと冷たかった。 
      「…ちょっと、走ったから……」 
      「あーなるほど!昼練?お前もレギュラー様だもんな。大変だなぁ。ぁ、先生が来たっ」 
      リョーマの言葉を具合よく曲解しつつ慌てて自分の席に戻る堀尾をチラッと見送ってから、リョーマは眉をきつく寄せて深く息を吐いた。 
      「起立ーっ!」 
      日直の号令に従って立ち上がりながら、リョーマはもう一度首筋に手を当てた。いつからこんなに熱かったのだろう。堀尾に言われるまで気づかなかった。 
      「礼!」 
      「着席!」 
      おざなりに頭を下げてさっさと席に座り込む。 
      (見られたかな…) 
      屋上へ続く階段の踊り場は少し暗いから大丈夫かもしれないと思いつつも、こんな風に首まで真っ赤に染めた自分を見たら、手塚はどう思うだろうかと不安になる。 
      普段、三年の先輩にさえ臆することなく対峙できる自分が、あんなやりとりだけで頬どころか耳を通り越して首まで赤く染めるだなんて、ただごとではないと思われても仕方がない。 
      ただでさえ、今さっきの行動はきっと不審がられているに違いないのに、だ。 
      (しばらく会いたくないな…) 
      とは言っても部活では必然的に会ってしまうし、昼休みになれば条件反射のように足が自分を屋上へと連れて行ってしまうだろう。 
      「……なにやってんだか……」 
      今度は口に出して小さく呟いてみる。 
      国語の分厚い教科書を広げながら、リョーマは、もう一度溜息を吐いた。
 
 
 
 
 
 
 
  
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      20041101
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