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      ■3■
       翌日。 
      朝練から顔を出した手塚に乾がゆっくりと近づいてきた。 
      「やあ手塚、もういいのかい?」 
      「ああ、差し入れのおかげかもしれないな。気を遣わせて悪かった、乾」 
      「いいや」 
      果物でも差し入れたかのような会話に、耳をすませていたリョーマが口を開きかけた、その時。 
      「熱があるときにアレを飲むとなかなかおさまらないらしいけど、手塚もそうだった?」 
      と、事情を知らないものには何のことだかさっぱり分からないであろう質問を、乾が何食わぬ顔で投げかけてきた。 
      「…………乾…お前……」 
      「おっと。私情でグラウンド走らせたりはしないよね、手塚」 
      言い返せずに黙り込んでしまった手塚から視線を外し、コートの方を向いて乾が悪びれもせずに続ける。 
      「…ちょっと、試してみたかったんだよね。まあ、風邪もひきそうにないタマなんだけど…」 
      「俺を実験台にするな」 
      「ああ、ごめん。でもとりあえず、回復して良かったよ」 
      そこまで聞いたところで、会話に耳を傾けていたリョーマは背後の気配に気付かず、いきなり肩を叩かれて飛び上がった。 
      「うわっ!」 
      「何してるの?越前くん」 
      リョーマの中のランキングで『バケモノ』部門第2位、『くせ者』部門第1位の不二周助である。 
      「別に…」 
      いつものように、動揺を悟られまいと愛想なく返答するリョーマに微笑みかけてから、不二が乾と手塚の方を見やった。 
      「乾もいろいろ苦労しているみたいだね」 
      「何の苦労っスか?」 
      「オトナの秘密」 
      ニッコリととびきりの微笑みで拒絶されて、リョーマはムッとしながらそっぽを向いた。リョーマの視線の先に河村相手に打ち合っている海堂の姿が目に入る。 
      リョーマはもう一度乾の方を向き、その視線の方向を確認した。 
      「……………まさか」 
      「気のせいだよ」 
      リョーマは溜息をついた。 
      「そっスね。でも巻き込まれたまんまってのもヤダ」 
      そう言うとリョーマは打ち合いを切り上げた河村と海堂に歩み寄る。 
      「ねえ、先輩たち、風邪ひきやすいっスか?」 
      「どうしたんだよ越前、急に」 
      河村はすでにラケットを置いている。 
      「別に」 
      リョーマが海堂の方へ視線を移すと、相変わらずギロリと睨まれた。 
      「普段から鍛えていりゃ風邪なんかひくわけねえだろうがっ」 
      と言いながら手塚の視線に気付いた海堂は「けっ」と言って口を噤んだ。 
      「ふーん。でも海堂先輩、万が一風邪なんかひいたときには栄養ドリンクだけは飲まない方がいいっスよ」 
      「…なんだ、それ」 
      「先輩思いの可愛い後輩からのアドバイス、っスよ」 
      「けっ」 
      海堂は付き合っていられないとばかりにスタスタとその場から離れて行ってしまった。 
      「なるほど。苦労しそうっスね」 
      ニヤリと笑うリョーマを見て、河村がそこら中に疑問符を飛ばしていた。 
      
  昼休みに屋上で一人昼寝をしようとしていたリョーマは、人の気配を感じて目を開けた。 
      「こんなところで寝ると風邪をひくぞ」 
      「……珍しいっスね」 
      あまり驚いた様子も見せずにリョーマが身体を起こすと、手塚はゆっくりと隣に腰を下ろす。 
      「ここでよくお前が昼寝をしていると聞いたことがあるんでな。注意しに来た」 
      そう話す手塚の瞳は、言葉とは裏腹にとてつもなく優しい。 
      リョーマだけが知る、このやわらかな瞳に心を揺さぶられながら、リョーマは一昨日からずっと気になっていたことを聞いてみることにした。 
      「ねえ」 
      ここには二人だけだから、ちょっとだけ素直になろうと、リョーマは思う。 
      「アンタはどうしてオレを選んだの?」 
      突然の質問に手塚が目を見開く。そんな手塚から視線を外して、リョーマは抱えた膝に顎を乗せた。 
      「オレにはアンタにあげるものが何もないっス」 
      ずっと考えていた。 昨日も手塚に抱かれながら、この疑問が頭の片隅から離れなかった。 
      「俺はお前に、何かを与えているのか?」 
      手塚から逆に質問されて、リョーマが顔を上げる。 
      「いっぱいもらってるっス……いろんなこと、いっぱい」 
      頬を染めてリョーマがまた少し俯いた。 
      手塚はリョーマを強い瞳で一瞬見つめてから、視線を空に向ける。 
      「いるだけでいい」 
      「え?」 
      リョーマは良く聞き取れなくて手塚を見やった。 
      手塚は空を見つめたまま、自分の心の中を探るように言葉を選びながら話す。 
      「何をしたとか…何をもらったとか…そう言う次元のことじゃない」 
      リョーマは手塚を見つめる。 
      「強いて言うなら…お前には俺の全てを与えてもいい……だが、お前の全てを俺は欲しいと思っている」 
      リョーマは瞬きも忘れて手塚の言葉に心ごと耳を傾ける。 
      「お前の存在自体を、俺は選んだんだ」 
      手塚がゆっくりと視線をリョーマに戻した。 
      リョーマは大きく目を見開いた。心の中で手塚の言葉を何度も反芻する。 
      しばらくの間、揺れる瞳で手塚を見つめていたリョーマは、そっと目を伏せると軽く溜息をついて微笑んだ。 
      「…やっぱ、かなわないっス」 
      そうして手塚が見上げていた空を、リョーマも見上げてみた。 
      遥か上空を吹く強い風が、真っ白な雲を押し流してゆく。 
      手塚ももう一度空を見上げる。 
      二人はそのまま会話を交わすことなく、黙って空を見つめ続けた。 
      
 
  放課後。 
      コートの中に乾の姿が見えないことを訝しく思ったリョーマは、近くにいた大石を捕まえた。 
      「大石先輩、乾先輩は?」 
      「ああ、乾は昼で早退したよ。手塚の風邪がうつったのかな?越前も気をつけろよ」 
      リョーマは「はぁ」と生返事をして、目で、ある人物を探した。 
      すると、探していた人物がコートの入口のところで不二と何か話しているのを見つける。 
      (不二先輩…何か企んでいるんじゃ…) 
      思い切り疑いの目で二人を見つめていると、会話を終えた不二がリョーマを見つけて微笑みながら近づいてきた。 
      「…なんか楽しそうっスね、不二先輩」 
      「うん、そうだね、何かワクワクするよ」 
      リョーマは呆れて溜息をつく。この反応だけで、不二があの相手とどんな会話を交わしていたのかだいたい想像できてしまった。 
      「そろそろ始めるぞ。アップはすんだのか?」 
      乾の代わりにメニューの書いてあるバインダーを手にしてコートの入口の方から手塚が歩いてきた。 
      「ねえ手塚、キミは知らないで飲んじゃったらしいけど、知っていて飲むのなら乾は確信犯だよね」 
      通りがかりにいきなり意味深な話題を振られて、手塚は眉をひそめた。 
      「なんの話だ?」 
      シラを切ろうとする手塚の代わりにリョーマが口を開く。 
      「それなら不二先輩も共犯じゃないっスか」 
      「そうかな。僕は彼に『乾のことだから自分で野菜汁とか作りそうだけど大丈夫かな』ってことと『手塚は乾からもらった栄養ドリンクで元気になったらしいよ』って言っただけだけなんだけど」 
      不二のセリフを聞いた限りでは、本人の主張通り「共犯」に確定するポイントは足りないかもしれない。しかし… 
      「…ああ、だからあいつはさっき、俺が乾にもらったドリンクは何か尋ねてきたのか…」 
      と言う手塚の言葉に「やったね」と小さく呟いた不二を見て、 
      (さすが……自分の手は汚さない……) 
      と、リョーマと手塚が考えたのもまた無理はなかった。 
      「なになに〜なんか楽しいこと話してるのかにゃ〜…………あ、…くしゅんっ!」 
      「あれ?英二、風邪ひいたの?」 
      ひょっこり現れた菊丸がいきなりくしゃみをするのを見て、不二が優しげに微笑んだ。 
      「う〜ん、今朝起きたら布団掛けてなかったにゃ。風邪かにゃ〜」 
      「英二ったら、まだ夜は冷えるんだから、気をつけないとダメじゃない」 
      「へへっ、不二は優しいにゃ」 
      菊丸の肩を抱いて歩いていく不二の後ろ姿を見送りながら、リョーマと手塚は菊丸の不運を思って同時に溜息をついた。 
      
  後に青学男子テニス部内でこっそり命名された『手塚熱』は、このあとしばらく部内を駆けめぐることになる。 
      しかし、本当の『手塚熱』の正体を知るものは、校内ランキングベスト4に入るメンバーだけだった。 
      END   
      2002.5.23
 
  
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