  横顔
   
      
 
  リョーマは帽子を被り直す風を装って小さく溜息を吐いた。 先日の『ボロラケットでもラブゲーム事件』以来、煩わしい先輩からの攻撃は沈静化した。 
      だが、煩わしい二年の先輩からの攻撃が減ったはいいが、今度は現レギュラー陣からの「ちょっかい」が始まった。 
      「おチビのくせにすごいことできるんだにゃ〜」 
      と、一挙手一投足、すべてが猫を思わせる先輩は菊丸というらしい。ついでに言葉の語尾に「にゃ〜」とつけられると、なんだか家で飼っている愛猫・カルピンに会わせてみたくなってくる。 
      「テニスは身長だけで勝負するものじゃないからね。英二もおちおちしていられないんじゃない?」 
      いつでも微笑みを浮かべているのは不二、というらしい。なにやら腹に一物抱えていそうな笑顔がちょっと胡散臭いとリョーマは思った。 
      そしてその二人に捕まっていると必ず現れるのが副部長の大石。 
      「ほらほら、英二と不二はAコートだろう?越前はこれからみんなと素振りするんだから、邪魔するな」 
      大石は至って普通の先輩、だと思う。副部長という地位を振りかざすことはせず、部員全員を温かな目で見つめている気がする。リョーマは大石に対して、かなり好感を抱いていた。 
      「そうそう、新入部員は素振り100回を3セット!手ぇ抜くなよ、越前」 
      桃城は第一印象のまま、相変わらずリョーマに興味深げな視線を向けてくる。その桃城の後ろをすごい目つきで通り過ぎる、桃城と同じ二年の海堂。荒井のように絡んでくることはないが、あからさまにリョーマに対して敵意を向けてきている気がする。 
      その他の二人のレギュラーたちは、リョーマに直接接してくることはせず、遠くから一人はニコニコと笑いかけ、もう一人は探るような視線で(と言っても眼鏡をかけていてその瞳はあまり見えないが)リョーマと先輩たちとのやりとりを見て、なにやらノートに書き込んでいる。 
      そんな光景が部活開始前の恒例となっており、リョーマが新入部員たちに混じって素振りを開始する頃になってやっと『部長様』が現れる。 
      「部長!ちーっス!」 
      二年以下の部員が深々と頭を下げる中、リョーマは帽子をちょっと持ち上げて軽く会釈する程度に頭を下げる。 
      自称『青学男子テニス部のすべてを知る男』の堀尾によれば、あの部長様は生徒会長も兼ねているので、いつも委員会だの何だのと用事をこなすせいで練習には遅れてくるのだという。その話を聞いて、リョーマはそういえば入学式で壇上に立っていた「生徒会長」は手塚だったような気がするなとボンヤリ思った。 
      (べつにどーでもいいんだけどね) 
      部長だろうが生徒会長だろうが、気にくわないものは気にくわない。ヒトの話を聞こうともせずに頭ごなしに罰を言いつけるなんて、ヒトの上に立つ者のすることじゃないとリョーマは思う。 
      でも、と、何かがリョーマの中で引っかかった。 
      (何だっけ、なんかが………) 
      喉元まで出かかった何かが、思考回路に達することなく胸の中に沈んでいく。 
      みんなの挨拶を受けて頷いた手塚が全員に集合をかける。今日の部活の内容の確認や、連絡事項などを手短に述べて、改めて部活開始の宣言をするためだ。その凛とした声を受けて、部員たちは気合いを入れ直し、それぞれの練習に集中してゆくのだ。 
      リョーマたち新入部員は大勢いる部員たちの後ろの方から手塚の話に耳を傾けていた。かなり離れた位置にいたにもかかわらず、手塚の視線がリョーマたち新入部員にもしっかりと向けられていることに、リョーマはちょっと目を見張る思いがした。 
      (一人一人の顔を見ているみたい…) 
      淡々と、だが明確な発音と音量を以て事務的な内容を告げながら、手塚の瞳が部員全員に注がれてゆく。瞳を向けられた部員は、たぶん、その誰もが、身の引き締まる思いで姿勢を正すのだろう。 
      存在感が、他の人間の比ではなかった。 
      リョーマは手塚が『部長』として選ばれたのを、少しだけ納得した。
 
 
  本格的に練習が始まると、新入部員とレギュラー陣とでは全く違うメニューをこなすことになる。 
      リョーマは素振り100回の2セット目に突入した。横目でAコートの方をこっそりと見やる。 
      (あ…) 
      みんなと呼吸を合わせてラケットを振りながら見つめる視線の先で、手塚がラケットを手に取る姿が見えた。 
      (打つのかな…) 
      リョーマの視線の先に気づいた堀尾が「あッ」と声を上げる。 
      「手塚部長がコートに入った!」 
      「えっ?ホント?」 
      一気に集中力を失くした新入部員たちがラケットを止めてAコートに魅入った。 
      本来ならばそんな新入部員たちを窘めるはずの先輩部員たちも、練習を止めてAコートを見つめていた。 
      手塚の向かいのコートに入っていた不二が柔らかなフォームでサーブを打った。手塚はスッと構えて軽く打ち返す。 
      (綺麗なフォーム…) 
      リョーマはラケットを脇に抱えてポケットに手を突っ込みながら、じっと抉るような目つきで手塚のプレーを見つめた。 
      手塚が打つ。走って構えて、また打つ。その動きに一切の無駄がない。 
      リョーマは手塚の向かいの不二を見て、また手塚を見た。 
      (二人とも綺麗なフォーム。………だけど、部長の方が安定感がある) 
      不二のフォームを「華麗」と称するならば、手塚のフォームは「完璧」だ、とリョーマは思った。 
      もしも手塚が本気で、全力でショットを放ったら、どんなに凄まじいものが生まれるのだろうかと、リョーマの胸が高鳴った。 
      見てみたい。 
      いや。 
      手塚の正面に立って、そのショットを受けてみたい。 
      リョーマはぎりっと唇を噛んだ。 
      (まだまだ、………なのかな…) 
      手塚の視線は不二に向けられたまま、自分の方を見ることはない。新入部員に混じって素振りをさせられている自分など、手塚の眼中にはないだろう。 
      あの向かいのコートに立てる日は、まだまだずっと先なのかもしれない。 
      悔しくて、自然とリョーマの眉がきつく寄せられた。 
      (チャンスさえあれば……っ!) 
      そう、チャンスさえあれば、自分の本当の実力を手塚に見せつけてやれるのに。 
      過去の栄光を鼻にかける気はないし自分の実力を過信しているわけでもないが、初心者と一緒に素振りをやるようなレベルではないということだけは断言できる。 
      (早くあの人と向かい合ってみたい) 
      だが、今のままでは向かい合うどころか背中を見つめているだけにしかなっていない気がする。 
      実力を見せようにも、このコートで何かコトを起こせばすぐに罰せられる。 
      (どうすればいいんだろう……) 
      睨みつけるような視線の強さは変わらぬまま、リョーマは密かに途方に暮れた。
 
 
 
 
  翌日、昼休み。 
      恒例になってしまった屋上での奇妙な空間の共有。 
      相変わらずリョーマは相手を無視しているし、相手もリョーマを見てはいない。 
      今日もリョーマはそのすらりとした細い手足を投げ出して、大胆に転がって空を眺めていた。 
      流れてゆく雲をボンヤリ見つめていると、くしゃんと、小さなくしゃみが聞こえた。 
      何の気なしにそのくしゃみの主に視線を向けると、その主も顔を上げてリョーマを見た。 
      「………すまん」 
      「へ?……あ、べつに…」 
      突然謝られてリョーマは内心ビックリした。 
      (…なんで謝るんだろ…?) 
      訝しげに眉を寄せて視線を雲に戻す。 
      (ビックリさせたから、とか思ったのかな?) 
      考え出したらなにやら気になってしまい、リョーマは身体を起こした。 
      「部長」 
      呼ばれて、手塚が無言で顔を上げる。 
      「何で謝るんスか?」 
      「?」 
      手塚は一瞬、軽く眉を寄せて「質問の意味がわからない」というような顔をしたが、じっと見つめてくるリョーマに、何となくその意味を悟ったのか、「ああ…」と口を開いた。 
      「邪魔をしたかと思ったんだが…」 
      「邪魔?なん……」 
      何のことかと訊こうとしたリョーマの言葉は予鈴に遮られた。 
      手塚は文庫本を閉じて立ち上がる。 
      「悪かったな」 
      もう一度謝罪の言葉を静かに言って、手塚が出ていった。 
      残されたリョーマは、ポカンと口を開けて手塚の消えたドアを見つめていた。 
      (意味わかんないんだけど…) 
      邪魔をしたから、と手塚は言ったのか。だがリョーマには手塚に何かを「邪魔された」という意識はない。 
      それよりも。 
      (謝った……あの『部長様』が……オレなんかに……) 
      手塚国光という人間がよくわからなくなった。 
      『部長』という権力を振りかざして、何でもかんでもヒトを頭から押さえつけるような人間だと思っていたのに。 
      そんな人間だったら、たかがくしゃみをしたくらいで下級生に謝ったりなんかしない。 
      (違う……の、かな……) 
      第一印象が悪すぎたのかもしれない、とリョーマは思った。 
      最初が悪かったから、手塚の本当の胸の内を推し量ることなく、リョーマ自身が勝手に作り上げたイメージだけで見ていたのかもしれない。 
      いろいろな点で、手塚は自分には目もくれず理解しようともしない、ただ背を向けているわからずやの人間だと思っていた。 
      だが本当は、その言葉にも、行動にも、彼なりの『考え』があってのことなのかもしれないのだ。 
      「部長………」 
      さっき、ドアに消える前にふと見せた、手塚の柔らかな瞳を思い出した。 
      微笑んでいたわけではなかった。 
      だがその瞳は、穏やかな光を湛えて確かにリョーマに向けられていた。 
      背を向けられているわけではないかもしれない、とリョーマは思う。 
      少しだけ、そう、ほんの少しだけ、彼は自分を振り返って見ていてくれる気がする。 
      手塚の全部を知ったわけではないが、その一面だけは、たった今、垣間見た気がした。 
      (…青学テニス部……案外……いいとこかも…) 
      そんなことを思って、また空を見上げようとしたリョーマの耳に本鈴が聞こえ始めた。 
      「げっ、やばっ」 
      リョーマは顔色を変えると、慌てて屋上を後にした。
 
  
      続
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      20041025
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