先日、毎週通っている教会(プロテスタント)で、証と言って、なぜキリスト教を信じるようになったかを6分で話しをする機会を与えられました。今回はその原稿をそのまま用いてみることにしました。
私は1962年、さぬきうどんで有名な四国の香川県に生まれました。
祖父母に両親、そして兄、私の6人の家族がひとつの屋根の下に暮らし、祖父母は桃の果樹園の世話をし、両親は共働きでした。小さい頃は、毎日が楽しくていい思い出ばかりだったのですが、だんだんと大きくなるにつれ、少しずつ家の中に重い空気が漂うのを感じるようになりました。
中学2年のとき、それは元旦の日でしたが、祖母が突然、胸の苦しみを訴え、病院に運ばれましたが、すでにとき遅く、心筋梗塞で亡くなりました。そのあと、祖父と母との間に少しずつですが、溝が生まれてくるのを感じました。1年後、兄は家を離れ、県外で就職。一方間もなく、父は失業しました。
仕事が見つかって順調にいきかけた頃、ちょうど大学3年のときでしたが、その父が体の不調から、病院で検査を受けました。診断は、肺がんの末期で、すでに手遅れでした。2ヶ月後、ついに帰らぬ人となりました。
当時、神戸市内の大学に通っていたので、神戸から高松に帰る時はいつもフェリーを使っていたのですが、そのフェリーで働いている姿を見たのが、病院に入る前の元気な姿だったと記憶しています。
それから1年後、今度は高血圧だった祖父が倒れ、そのまま息を引き取りました。
まるで何かにたたられているかのように続く出来事の中で、少しでも良くなるきっかけを!と願って求めたのが、高校時代の友人が熱心に信仰していた宗教でした。
それは「新興宗教」と呼ばれるもので、手をかざし、そこから出る「神の光」によって、病人や人に憑いた霊を潔(きよ)めることができるというものでした。
果たして本当に、そんな奇跡などあるのだろうか、そう思いながら3日間の研修を修了し、「手かざし」が出来るというネックレスを、首につけることになりました。
さっそくその日の夜、覚えたばかりの「呪文」をとなえ、それまで動いたことのなかった目覚し時計に、そっと手をかざして、眠りました。
そして、次の日の朝、その時計は、大きなベルの音をたてて、鳴り出しました。
信じられない力に驚きました。
手をかざすだけで、状況を、また環境を変えていくことができる、そう思って信じてきた宗教でしたが、父のガンの前ではまったくの無力で、父の死を境に、その宗教から覚めていきました。
しかし、その宗教から離れることには「怖さ」も同時に覚えていました。
教義の中で、繰り返し「神から離れることはどんな不幸をもたらすのか」と何度も聞かされてきたからでした。
現在フランスでは「カルト」として、国内での布教活動が禁止されているその宗教は、祖先を祀ることによって、救われるという教えがあり、それに従って仏壇を購入し拝んでいました。父の死をきっかけに、どのようにしてその宗教から離れていけるかと、悩む日々が続きました。
そんな時に、いまの妻と知り合い、キリスト教を知るきっかけとなったわけです。
妻を通じて、教会の牧師を知り、その先生が、仏壇から手かざしのペンダントなど、何から何まですべてを引き取ってくださいました。いままでの重荷から解放されていくのを覚えました。
と同時に、そのキリスト教とはどんなものだろうと改めて思い始めました。
それまで神様は「厳しく人を裁く神」、がんばったらがんばっただけ、それに見合うものを与えるが、何もしなかったらそれを報いとして与えられる神だと教えられてきました。
しかし、イエス様は「人を裁く神」ではなく、「人を裁くその思いをも汲み取られ、慈しみの愛を、ひとりひとりに注いで下さる神様」であるということ。
そして「苦しい時に、もっとも近くにいて、支えてくださる存在」であることを知りました。
「あなたがたのあった試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたの耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(第一コリント10章13節)
今から12年前の1991年6月23日、洗礼を受けました。
キリスト教には奇跡はないと思っていた自分でしたが、イエス様への祈りには目に見えないが確かな力があることがわかりました。
アメリカで1000万部以上のベストセラーとなった『ヤベツの祈り』の中では、あらためて祈りが決して「祈りのための祈り」ではなく、「神様が求める者に対しては惜しむことなく与えてくださる神様」であることを、体験を通して感じることができました。
苦しかったあの頃をもう一度振り返ってみると、何か自分だけが不幸の中にあって、苦労してたかのように思っていましたが、ちょうどその時、母もまた、兄もまた、同じように、悩み苦しんでいたのだと思います。そして、イエス様ご自身も、そんな自分に対して、救いの手を差し伸ばし、祈っておられたことを覚えます。
境遇や出来事が人を作るのではなく、どんな環境の中にあっても、それをどう生かしていくのか、神様との交わりの中で、必ずよき知恵が与えられ、確かな希望へとつながっていきます。
もっともっと祈っていく中で、様々な奇跡を起こしてくださる神様を信じ、委ねて、心からの賛美を捧げていきたいと思います。有難うございました。