人生の途上にて
My life, my way
Day by day in every way...
BACKHOMENEXT  
「交渉の技」  Negotiating Skills 

 いまは8月、夏にはいって休日を過ごすなかでリフレッシュしていく自分を感じることができる。しかし、振り返ってみると6月から7月にかけては非常に厳しい毎日だった。仕事のことになるが、7月下旬に行なうある催し物で,非常に苦心した。

 終わってみればすべて万事がうまく収まったと言えそうだが、それまでのプロセスは、まさにどうなるのか、どのように進んでいくのかと毎日が心配の連続だった。交渉の相手が難しい人というのは、会った瞬間感じ、またすでに複数の人から聞いていたのだが、思った以上につっこんでくるというか、ここまで要求できるのかということまで求めてきた。

 それに対してNOと言えない事情も発生して、睡眠時間を削って悩む日々だった。そんな中、できる唯一のことは早朝に、静かな時間のなかで祈ることだけだった。結果は大成功とまではいかなくても満足度はきわめて高いものとなった。

 もし今回の件で最大の収穫があったとすれば、この掲示板を通してや職場から、温かい言葉をかけてもらえたり、またその事情を察して、より深いつながりが出来たことかもしれない。意外にもそんな苦しみ(大袈裟かもしれないが)も、決して無駄にはならないものだと、いまになってしみじみと思う次第である。

 うるさいと思っていた交渉相手も、別の視点から見ると、これ以上ない相手だったのかもしれない。そんなに長い時間とらなくてもいいのではというくらい時間をとっていたのは、職業柄なのか、その人の性格なのか、いまもって不明だが、まんざら悪い人ではないのかもしれない。ただあまり関わりは持ちたくないな〜そう思える人であった。

 ただ不思議なことだが、そんな嫌でたまらない人がさらに後になって振り返ったときに、決してその人との出会いが無駄ではなかった、いやむしろ貴重にさえ思えてくる、そんな瞬間が時間の経過のなかでやってくることもあるのである。

 交渉の技といっても、結局は人と人とのつながり、日々どう生きるか、どんな風に人と接していくか、ただそれだけなのだろう。
 
2003.08.12


「ヤベツの祈り」  The Prayer of Jabez 
2003.10.29


 アメリカで発売以来わずかの間に、1000万部以上売れた本がある。『ヤベツの祈り』である。アマゾン.comでの書評数は500近く(英語版)に達し、かつてのどんな本よりも大きな反響となった。なぜこうもたくさんの人々に読まれているのだろうか。そして果たしてどんな本なのだろうか。

 ヤベツとは聖書に出てくる歴史上の人物である。「歴代誌第一」の四章に登場する人物であるが、この章は、おそろしいほどゾッとするような人物の系図で、まず誰も目に留めようとはしないだろうとされていた。何百というほとんどなじみのない名前の中で、たったひとりだけに、なぜか特別なコメントが書かれていることに気付く。そしてその記述はたった2節。それがヤベツだった。

 その人、ヤベツは母親が悲しみのうちにこの子を産んだからと言って、彼にヤベツという名前を付けられたのである。「悲しみ、苦しみ、痛み」という、将来を悲観し、暗示するような名前が敢えて付けられた。しかし、それにもかかわらず、彼はどの兄弟よりも重んじられたのである。その秘密が、彼の祈りに隠されていたのだった。

 彼の祈りは、きわめて単純なものだった。

                 「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。
                     御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて
                    私が苦しむことのないようにしてくださいますように」

 驚くべきことに、彼はその祈りを毎日何度も繰り返していく中で、もっとも豊かにされたのである。



 一心に筆を進めていた聖書の歴史家は、そのことを書いた後で、ふたたび何事も無かったように、また人物の羅列が始まった。名前、名前、名前...。

 この本に書かれてあることが自分にもあてはまるのだろうか。そんな疑問を持ちながら、朝何度か繰り返し祈って、仕事に出て行く。3週間たって言えることは、確かな変化だろう。少しずつだが、しかし目に見える形となって変わっていく状況の数々。おそらくそれは自分の周りの人にはそうは思われないかもしれない。しかし、確かな形となって現われてくる。

 祈りとは果たして応えられるのだろうか、そう思いながらも「ヤベツの祈り」を実践した多くの人には応えが与えられた。そのことが、この本の反響にもつながったのだろうと思う。
「試みのなかで」 Even at the Time of Trial 
2003.10.30


先日、毎週通っている教会(プロテスタント)で、証と言って、なぜキリスト教を信じるようになったかを6分で話しをする機会を与えられました。今回はその原稿をそのまま用いてみることにしました。

私は1962年、さぬきうどんで有名な四国の香川県に生まれました。

祖父母に両親、そして兄、私の6人の家族がひとつの屋根の下に暮らし、祖父母は桃の果樹園の世話をし、両親は共働きでした。小さい頃は、毎日が楽しくていい思い出ばかりだったのですが、だんだんと大きくなるにつれ、少しずつ家の中に重い空気が漂うのを感じるようになりました。

中学2年のとき、それは元旦の日でしたが、祖母が突然、胸の苦しみを訴え、病院に運ばれましたが、すでにとき遅く、心筋梗塞で亡くなりました。そのあと、祖父と母との間に少しずつですが、溝が生まれてくるのを感じました。1年後、兄は家を離れ、県外で就職。一方間もなく、父は失業しました。

仕事が見つかって順調にいきかけた頃、ちょうど大学3年のときでしたが、その父が体の不調から、病院で検査を受けました。診断は、肺がんの末期で、すでに手遅れでした。2ヶ月後、ついに帰らぬ人となりました。

当時、神戸市内の大学に通っていたので、神戸から高松に帰る時はいつもフェリーを使っていたのですが、そのフェリーで働いている姿を見たのが、病院に入る前の元気な姿だったと記憶しています。

それから1年後、今度は高血圧だった祖父が倒れ、そのまま息を引き取りました。

まるで何かにたたられているかのように続く出来事の中で、少しでも良くなるきっかけを!と願って求めたのが、高校時代の友人が熱心に信仰していた宗教でした。

それは「新興宗教」と呼ばれるもので、手をかざし、そこから出る「神の光」によって、病人や人に憑いた霊を潔(きよ)めることができるというものでした。

果たして本当に、そんな奇跡などあるのだろうか、そう思いながら3日間の研修を修了し、「手かざし」が出来るというネックレスを、首につけることになりました。

さっそくその日の夜、覚えたばかりの「呪文」をとなえ、それまで動いたことのなかった目覚し時計に、そっと手をかざして、眠りました。

そして、次の日の朝、その時計は、大きなベルの音をたてて、鳴り出しました。

信じられない力に驚きました。

手をかざすだけで、状況を、また環境を変えていくことができる、そう思って信じてきた宗教でしたが、父のガンの前ではまったくの無力で、父の死を境に、その宗教から覚めていきました。

しかし、その宗教から離れることには「怖さ」も同時に覚えていました。

教義の中で、繰り返し「神から離れることはどんな不幸をもたらすのか」と何度も聞かされてきたからでした。

現在フランスでは「カルト」として、国内での布教活動が禁止されているその宗教は、祖先を祀ることによって、救われるという教えがあり、それに従って仏壇を購入し拝んでいました。父の死をきっかけに、どのようにしてその宗教から離れていけるかと、悩む日々が続きました。

そんな時に、いまの妻と知り合い、キリスト教を知るきっかけとなったわけです。

妻を通じて、教会の牧師を知り、その先生が、仏壇から手かざしのペンダントなど、何から何まですべてを引き取ってくださいました。いままでの重荷から解放されていくのを覚えました。

と同時に、そのキリスト教とはどんなものだろうと改めて思い始めました。

それまで神様は「厳しく人を裁く神」、がんばったらがんばっただけ、それに見合うものを与えるが、何もしなかったらそれを報いとして与えられる神だと教えられてきました。

しかし、イエス様は「人を裁く神」ではなく、「人を裁くその思いをも汲み取られ、慈しみの愛を、ひとりひとりに注いで下さる神様」であるということ。

そして「苦しい時に、もっとも近くにいて、支えてくださる存在」であることを知りました。

「あなたがたのあった試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたの耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(第一コリント10章13節)

今から12年前の1991年6月23日、洗礼を受けました。

キリスト教には奇跡はないと思っていた自分でしたが、イエス様への祈りには目に見えないが確かな力があることがわかりました。

アメリカで1000万部以上のベストセラーとなった『ヤベツの祈り』の中では、あらためて祈りが決して「祈りのための祈り」ではなく、「神様が求める者に対しては惜しむことなく与えてくださる神様」であることを、体験を通して感じることができました。

苦しかったあの頃をもう一度振り返ってみると、何か自分だけが不幸の中にあって、苦労してたかのように思っていましたが、ちょうどその時、母もまた、兄もまた、同じように、悩み苦しんでいたのだと思います。そして、イエス様ご自身も、そんな自分に対して、救いの手を差し伸ばし、祈っておられたことを覚えます。

境遇や出来事が人を作るのではなく、どんな環境の中にあっても、それをどう生かしていくのか、神様との交わりの中で、必ずよき知恵が与えられ、確かな希望へとつながっていきます。

もっともっと祈っていく中で、様々な奇跡を起こしてくださる神様を信じ、委ねて、心からの賛美を捧げていきたいと思います。有難うございました。