愛しくてーblind summer fishー

  『二年くらいの年齢の隔たりは、
   オトナになってから感じる感覚とコドモの時との感覚には違いがある』

少しずつ明るくなってゆく部屋の片隅で、リョーマはぼんやりと、誰かが言ったその言葉を思い出していた。
自分を抱き締めながら眠る、この優しく力強い腕の持ち主はリョーマよりも二年と数ヶ月ほど早くこの世に生を受けている。
その二年あまりの時間が、今のリョーマにとってはこの上なく恨めしかった。
(どうしてもっと早く生まれてこなかったんだろう…)
考えてもしかたがないことだとは知りながら、どうしてもそう考えずにはいられない。



それは本当に偶然のことだった。
どういう風の吹き回しか、南次郎が珍しく竜崎に土産を買って出先から帰ってきた。
当然のことのように「持って行け」と、南次郎からその土産を押しつけられたリョーマは昼休みに竜崎の元を訪れたのだ。
「こりゃ、赤い雪でも降るかもしれないねぇ」
「赤い雪?」
竜崎のたとえ話にリョーマが疑問符を飛ばしていると、笑いながら竜崎が「あの男は相変わらずかい?」と尋ねてきた。
「はあ」
生返事をしながら、ふと滑らせた視線の先に見慣れた名前の書いてある封筒を見つけ、リョーマはさりげなくその封筒の上に乗っている邪魔な書類をずらしてみる。
(留学…?)
大きめの封筒から頭を覗かせている書類には『JFH海外留学特待生』という文字が見えた。
「…見られちまったか……他の部員には言わないでくれるかい?」
リョーマの視線の先に気づいた竜崎が困ったように言った。
「部長…留学するんスか?」
竜崎はちらりと横目でリョーマを見ると視線を窓の方へ移す。
「…意志はあるようだがね…最終的な決断は本人に聞きな」
「……別にオレは……じゃ、失礼します」
リョーマは一応ペコリと頭を下げると竜崎の元から逃げるように廊下に飛び出した。
鼓動が妙に早くなっている。
踏み出した足は、なぜか鉛のように重かった。
そうして足下を見つめたまま歩いているうちに、いつの間にか屋上に来ていた。
上を見上げると爽やかな初夏の日差しと真っ白い雲が二つ。
眩しさに手をかざすと、見つめている先にある二つの白い雲がゆっくりと形を変えながら別々に離れていった。
リョーマは微かに目を見開き、そしてかざしていた手を下ろした。
「もともと…別の高さにあった雲なんだ…」
誰もいないのに、声に出して言ってみる。
「高さが違うから…風の早さも違って…流れていくスピードが違ってくるんだ」
どんどん離れていく二つの雲を睨むように見つめながら、リョーマは両手を握りしめた。



「これで本日の練習を終了する!解散!」
「ありがとうございましたっ!」
いつものように練習が終わり、一年生がネットとボールを片づけ始める。
リョーマはトンボを使ってコート整備を始めながら、目で手塚の背中を追い続けていた。
しばらくして、大石と話し込んでいるかと思っていたその背中が、自然なしぐさでこちらを振り返った。
心の中を周りの人間に悟られないように注意しながら、整備しているふうを装って手塚の方に歩いてゆく。
フェンス際まで来たところで手塚が軽く手招きする。先程まで手塚と話していた大石はすでに部室へ入ってしまっていた。
「なんスか」
トンボを引きずったまま「部長に呼ばれた部員」として手塚に近づくと、心持ち声のトーンを落として手塚がリョーマだけに聞こえるように言った。
「明日、部活の後でうちに来るか?」
甘い誘いの言葉を仏頂面のまま伝えてくるのが可笑しくて、リョーマは吹き出しそうになる。
「ういっス」
なんとか吹き出すのを堪えて短く返事をしてから手塚に背を向けると、リョーマはまたコートの整備に向かう。
それでも二、三歩踏み出してからチラッと手塚を振り返って見ると、手塚は腕を組んで堂々とこちらを見つめていた。
端から見れば『サボりそうな越前リョーマを見張る部長』である。
リョーマは綻んでしまう口元を帽子の下に隠すようにしながら、少し大股になって整備を続けた。



「ねえ、泊まってもいい?」
次の日、部活を終わらせてから手塚の家についてきたリョーマは、手塚の部屋に入るなり開口一番、そう言った。
「ああ、俺は構わんが……いいのか?」
「あとで電話貸して」
「わかった」
手塚が自分のバッグを床に置いた途端、リョーマは身体をぶつけるようにして後ろから手塚に抱きついた。
「…どうした?」
「別に」
きつく抱きついたまま離れようとしないリョーマを訝しく思いながら、手塚はそっとリョーマの手に自分の手を重ねた。
「キスが出来ないんだが…」
リョーマの身体からふっと力が抜ける。
「そーだね…キスしよ…」
手塚が振り返るとリョーマが笑いながら見上げてきた。
そのまま、手塚が身をかがめて、互いの唇を深く重ねてゆく。
「ん……っ」
リョーマが息苦しさに眉を寄せながら、懸命に手塚の舌に応える。
自分の髪に絡められる手塚の指さえも愛しくて、リョーマは閉じている瞼を微かに震わせた。
「リョーマ…」
リョーマの大好きな声が耳元で切なげに自分の名を呼ぶ。
「くにみつ…」
抱き締めてくる手塚よりも強い力で、リョーマは愛しい恋人を抱き締め返した。
「……何かあったのか?」
リョーマを胸に抱き込んだまま、手塚が静かに尋ねてくる。
「別に。アンタが好きで好きで、たまんないだけ」
リョーマは自分が今、不安定であることを自覚している。だがその理由を手塚に言うわけにはいかなかった。
なぜなら、それはリョーマが口を挟むべき問題ではないと、リョーマ自身がよく分かっているからだ。
行くなと言えるわけもないし、言うつもりもない。
ただ、事実を受け入れるにはあまりにも突然すぎた。
手塚が自分の傍からいなくなるなんて、出逢ってから今まで考えたこともなかった。
たとえば「卒業」という形で学校が変わっても、自分たちは変わらないままでいる自信があった。『テニス』という共通の世界にいる限り、決して離れることのない関係なのだと。
だが、その『テニス』のために、今、自分たちに暫しの別れが訪れようとしている。
「オバサンは?」
「今日は同窓会に行った」
その会話が合図のように、二人の唇が先程よりも濃厚に重ねられていった。

                                        




何も言わず互いを抱き締めあったまましばらく二人は動かなかった。
呼吸が整ってくると自然に腕の力を緩めて唇を重ねてゆく。
「………なに?」
甘い余韻を残す口づけの後、微かに眉を寄せて何か言いたげに見つめてくる手塚の視線に気付き、リョーマが手塚を見つめ返す。
「………いや」
「……シャワー貸して」
「ああ…」
手塚は身体を起こすと、まだリョーマに埋め込んだままだった自身をゆっくりと引き抜いた。
「あ、んっ」
短く呻いたリョーマの額にチュッと音をたてて手塚がキスすると、リョーマが小さく微笑んだ。
「今日は何も文句を言わないんだな」
「言って欲しいの?」
手塚は呟くように「いや」と言ってリョーマを見つめた。
「今日はアンタに滅茶苦茶にされたい気分だったから」
「………」
「シャワー、一緒に入ろうよ」
「…ああ」
手塚は前髪をかき上げて小さく溜息をつくと、立ち上がってリョーマに手を差し伸べた。
「立てるか?」
「うん…あ、でも歩くと零れそう…」
手塚は「ああ」と言ってリョーマを抱き上げた。
「これならいいか?」
「うん」
リョーマはクスッと笑って手塚の肩口に顔を埋めた。
「好きだよ…くにみつ…」
「リョーマ…」
手塚はリョーマの額に自分の額をこつんとぶつけると、俯いているリョーマの唇にそっと口づけた。
優しく、宥めるように唇を啄んでやると、リョーマがゆっくりと顔を上げて手塚を見つめてきた。
情事の後の気怠さと、それでもまだ余裕を見せるいつもと同じリョーマの瞳の輝きの中に、見たことのない光を感じ取った手塚は微かに眉を寄せる。
「…大丈夫か?」
「シャワー浴びながらもう1回できそうなくらいには、大丈夫っスよ」
いつもの挑発的な表情を見せるリョーマの瞳に、先程の光はもうなかった。
手塚は表情を和らげると、もう一度リョーマに口づけてからバスルームへ向かった。


じゃれ合いながら二人でシャワーを浴び、適当に夕食をすませたところに手塚の家族が次々に帰宅してきた。
挨拶をしてから再び手塚の部屋に戻った二人は、特に何をするでもなくベッドに凭れて、身体を寄せ合って座っていた。
「…眠くないか?」
「うん……もう少しこうしていたい…」
リョーマは手塚の肩に頭を乗せると、うっとりとした表情で目を閉じた。
そんなリョーマを見下ろしながら、手塚はリョーマに気付かれないように軽く溜息をつく。
「明日…またあの公営のテニスコートに行くか?…日曜だから混んでいるかもしれないが…」
「そっスね…あそこ結構いいよね…コートの数も多いし」
「そうだな」
そのまましばらく部屋の中に沈黙が広がる。
二人でいると頻繁に訪れる会話のない時間。だがそれは互いにとって決して嫌なものではなく、むしろ心の底から許し合い、信じあえた者同士だけが味わうことのできる穏やかな空間だった。
「……」
「ん?なんだ?」
静まり返った部屋の中でさえ聞き取れないくらい小さな声で、リョーマが何かを呟いた。リョーマを覗き込んで手塚が聞き返すが、リョーマは小さく首を横に振った。
「…やっぱ、ちょっと眠いかなって…言っただけ」
「寝るか?」
「うん」
二人はそれぞれ立ち上がると、明かりを消してベッドに上がり、身を寄せ合って横になった。
「アンタの匂い、好き」
リョーマが手塚に身を擦り寄せる。手塚はリョーマの細い身体をしっかりと抱き寄せた。
「おやすみ」
「うん、おやすみ、くにみつ。オレの夢見てね」
可愛らしいことを呟くリョーマの髪を優しく撫でながら手塚は目を閉じる。
「同じ夢を見られるといいな」
「…うん…」
再び部屋の中に静寂が訪れる。
手塚の落ち着いた鼓動を聞きながら、リョーマは閉じていた瞳を少しだけ開いた。
いつもならこうして手塚に抱き締めてもらって横になるとすぐに眠気が訪れるのに、今夜はなぜか意識が冴えてしまっている。
その原因には、もちろん心当たりがある。
リョーマは自分が思っている以上に、自分の心が衝撃を受けていたのだと知り、情けなさに苦笑した。
手塚は男で、自分よりも前を歩く存在である。そして自分たちは、立ち止まることなく上を目指すことを約束した。
その時その時で、自分にできる最善の道を歩むことが、自分たちの目指す場所へ辿り着く確かな方法なのだとリョーマは思う。
しかし、たとえ目指している場所が同じでも、常に同じ行程を辿るとは限らないのだということにリョーマは気付かなかった。
いや、気付いていても、知らない振りをしていた。
(ずっと…一緒にいられるわけじゃない…)
いつか、二人が違う場所で過ごす時間が来ることを覚悟しなければならない、とリョーマは思う。
もちろんそれは「別れ」ではなく、それぞれが「上」に行くためのワンステップにすぎない。
だが、今の自分が手塚を失ったらどうなってしまうのか、リョーマには考えることさえできなくなっている。
手塚と出逢う前の自分はどうやって日々を過ごしていたのだったか。それすらも、もう思い出せない。
物語の中のヒロインのように恋人に縋り付いて「行かないで」と泣くことができたら、涙と一緒にこの苦しい想いを洗い流すこともできるのかもしれない。
だが、リョーマは「男」なのだ。
泣いて縋り付くヒロインのように自分の想いだけを相手に押しつけることなどしたいとも思わない。
そんなリョーマだったら、きっと今頃手塚は自分を選んだりしていない。共に「上」へと駆け登ることができる存在を、手塚は選んでくれたのだ。
そう、手塚を全力で追いかけることを、リョーマは約束した。
たとえ目の前からその姿が見えなくなるときがあっても、全身全霊をかけて追い続ける覚悟を決めなくてはならない。
(それが、オレたちの『恋愛』なんだ)
それでも、どうしても悔しくてならない想いがわき起こる。
(せめて、もっと早く生まれたかった…っ)
そうしてもっと早く手塚と出逢いたかった。
手塚と共に過ごす一度しかない時間たちを、もっとたくさん味わいたかった。
たった数ヶ月でこんなにも強く激しく熱く想うことのできる相手ともっと早くから出逢えていたなら、自分の生き方さえも違ってきていたかもしれないと思った。
考えても考えても、それはもうどうしようもないことなのに……
リョーマはきつく目を閉じた。
どうしようもないことにいつまでも囚われている自分が、情けなくて情けなくてしかたがなかった。
手塚は自分の前を歩いていこうとしている。だから自分も前を向いて歩いて行かねばならない。
(だから今だけは…)
手塚がこうして自分を抱き締めてくれる、今、このときだけは何も考えずに手塚だけを感じようと思う。
リョーマはそっと、手塚の背中に腕をまわして自分と手塚の身体から隙間がなくなるよう、身を擦り寄せた。その時、
「…眠れなかったのか?」
少し掠れた優しい声と共に、リョーマの髪がそっと撫でられた。
窓の外は、もうだいぶ白み始めている。
「…ごめん、起こした?」
「いや…」
手塚が微笑みながらリョーマの身体を深く抱き込んでゆく。
「…俺はどこにも行かないぞ」
「え?」
「留学のことは…、まだ行くつもりはない。今は全国大会に向けて全力を尽くしたい」
リョーマは目を見開いた。
「なんで…っ」
リョーマは手塚から離れようと藻掻いたが手塚にしっかりと抱き込まれて逃がしてはもらえなかった。
「確かに興味のある話ではあった。だが今は、お前たちと、いや、お前と共に、青学の名を全国に轟かせたい」
「優勝…」
「当然だ」
リョーマは藻掻くのをやめて手塚の胸に顔を埋めた。規則正しい手塚の鼓動がリョーマを包み込む。
「だから、当分俺はどこにも行かない」
「……別に…行くなとか言わないっスよ、オレは」
「ああ、わかっている」
「アンタが行っちゃっても、泣いたりなんかしないし」
「だろうな」
手塚がクスッと笑った。
「俺の意志で決めたことだ。お前のために行かないわけじゃない」
「当然っスよ。アンタの人生なんだから」
「そうだな」
「でもさ…」
リョーマはゆっくりと身体を起こした。今度は手塚の腕は力を緩めてくれる。
「本当は、ちょっと嬉しいかも」
手塚から目を逸らしてぼそっと呟いたリョーマの言葉に、手塚は一瞬目を見開くと、すぐに目を細めて微笑んだ。
優しくリョーマの髪を梳き、そっと抱き寄せる。
「少し寝ろ」
「…うん」
自分の髪を撫で続ける優しい手の感触が愛しくて切なくて、リョーマは今になって涙が出そうになった。
一晩中自分が寝ていないことを知っている手塚もまた寝ていないのかもしれないと思いながら、心地よさに目を閉じると、張りつめた糸が切れるようにリョーマは急速に眠りに落ちてゆく。

『いつまでこうして一緒にいられるんだろう』

昨夜呟いたリョーマの言葉が、朝の光の中に優しく溶け込んで消えていくような気がした。
そうして、その光の中から現れた手塚がゆっくりとリョーマに手を差し伸べる。
リョーマが手を伸ばすと、手塚がしっかりと捕まえてくれた。

「ずっとお前を離さない」

現実に聞こえたように感じたその言葉に微笑むと、リョーマの身体は羽根のように軽くなる。
手塚の声はまだ続く。

「確かにいつかは別々の時間を過ごすこともあるかもしれない
 だが、『いつか』なんて遠い未来のために今を見失ってはいけない
 『今』を積み重ねた向こうに、きっと俺たちの求める未来がある
 だから今は、このひとときを感じよう
 愛しさも、切なさも、痛みもすべて、心の記憶に刻みつけるんだ」

リョーマは夢の中で頷く。
手塚と出逢えてよかった。
手塚を好きになれてよかった。
自分の選んだ相手に間違いはなかった。
そう、今なら自信を持って言える気がした。

「くにみつ…愛してる…」

頬に優しい感触を感じた。
目覚めたとき、きっと手塚は自分を見つめてくれている。
そんな限りない安心感の中で、ようやくリョーマは 深い眠りへと導かれていった。


そしてリョーマは夢を見る。
いつか見た二つの白い雲が、優しい風に乗り、もう一度ひとつになる夢を…………


END  
2002.8.22 


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