花のもとにて<青い鳥>
ーHANA no moto nite・AOI TORIー


「…お腹空いた」
「……ああ」
手塚はゆっくり身体を起こすと、ベッドサイドの時計を手に取った。
時計の短針がちょうど1と2の間にあった。
「ちょっと待っていろ」
手塚は、今朝、不二がリビングにサンドイッチを置いておくと言っていたのを思い出した。
さっと衣服を身につけ、ドアから出ていこうとすると、リョーマも手早く衣服を着込んで後から追いかけてきた。
「オレも行く」
「……無理をしなくていいぞ」
手塚はそっとリョーマの髪を撫でる。リョーマは手塚を見上げてほんのりと頬を染めた。
「うん。大丈夫……さっき、アンタとゆっくり風呂入ったから…」
その後でまたやっちゃったけど、と呟きながらリョーマが小さく笑う。
手塚はふっと微笑むとリョーマの肩を抱いて部屋を出た。
リビング中央に置かれたガラステーブルの上に二人分のサンドイッチを見つけて、リョーマが「やった」と嬉しそうな声をあげる。
「何か、暖かいものを飲むか?」
「え?あ……別に。なんでもいいっス」
手塚は頷くと持ち込んだ食料品の中からティーバッグを探し出し、ポットの湯で二人分の紅茶を煎れた。
「ポットの湯で悪いな」
「いいっスよ。ありがと、くにみつ」
「ミルクでいいか?」
「アンタと同じのがいい」
手塚は穏やかに微笑んで、リョーマのカップに砂糖を入れ、レモンの輪切りを一潜りさせた。
「…すぐに出しちゃうの?」
「その方が苦みが出ないんだ」
「ふーん」
静かな室内に、食器の触れ合う音が小さく響く。
リョーマはふと、窓の外に目をやった。
「天気、いいっスね」
「…ああ」
手塚は一瞬、何か言いたげにリョーマの横顔を見つめたが、すぐに視線をカップに戻した。
「ほら」
「あ、ありがと。…………なんか、すごく優しいね、くにみつ」
「ばか」
「いただきまーす」
リョーマは手塚に微笑みかけてから、サンドイッチに手を伸ばした。そのまま口に入れようとして、だが、リョーマはまじまじとサンドイッチを見つめる。
「………どうした?」
「………マスタードが大量に塗ってあるとか………ないよね?」
リョーマの言葉に手塚は本気でサンドイッチの中身を全部確認したくなったが、まさかそこまではしないだろうと思い直し、リョーマより先に頬張って見せた。
「…大丈夫だ」
それを見たリョーマがプッと吹き出す。
「お毒味役ってヤツみたい」
「そうだな」
手塚も小さく笑った。
(お前には、どんな小さなことでも、嫌な思いはさせたくないんだ)
手塚がその言葉は口にせずに熱い瞳でリョーマを見つめていると、リョーマがふと、視線を手塚に向ける。
「あのさ…」
「ん?」
リョーマはちょっと照れくさそうに、手塚から目を逸らした。
「もしも、いつか二人で暮らすことになったら、………毎日こんな感じなのかな」
「え………」
手塚は思いがけない言葉をリョーマの口から聞いて、驚きと嬉しさで、微かに動揺する。
「…夜寝るときもアンタがいて、オレを抱き締めてくれて…朝起きてもアンタがいて……こうして二人でご飯食べて……ってさ」
「………」
「毎日そうなる時が…来るのかな、って……」
手塚はリョーマを見つめる瞳に強い想いを込める。
「ああ………遠くない将来、必ず来る」
リョーマは真っ直ぐに手塚を見つめた。揺るぎない瞳で見つめ返されて、リョーマの瞳が輝き出す。
「…オレも料理、ちゃんと出来るようになるからね」
「ああ、期待している」
手塚が瞳を和らげる。
窓の外に溢れる優しい光が、部屋の中まで照らし出しているような、そんなやわらかな空気が二人の間に流れていた。



「……あ、露天風呂の掃除、どうするんだろ」
サンドイッチで空腹を満たした二人はリビングのラブソファーでのんびりとしていたが、突然思い出したようにリョーマが手塚を振り仰いだ。
「今日の朝イチで掃除しようって……言ってなかったっけ?」
「………『すべてキャンセル』してしまったからな……」
手塚が溜息を吐きながら前髪を掻き上げた。
「不二がいないと掃除の仕方がわからんな……」
「そっスね……」
リョーマは「電話…」と言いかけたが、その続きは言わなかった。せっかく二人だけの時間をようやく過ごせているのに、それをまた邪魔されるのにも抵抗があるのだ。
「ま、いっか」
ぼそっと呟いたリョーマをチラッと見やって、手塚が僅かに眉を寄せる。
「いいのか?」
「いっスよ」
「………」
黙ってしまった手塚を見て、リョーマがクスッと笑った。
「……諦めちゃったんじゃなくて、アンタとこうしている方がいいなって思っただけ」
手塚が困ったように小さく笑う。
「…なぜ…なんだろうな…」
「え?」
小さく呟かれた手塚の言葉にリョーマが首を傾げる。
手塚はリョーマを見つめてから、そっと視線を外した。
「…お前のことを…好きだと気づいて……気づいてしまった途端、想いに加速がついて……お前のすべてが欲しくなってしまった…」
「…」
浅い溜息をつくと、手塚はソファの背もたれに身体を預けて目を閉じた。
「……加速が止まらないんだ」
「…え?」
「渇いているわけではない……飢えているのとも違う………お前が傍にいるだけで、想いが……際限なく溢れて来る」
リョーマはじっと手塚の横顔を見つめる。
「自分の中にこれほど誰かを想う気持ちがあったなんて……お前と出逢うまで、知らなかった……」
リョーマは手塚から少しだけ視線をずらすと、やわらかい微笑みを浮かべた。
「従姉の菜々子さんが、さ……前に言っていたんだけど…」
「え?」
手塚が目を開けてリョーマを見る。リョーマは手塚と同じように背もたれに身体を預けながら言葉を続けた。
「ちょっと、その時のオレには難しかったんだけど、今のアンタの言葉を聞いていたら、分かってきたような気がする」
そこで一旦言葉を区切って、リョーマは小さく息を吐いた。
手塚は少し神妙な顔つきでリョーマの言葉の続きを待っている。
「…『恋』は『乞い』なんだって。だから、相手の気持ちとか、身体とかが欲しくてたまらないんだって。でも、『愛』は『与えたい想い』なんだって。だから、アンタのオレに対する想いは、本当に本物の『愛』なんじゃないの?」
手塚が驚いたように目を見開いた。リョーマの頬は真っ赤に染まっている。
「『愛してる』なんて口では誰でも言えるけど、アンタのは本物ってことじゃないっスか?」
「リョーマ……」
リョーマは手塚の方を向き、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「アンタに『愛してる』って言われると、オレの心の中が熱くなる……アンタの気持ちが流れ込んで来るんだね」
手塚は微かに瞳を揺らした。
「オレの言葉は、アンタの胸に届いてる?………まだまだ、かな……」
切なげに瞳を揺らしてリョーマが微笑む。手塚はリョーマを、大事そうにそっと抱き寄せた。
「言ってみろ。俺に、その言葉を……」
リョーマはさらに頬を染めて、手塚の胸にその熱い頬を擦り寄せる。
「くにみつ……」
「ん……?」
「アンタを愛してる」
手塚は腕に力を込めて、しっかりとリョーマを抱き締めた。心地よい締め付けに、リョーマはうっとりと目を閉じる。
二人はそのまま何も言わずに目を閉じて抱き合った。
少しの間だけ時間が止まればいい、と………二人は同じ願いを心に浮かべていた。





「手塚、おチビ、ご飯出来たよ」
突然菊丸の声が聞こえ、手塚は驚いて目を開けた。
「え?……あ…俺たちは…眠ってしまっていたのか……」
窓の外はすっかり暗くなっている。
「んー……」
リョーマが、まだ完全に覚醒しきらない様子で手塚の胸に擦り寄る。
「…すまない、毛布を掛けてくれたのは菊丸か?」
腕の中のリョーマをあやすように抱き締めながら、手塚が菊丸を見上げた。
「ううん、不二だよ。俺たちが帰ってきたら二人とも眠り込んじゃっていたから、不二がすぐに毛布を運んで来たにゃん」
「そうか……不二は?」
「お風呂見に行った。もうすぐ入れるにゃん」
「え?」
自分たちが眠り込んでいるうちに、何やら不二がテキパキと行動してくれたらしいことを聞いて、手塚は申し訳ない気分になった。
「リョーマ、起きろ。不二たちに迷惑をかけてしまったようだぞ。おい、リョーマ」
そっと、手塚に揺り起こされて、リョーマはゆっくりと瞬きをする。
「別に迷惑なんかじゃないよ」
捲り上げた袖を下ろしながら、不二がリビングに入ってきた。手塚とリョーマのすぐ傍まで来て、リョーマの顔を覗き込む。
「越前くんの寝顔って、すっごく可愛いんだね」
クスッと笑われて、リョーマがぱちっと目を開けて不二を見た。
「……写真、撮った?」
「よくわかるね。さすが、現役・青学最強の男」
「…焼き増しよろしく」
「もちろん」
不二が楽しそうにニッコリと微笑んだ。リョーマも溜息をついてから、クスクスと笑い始める。
取り残されたように眉を寄せていた手塚も、ひとつ溜息をつくと、気を取り直し、改めて不二に毛布の礼を言った。



四人で鍋を囲んで夕飯をすませると、食休みを取ってから、早速露天風呂に入ることになった。
とは言っても四人一遍に入るには少々狭いため、二組に分かれて入ることにする。
先を譲ろうとする手塚とリョーマに、不二が微笑みながら順を譲ってくれた。
「ゆっくりでいいよ。僕達も部屋でノンビリ過ごしているから。満足したら代わってね」
「…『満足』ではなくて『満喫』じゃないのか?」
さり気ない手塚のツッコミに、不二が意味ありげな笑顔を返す。
「同じようなもんでしょ?」
「…」
深い意味にとらえそうになって、手塚は自分の考えを慌てて否定する。
そんな手塚の様子に、リョーマはこっそりと笑みを漏らした。
「…じゃ、不二先輩、菊丸先輩、お先に」
「悪いな」
「ごゆっくり」
「のぼせるにゃよ〜ん」
リョーマはにこやかに「ういーっス」と返事をして、庭の露天風呂へ手塚と二人で歩いていった。



「気持ちいい…」
「ああ」
今夜も月がほのかにあたりを照らし出している。
静かな空間に、微かな水音が響く。
「やはり、持つべきものは友、なのだろうな……」
「……そっスね……」
手塚は上空の月を見上げた。
「不二とは、今までいろいろあったが……やり方はともかく、いつも背中を押してもらっていた気がする」
「……オレも……結構、菊丸先輩にアドバイスもらったりしたし…」
ちょっと意外そうに、手塚がリョーマを見た。
「そうなのか……お前も俺も、彼らに助けられていたわけか…」
「…青学……入ってよかった。いろんな意味で」
小さく笑うリョーマに手塚は黙ったまま微笑み返す。
「アンタを越えるのは…まだまだかなって思うけど………でもオレはこの先、アンタ以外には、絶対に負けないから」
「……」
「アンタも、もう、誰にも負けんなよ」
「…ああ」
強い輝きを放つリョーマの瞳を眩しそうに見つめながら、手塚もしっかりと頷いた。
見つめ合う二人の間を、ほんのりとやわらかな風が流れる。
「………くにみつ……」
「ん?」
「…その………ごめん、ちょっとだけ………」
怪訝な顔をする手塚の首に、リョーマはスルリと腕をまわしてきた。
「リョー……?」
名を呼ぼうとした手塚の唇を、リョーマのそれがそっと塞いだ。そのまましっとりと舌を絡ませて、名残惜しげに離れてゆく。
「くにみつ…」
甘い吐息とともに名を囁きながら、リョーマが手塚にしがみついてゆく。
「…どうした?」
「うん………花の……香りが、さ………」
「………」
本当は、先程から手塚もどうしようもないほど身体が熱くなってきていた。
あたりに漂う沈丁花の花の香りが、昨夜の情事を思い起こさせるのだ。
強烈で甘い花の香りは、その存在感とともに鮮やかな記憶の連動を生んでいた。
二人の唇から、甘い吐息が漏れる。昨夜の官能的な時間を、二人の身体が思い出してしまった。
「リョーマ…」
手塚がリョーマの髪を梳き、肩から背中のあたりを愛しげに撫でる。指先で顔の輪郭を辿り、最後に唇へと指を滑らせる。
薄く開かれたその唇へ、誘い込まれるように手塚がゆっくりと口づけた。
「ん………、ぁ………」
そっと重ねられた唇が、互いの熱を伝え合う。次第に深く、どこまでも甘く熱く、想いを込めて絡められる舌先から、二人の理性が溶かされてゆく。
「………」
「………」
唇をゆっくりと離し、無言で見つめ合う。
「……っ」
だが手塚は顔をしかめてリョーマから視線を外してしまった。
「くにみつ」
「…だめだ」
「どうして?」
「………」
手塚は眉をきつく寄せたまま、黙り込む。
「………多分、来ないよ」
リョーマの言葉に驚いたように、手塚がリョーマへと視線を戻す。主語はないが、リョーマが不二のことを言っているのは手塚にも分かる。
「…なぜ、そう思う?」
「さあね」
リョーマはニヤッと笑ってみせた。
実は、リョーマは気づいていたのだ。不二に、かなり余裕がなくなってきていることを。
(多分、朝のアレは違うことをしていたんだ)
手塚が起き出してくることを予想して、不二が仕掛けたイタズラだったのだろう。
だがそのイタズラの結果、煽られたのは手塚だけではなかったらしい。
他人のことを煽るだけ煽っておいて、自分は涼しげな顔で微笑んでいる不二の本意はわからないが、不二と菊丸にとっても、このささやかな現実逃避の週末は貴重なものであるはずだった。
たとえ一緒に進学することになっていても、想いの詰まった青学中等部の制服を脱ぐのはほんの少し、感傷的にもなるだろう。
だから、新たな第一歩を踏み出すためにも、『中等部最後の記念』は必要だろうとも思う。自分たちの、互いへの想いの確認と、これから先への約束のために。
そして今夜はその最後のチャンスなのだ。自分たちに構っている暇など不二にはないはずだ、とリョーマは思った。
「………不二のことだけじゃない」
しかし手塚が、吐息のような溜息をつきながらリョーマを見る。
「月曜には部活もあるんだろう?これ以上は………」
「ねえ」
手塚の瞳を真っ直ぐに見つめ返して、リョーマは決して媚びるわけではない婉然とした微笑みを浮かべた。
「アンタ、責任とるって言ったじゃん。約束は守って欲しいんだけど?」
「………」
「この前だって、アンタ、オレに言ったよね。『今は今しかない。お前と過ごす時間は一瞬でも無駄にしたくない』って」
手塚の瞳の微妙な変化を見逃さずに、リョーマは続ける。
「オレだけその気にさせておいて、アンタは一度しかない『今』を無駄にするの?」
リョーマは、もう一度、手塚の首に腕をまわして、その危険な瞳を覗き込んだ。
「う・そ・つ・き」
バシャンと、大きな水しぶきをあげて、手塚がリョーマを抱き締めた。
「あっ………んんっ」
身体中の骨が軋みそうなほど強く抱き締められ、噛みつくように口づけられて、リョーマは苦しげに眉を寄せる。
それでも手塚は許さずに、さらに激しくリョーマの唇を吸い上げ、舌を絡め取る。
リョーマが手塚の上に跨る形で座り、擦り合わされる互いの熱は、もうどうしようもないほど熱く高ぶっていた。
「……リョーマ…」
唇を離して、手塚が軽く息を弾ませながらリョーマの瞳を見据えた。
「責任を取るのは、お前の方だ」
獲物を狙う獣のような手塚の瞳をリョーマは正面から見つめ返す。
「いいよ。オレが責任もって、アンタの熱を全部受け止める」
二人は強い光を宿した互いの瞳を見つめ合ったまま、ゆっくりと唇を重ねていった。

揺らめく湯気の中に艶やかな水音が微かに響く。
絡ませた舌をほどいて唇を少し離しては、また深く重ね、二人は長い口づけを何度も繰り返した。
「くにみつ……」
「ん……?」
口づけの合間にねだるように名を呼ばれて、手塚はまた口づけながら軽く応える。
「キス………だけで………んっ、もう………いきそ………っ、んんっ」
「……一人でいくなよ」
手塚がリョーマの耳元に熱く囁きかけると、リョーマの身体が痙攣を起こす。
「だって………アンタのキス………すごすぎ……」
「お前の唇が、甘すぎるんだ……」
「やっ……」
耳元で囁いていた手塚の唇がリョーマの首筋にきつく跡を残す。
「…くにみつ……」
もう一度、リョーマが手塚を呼んだ。
手塚がリョーマと視線を合わせると、リョーマはチュッと音をたてて手塚の頬に口づけた。
黙ったまま、じっとリョーマを見つめる手塚の首に腕をまわし、リョーマが縋り付いてゆく。
「好きだよ、くにみつ………どうしたら……オレの気持ちはアンタに伝わるの?」
手塚が目を見開く。
「アンタの気持ちはどんどんオレの中に入ってくるのに………オレは、オレの気持ちは……どうやったらアンタに伝えられるんだろう…」
しばらくの間リョーマの身体を抱き締めていた手塚が、そっとリョーマの頭を撫でた。
「…わからないのか?」
手塚の言葉に、リョーマは切なげに瞼を閉じる。
「お前は、お前のすべてで、自分の想いを俺に伝えてきてくれている」
「え?」
リョーマは手塚の首に縋り付いたまま、驚いたように目を見開いた。
「お前の言葉で、お前のしぐさで、お前の熱で、そしてお前の瞳で………いつだって俺はお前から想いを受け取っている」
「ホント…?」
手塚は静かに頷いた。
「お前にひとつ教えてやろう。昔の歌人は『恋』という言葉に『独りで悲しむ』という漢字を当てたんだ。『孤悲』、…と」
「独りで…悲しむ……?」
リョーマは腕を緩めて手塚の顔を覗き込んだ。
「お前の従姉が言っていた『乞い』と通じるところもあるが、相手を想い、その切なさに一人きりで涙を流す………だから、独りで悲しむ、と当てたのだろう」
じっと手塚を見つめるリョーマの頬を、手塚は愛しげに優しく撫でた。
「さっき、お前は言ったじゃないか……俺の想いはすでに『恋』ではないのだと。お前の気持ちが伝わっているからこそ、欲しがるだけでなく、俺の想いは成長していけるんだ」
大きく見開かれたリョーマの瞳が手塚を映して揺れる。
「だが、俺の想いは『愛』だけでもないようだ」
「…え?」
「お前の心も身体も、まだ欲しくてたまらない」
手塚がゆっくりとリョーマに口づける。
「続きを、してもいいか…?」
唇を触れさせながら囁かれて、リョーマは黙ったまま小さく頷いた。






「……ねえ……オレ、ちゃんと責任果たせた?」
「え…」
リョーマはちょっと恥ずかしそうに手塚の胸に熱い頬を擦り寄せた。
「だから、………よかった?」
手塚はほんのりと頬を染めた。面と向かってリョーマがそんなことを聞いてくるのは滅多にないため、手塚は内心動揺する。
「…くにみつ?」
答えない手塚を不審に思ってリョーマが大きな瞳で見つめてくる。
手塚は小さく笑うとリョーマを抱き締めた。
「…お前を抱いていると……いつも俺は、この世の幸せをすべて手に入れたような気になる」
「…誉めすぎ」
リョーマがクスッと笑いながら目を閉じて手塚に寄りかかる。
「本当のことだ」
手塚が静かに、しかしきっぱりとした口調でリョーマに囁く。
「お前なしでの幸せなど、俺にはあり得ない」
「くにみつ……」
リョーマは揺れる瞳で手塚を見上げた。
「俺たちの関係は世のすべての人に受け入れられるものではない。きっとこれから先、つらいことも起きるのだろう。それでも俺は、お前と共に歩んでいきたい」
手塚はリョーマの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺は、お前のいない偽りの幸福などいらない」
リョーマは息を飲んだ。
手塚の瞳が上空の月を映し込み、神々しいほどに強く光っていた。
そしてその瞳で、自分への想いをはっきりとした言葉で告げられ、リョーマの心の奥が熱く震え出す。
「………っ」
リョーマには手塚の告白に応える言葉が見つけられなかった。
ただ大きな瞳を見開いて、想いを込めて手塚を見つめるしかできなかった。
そんなリョーマを、手塚がそっと胸に抱き込んでゆく。
「……愛している…リョーマ…」
言葉を見つけられないまま、リョーマは手塚を思いきり抱き締め返した。
「………かなわないね……やっぱ、アンタには………」
リョーマはそれだけ口にすると、さらにきつく手塚を抱き締めた。



下半身に力が入らなくなってしまったリョーマを抱きかかえて部屋に戻り、リョーマをベッドにそっと下ろすと、手塚は飲み物を取ってくると言い残して部屋を出た。
手塚が冷蔵庫を開けたところでちょうど不二が部屋から出てくる。
「…満足した?」
不二がニッコリと手塚に微笑みかける。手塚は小さな溜息をひとつつくと、「ああ」と短く応えた。
「長く占領して悪かった。今度はお前たちが満足するまで占領してくれ」
冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを出しながら手塚が真顔で不二に言った。
「…うん、そうさせてもらうよ」
手塚が手にしたペットボトルを開けずに部屋へ持っていこうとしているのを見た不二はクスッと笑みを漏らす。
「越前くん、湯あたりしちゃった?」
含みのある不二の言葉に、手塚はゆっくりと振り返った。
「いや」
溜息混じりにそう答えてから、手塚は珍しく小さな笑みを浮かべて不二を見た。
「花の香りに酔ったんだ」
キョトンと見つめてくる不二に軽く手を挙げてから、手塚は部屋のドアを開けて中へと姿を消した。
残された不二はしばらくしてから「ふぅん」と呟きクスクスと笑いだす。
「手塚にしてはうまい答え方だね」
誰に言うでもなくそう呟いてから、不二は切れ長の瞳を自分たちの部屋へと向けた。
「さて、と」
恋人たちの長い夜は、まだ始まったばかりだった。





翌朝、手塚とリョーマは、不二たちが目覚める前にキッチンに立ち、朝食の用意を始めていた。
「ホントは和食がいいんスけどね」
「今日のところは我慢しろ」
「ういーっス」
手塚の指示に従って軽めの朝食が出来上がってゆく。
「目玉焼きは先輩たちが起きてきてからでいいっスよね」
「ああ」
あとはトーストと目玉焼きを用意するだけにしておいて、手塚は二人の様子を窺いにいく。待っていろと言ったのに当然のように後ろからついてくるリョーマを振り返り、手塚は口の動きだけで「コラ」と言った。
頬を膨らませるリョーマの額を軽く小突いてから、手塚は不二たちの部屋のドアを軽くノックする。
「不二、菊丸。起きているか?」
中から返事はない。
「…まだ寝ているのか…」
引き返そうとする手塚の横をすり抜けて、リョーマがドアノブに手をかける。
「開いてる……」
あっさりとドアが開いてしまい、二人は顔を見合わせた。
手塚が小さく溜息をつき、もう一度声をかけてからそっとドアを開けてみる。
「……いない……?」
ベッドはもぬけの殻だった。リョーマはベッドサイドまで歩み寄ると、捲れ上がった布団をじっと見つめ、おもむろに手を突っ込んだ。
「時代劇とかって、こうやって逃げた距離を測るんスよね。……まだ暖かいっスよ」
「…俺たちは刺客か?」
手塚は額を抑えて溜息をついた。
「朝風呂でも行ったんだろう。邪魔をするとあとが怖いぞ」
リョーマがプッと吹き出した。
「アンタもそーゆーうこと言うんだね」
クスクスと笑うリョーマを後目に、さっさと手塚は部屋を出てゆく。
「先に朝食を済まそう。早く来い、リョーマ」
「ういーっス」
先を歩く手塚に後ろからリョーマが抱きつく。
「…っ、なんだ、いきなり」
「ねえ」
肩越しに振り返る手塚を見上げて、リョーマはニヤッと笑った。
「朝食が済んだら、どーすんの?」
「………」
「また世界一幸せな気分になる?」
「ばか」
手塚がやわらかく微笑んでリョーマの頭を撫でる。
「今は今で、また違った幸せな気分なんだが?」
「アンタって、オレといるときはいつも幸せなわけ?」
「当然だろう」
真顔で返されてリョーマは耳まで真っ赤になった。
「………ホンっと、アンタの言動は心臓に悪い」
「何か言ったか?」
「別に」
頬を染めてそっぽを向くリョーマに手塚が怪訝な顔をする。
「…そうだな……帰り支度を始めるまでの時間をどうするかは朝食を食べながらゆっくり考えよう」
「そっスね」
もう一度リョーマが手塚に抱きついた。すると手塚が、何かを思い出したように歩みを止めてリョーマに向き直った。
「さっき、ふと思ったんだが、相手を乞いながら愛することを、きっと『恋愛』というのだろうな」
「え……」
「だから『恋愛』は、独りでは出来ないことなんだ」
リョーマが小さく目を見開いた。
手塚がやわらかく微笑む。
「俺たちは『恋愛』している……そうだろう?」
さらに大きく見開かれたリョーマの瞳が、朝の光のようにキラキラと輝き出す。
嬉しそうに微笑みながら頷くリョーマを、手塚は眩しげに見つめた。

欲しがるだけでなく、与えるだけでなく、欲しがるままに与え、与えられるままに欲する。
それが『恋愛』。

自分たちの在り方に真実を見た気がした二人の瞳には、永遠を誓う者たちだけが宿せる光が輝き始める。
曖昧に『恋愛』という言葉を口にしていた昨日までの自分たちが、またひとつ、新たな強い絆で結ばれた気がした。




THE END
2003.5.9
エピローグへ続く…(^^;)近日中にアップ…したい…。

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