近江・彦根への旅
Hikone, Shiga Pref.
国宝・彦根城を訪ねて
■井伊家
彦根城で思い出すのは、昨年に東海道の宿場町・由比(静岡県)を訪れたときのこと。当時の宿場を再現したビデオに登場したのが、彦根の井伊のお殿様でした。
参勤交代の道中のなかで、事の他、由比海の幸を楽しみにしていたとあったところから、海への憧れと生の魚が食べられる喜びはひとしおだったのだろうと思います。
東京にあるホテルニューオータニは紀尾井町にありますが、この紀尾井という地名は、江戸時代にその周辺にあった大名屋敷の家から来たとのことで、その3家とは「紀伊」「尾張」そして「井伊」でした。
■井伊直弼と桜田門外の変
日本史に登場する人物として、井伊直弼があげられます。
桜田門外の変は1860年3月3日に、安政の大獄の処置に憤慨した水戸藩士17名と薩摩藩士1名が、登城しようとする井伊大老を桜田門外に襲撃して、大雪のなかで乱闘し彼の首をとった事件でした。
彦根城にあった彼の人物紹介は次のようになっていました。
「開国の英雄井伊直弼は、藩主直中の子として生まれたが、5歳にして母と、17歳にして父と死別し、わずか300俵の捨扶持で17歳から32歳までの青春時代を埋木舎で過ごし、もっぱら心身の修練につとめた。
ところが思いがけなく嘉永3(1850)年36歳のとき彦根藩主となり安政5(1858)年大老職となった。時に44歳。嘉永6年6月アメリカのペリーが日本を訪れて開国をせまり、以来鎖国か開国かで国内は非常に混乱した。大老井伊直弼はわが国の将来を考えて、開国を断行、これに調印し外国と修交を結んだのである。
この偉業を成し遂げた直弼も、大老の心情を汲むことのできなかった人々によって、万延元(1860)年3月3日桜田門外で春雪に血を染めて消えた。ときに46歳であった。」
■「埋木舎」
井伊直弼が青春時代を過ごした「埋木舎(うもれぎのや)」が彦根城近くにあります。17歳から32歳までを過ごしたその屋敷は、直弼が井伊家の14男として生まれたため、藩主には決してなれないことを悟って、自らを埋もれた木に例えたところから名づけたものでした。
その屋敷で、彼は国学、書、禅、居合術など文武両道の道に励む一方、茶道、和歌、能などもこよなく愛した。後に大老として偉業を成した才が培われたのが、この「埋木舎」だったということです。
■埋木舎の門
開館には少し早かったため入ることは
できませんでした。
この門を直弼は何度も通ったことでしょう。
玄宮園と周辺散策
■お堀と道路の明かり灯
■句碑としだれ梅
彦根城に登城するときに見つけたの
ですが、控えてこなかったので、なんて
書いてあるのか...。
■ピンク色の中の天守閣
梅、桜...?いえいえ、実はこれは桃でした。
以前、四国に住んでいた頃、桃の果樹園が
あったので、桃には特別な思いがあります。
■玄宮園
井伊家の旧下屋敷の大名庭園です。
名の起こりは、唐(中国)の玄宗皇帝の離宮にならった
もので、その造りを近江八景に取り入れたことから
八景亭とも呼ばれています。
■そして天守閣
JRから出されているパンフレットもここから見た
四季の写真が掲載されています。
紅葉の秋、雪に覆われた冬と、四季の中で
庭園のすばらしさが異彩を放っています。
池越しに眺める彦根城、確かに見事です。
できれば、秋がいいかな〜。