続 私たちの「ファミリーヒストリー」 



写真の掲載に当たっては

肖像権処理ガイドライン()の概要

及び

肖像権ガイドライン」の解説

を参考にしました


 

 
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 目次
1 吉岡生夫の出生から結婚まで
2 児玉恵子の家系図及び出生から結婚まで
① 児玉家の家系図
② 町井家の家系図
③ 児玉恵子の出生から結婚まで
3 結婚
4 結婚式以後~昭和六十年(一九八五)
5 昭和六十一年(一九八六)~平成二年(一九九〇)
6 平成三年(一九九一)~平成七年(一九九五)
7 平成八年(一九九六)~平成十二年(二〇〇〇)
8 平成十三年(二〇〇一)~平成十七年(二〇〇五)
9 平成十八年(二〇〇六)~平成二十二(二〇一〇)
10 平成二十三年(二〇一一)~平成二十七年(二〇一五)
11 平成二十八年(二〇一六)~令和二年(二〇二〇)
12 令和三年(二〇二一)~令和四年(二〇二二)
附録
① 歌人・吉岡生夫の年譜、アルバム
② 明日を拓く
あとがき
表紙 ブイツーソリューション


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      附録①の年譜

          プロフィール中「略年譜」のとおり          


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内容は「『草食獣』を語る会(1980.2.16)でとどうぞ

 

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       あとがき

 今回は妻の実家である児玉家の歴史に光をあてた。古い戸籍は戸主制度への理解がないと読みづらい。しかし公的な面を尊重して今回もそのままにしている。アルバム篇では、両家で、よく旅行をしたが三回分だけ収録した。千葉県に移ったのは平成二十年の春というから前年の小豆島旅行は、その最後を記録したことになる。
 平成二十一年は変化の多い年だった。八月四日、玉井の瑞枝伯母が亡くなった。十二月二日、吉岡の祥一伯父の葬儀があった。同月五日、義母が死去。これが母には応えたのだろう。二十八日、救急車で協立病院に入院。翌日、妻が見に行くと、幸いにも元気で三十日に仮退院。一月三日に病院にもどり、四日に退院ということがあった。
 その母親が今年の一月二十七日に亡くなった。もう少しで九十五歳の誕生日だった。病院とは無縁の母が非弁膜症性心房細動で東宝塚さとう病院にかかったのは九十歳のとき、平成三十年十月二十四日である。最後に診てもらったのは令和四年三月二日であった。脳梗塞は同年三月三十日、母と二人のときだった。一階に降りていくと居間の入り口で倒れていた。痙攣していた。救急車を呼ぶ。大阪脳神経外科病院へ運ばれる。以降、コロナ禍でリモート面会のみとなる。八月二日、協立温泉病院に転医。介護タクシーの中で介護ミトンの外された手を差し出してくる。握り返す。誰かわかるかと妻が言うと「生夫やな」と答える。協立温泉病院は月二回の面会があった。一回十分、但し母親に熱があるときはリモートであった。一月二十七日、電話を受けて十六時前に病室で対面、心電図モニターは死の近いことを示していた。一端帰宅。その後の準備をして息子と三人で出かけたが臨終には間に合わなかった。
 コロナを憾む気持ちは強い。一首だけ、ここに残しておきたい。〈コロナ禍でなければきっといろいろな場面があった お袋見舞う〉。葬儀も家族葬を予定していたが、甥姪(私にはいとこ)を始め総勢で十一家二十五名で見送ることができた。お袋の面目躍如といった趣である。また生前の希望であった「ふるさと」ほかを娘がフルートで奏でた。法名は「釋宝鈴(しゃくほうりょう)」、「鈴」は俗名「鈴子(すずこ)」の「鈴」を妻が希望したのである。
 さて正続二篇のファミリーヒストリーによって父と母、義父と義母、そして私たち夫婦の巻は終わる。附録②として「明日を拓く」(孫の絵画集)を加えておいた。彼らは新しいファミリーヒストリーを歩いている。

                  母が存命なら九十五歳の誕生日、令和五年二月十一日記す 𠮷岡生夫
 
   


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