  独占欲
   
      
 
  青学男子テニス部・校内ランキング戦に『越前リョーマ』がエントリーされていることに誰もが驚いた。 
      「まだ一年なのにか?」 
      「特例なんだろうな」 
      「この間の荒井とのあれ、すごかったしな」 
      部室のホワイトボードに貼り出された明日からの校内ランキング戦のブロック分けの表を見ながら、先輩たちが口々に語るのをリョーマは聴くでもなく耳に入れていた。 
      Dブロックの一番最後にあった自分の名前。きっと最後まで『越前リョーマ』をエントリーさせるかどうか、迷ったのだろう。 
      (チャンスだ) 
      リョーマの瞳が、獲物を見つけた野生動物のように一瞬煌めく。 
      周りが何を言おうが、リョーマをエントリーした本人がどんなに悩もうが、そんなことは関係なかった。チャンスが目の前にあるなら、何が何でもそれを掴み、自分のものにするだけだ。 
      (あの人のコートの正面の位置を、絶対ゲットしてやる!) 
      そこまで考えてから、リョーマは「ん?」と首を捻った。 
      また「何か」が引っかかる。この前の「何か」とは違う「何か」が。 
      最近の自分は、どこかおかしい。 
      どこにいても、何をしていても、「何か」がモヤモヤと胸に渦巻いてすっきりしない。それは例えばテニスコートに立っていても変わらなくて、ずっと胸の奥の方がむず痒いような小さな苛立ちがある。 
      (ストレス、かな……) 
      元来リョーマはストレスを溜め込まない方である。 
      物事にあまり執着しない、とも言うが、多少苛つくことがあっても、すぐにどうでもよくなってしまうのだ。それにラケットを持ってコートに立てば、それだけで気分は高揚し、思うままに汗を流してからコートを出れば、もう気分はすっきりとしていた。 
      なのに、最近は違う。 
      家に帰って父・南次郎とコートで散々汗を流しても、その場ではすっきりするもののすぐにまたモヤモヤが復活してくるのだ。 
      大好きな入浴剤入りの風呂に入っていても、愛猫・カルピンと遊んでいても、好物の焼き魚が食卓に並んだのを見ても、すっきりしない。そして、そのすっきりしない状況に、今度はイライラが募ってくる。 
      (なんなんだよ……) 
      リョーマは大きく溜息を吐いてみる。もちろんそんなことでモヤモヤが消えてくれないのは承知してはいるが。 
      だんだんと混雑してきた部室から出るために、リョーマは帽子を被りラケットを手にとった。そうして、もう一度溜息を小さく吐き出してから部室のドアを開ける。 
      ランニングと、素振りと、球拾いだけの部活は今日までだと自分に言い聞かせながら。
 
 
  ***
 
 
  翌日。 
      相変わらず屋上では全く会話のない、空間の共有だけの時間が過ぎてゆく。 
      リョーマが見上げる空は今日も眩しく澄んでいて、昨日よりもゆっくりと流れる雲を見つめれば心の中が穏やかになってくる。 
      心地よい時間だ、とリョーマは思う。 
      ここにいる時だけは、心のモヤモヤが鳴りを潜めてくれるのだ。それはきっと、リョーマの視界を占める澄んだ青色のおかげだと思う。 
      それに、部活での「初心者扱い」がきっと変わってゆくだろうことを思えば、少しだけ気分も浮かれ気味になる。 
      自分の真の実力の前に目を見開く先輩たちの姿を思い、自然とリョーマの顔に人の悪そうな微笑みも浮かんだ。 
      だがリョーマは、空間を共有している人間にチラリと視線を向けると、内心溜息を漏らす。 
      同じブロックに、彼の名前がなかったからだ。 
      (せっかく泣かせてやろうと思ったのに……) 
      そう考えてから、リョーマは小さく苦笑した。 
      (違う。本当は泣かせたいんじゃない) 
      ただ彼の正面に立ちたいのだ。 
      正面に立って、あの完璧なフォームから打ち出されるショットを受けてみたかった。 
      校内で行われるとはいえ、部員数を鑑みればレギュラーの座を懸けた熾烈な戦いになることは必至だ。いくら部長といえども、手を抜いて戦うことはしないだろう。 
      だからこそ、彼とは同じブロックで戦いたかった。 
      例えば、練習中に試合形式でコートに入ったとしても、きっと緊迫感が違う。敗北することによって何かを失うような真剣な戦いでなければ得られないものもある。 
      (今更どうしようもないんだけどね…) 
      リョーマは軽く溜息を吐いた。 
      とにかく、今日から始まる校内戦で、レギュラーの座を勝ち取るのが、まず第一歩だ。そうしなければ、また素振りとランニングと、球拾いの日々に戻ってしまう。 
      (そうなったら、また……) 
      また始めからやり直しなのだ。いや、また同じようにチャンスを与えられるかさえわからない。 
      (絶対負けない。全試合に勝ってやる!) 
      リョーマは瞳に力を込めて空を睨んだ。 
      その時、ギギギッとドアの開く重い音が聞こえてきた。 
      静かな空間が一気に崩される。 
      (え?) 
      気のせいだろうか、リョーマの耳には今、手塚が小さく舌打ちしたように聞こえた。 
      「あ、いたいた、やっぱりここに居たんだね、手塚」 
      手塚は黙って文庫本を閉じると、ゆっくり立ち上がった。ドアから入ってきたのは不二だった。 
      「大石が探しているよ。……あれ、越前?」 
      「………ちーっス」 
      目が合ってしまったので、リョーマは身体を起こして不二に挨拶する。 
      「意外な取り合わせだね。いつからそんなに仲イイの?」 
      「…偶然居合わせただけだ。関係ない。…大石は下にいるのか?」 
      「ん?たぶん、廊下をうろうろしていたからその辺に……」 
      手塚がグイグイと不二の背中を押してドアに歩いてゆく。その勢いのまま不二をドアから追い出した後、一瞬だけリョーマを見てから手塚も出ていった。 
      残されたリョーマは、再び訪れた静寂の中で、微かに眉を寄せながらまた仰向けに寝転んだ。 
      柔らかな風が、そっとリョーマの頬を撫でる。 
      (気持ちいい……) 
      リョーマはゆっくりと目を閉じた。 
      そういえば、ここに来るようになって、本当に一人になったのは初めてだった。結構な広さのある屋上が、今はリョーマだけの空間になる。 
      先程不二が「やっぱりここにいた」と言っていたところをみると、やはりここは手塚の「お気に入りの場所」だったのだろう。リョーマが現れるまでは、きっと独り占めしていたに違いない。
 
  
      『 …偶然居合わせただけだ。関係ない 』
 
  
      ふいに、手塚の言葉がリョーマの耳の奥で蘇る。 
      そう、ここにリョーマが来たのは確かに『偶然』だった。だから、手塚が不二に言っていたように、自分と手塚は部員と部長というだけで、他には何も『関係ない』。 
      リョーマは閉じた時と同じようにゆっくり目を開けた。 
      胸にモヤモヤが湧き上がっている。 
      大好きな空間を、たった一人で満喫しているはずなのに。 
      (なんか違う……) 
      ここは大好きな空間のはずだった。 
      ここに来れば胸のモヤモヤが消えてなくなり、ゆったりとした時間の流れを楽しむことができたはずだったのに。 
      なぜだろう、ここは『いつもの空間』ではなくなっている気がする。 
      青く澄んだ空も、白く眩しい雲も、柔らかく髪を薙ぐ風も、すべてリョーマが独り占めしているのに。独り占めしたいと、思っていたはずなのに。 
      たった一人で居る今の空間は、リョーマの大好きな時間が流れていない。 
      (なんで……そんな……) 
      足りないものは、たったひとつだけだ。 
      それが足りないだけで、この空間がリョーマの大好きな時間を流さなくなってしまった。 
      (そんなこと、あるわけない) 
      リョーマは否定した。だが感情は肯定した。 
      ここにあるはずのものをすべて独り占めした時に、この空間はリョーマにとって『特別』になるのだということを。 
      (そんなの、変だ……) 
      呆然と目を見開くリョーマの耳に、時間を告げるチャイムが微かに聞こえた。
 
 
 
 
 
 
 
  
      続
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      20041028
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