[ 闘 病 記 P <1999年4月>]

   お別れ 


 <1999年4月7日>

朝 病院へ行く仕度をしていると電話が鳴りました。 小児病院のK先生です。
「朝の段階で自己息がチョット苦しそうなので、今から切開をします。本人には『少し眠って楽になろう』と説明しました。本人の了解済みです 『わかった』と言ってくれました。意識を落としますので少しの間 会話が出来なくなりますが、ご心配は要りません よろしいですね」
「はい わかりました。すぐに伺いますので どうぞ宜しくお願い致します」

電話を切ると涙が止まらず、主人に抱きついて泣きました。 泣いたってどうにもならない 泣いたってあの子を助けられない どうぞ神様 私に力を下さい。 
亡き父の遺影に手を合わせます 「これから先 私は何のお願い事もしません。約束します。だから彰を助けて下さい。今回だけ 私に力を貸して下さい。お願いします」

病院に着くと丁度処置が終わった所でした。
何人かの先生方があわただしく機械を操作したり病室を出入りしています。
彰が苦しそうに顔をゆがめます 「すいません 苦しそうなんですけど大丈夫でしょうか?」
「今 また 新たに麻酔を注入しましたので、すぐ楽になります 大丈夫ですよ」
「彰 頑張ろうね もう少しだからね 母さんも父さんもいるから・・・少し我慢しようね ごめんね」

たくさんの管に繋がれて苦しそうにしている彰を見て 初めて彰一郎の前で涙をポロポロ流し声を殺して黙って泣きました。 彰の目にもうっすらと涙が貯まっていました。
入院が決まってから 私が見る初めての涙です。

小さい頃 泣き虫でいつになったら泣かなくなるのだろうっと思ったあの子が・・・ この入院中、私の前では今まで一度も涙を見せませんでした。 もしかしたら誰もいない所で1人 涙したのかと思うと、せつなくて、又 涙が溢れてきます。

麻酔が効いてきたのか 彰はそのまま眠ってしまいました 彰の手を握り 何時間たったのでしょうか 看護婦さんに声をかけられました
「お母さん お昼ご飯食べたんですか?お父さんと交替で食べて来て下さい。  これからは 長期戦になると思いますよ。お母さんが倒れたら何にもなりませんよ。しっかりしましょう 斎藤君だって頑張っているんだから」  
病室でメソメソしている私をそう言って励まして下さいました

「彰に頑張ろう 頑張りなさいって声ばかりかけて 母さんがこんなんじゃ しょうがないね でも母さん 辛いよ 替わってやりたいよ どうしちゃたの いったい 何でこんな事になってるの どうしたらいいの」
何処へも持っていく所のない怒りやせつなさを自分の心の中に押しつけます 主人もただじっと彰一郎を見つめていました 彰が静かに眠っているのだけが救いでした。

夕方 心理療法士の先生が様子を見に来て下さいました。
私は先生にすがって泣きました。
「お母さん 頑張ろう 辛いけど頑張ろうね」
「はい」  頑張ろう・・・



 <1999年4月8日>

4月8日 お昼頃 その日の担当の看護婦さんから 「お母さん お家はどこでしたっけ?」
「S市です」
「そうすると車ですよね?」
「はい。車で40分位かしら、混まなければもっと早く来れるん だけど・・・」
「余計なお世話かもしれませんが、今日からお母さんだけでもこちらにお泊まりになった方がいいと思います」
「ハッ?どう言う事ですか?彰がそんなに悪いという事ですか?でも 昨日のK先生の話しでは肺炎も横這いだし白血球も上がって来ているので厳しくはないと・・・そんな どういう事ですか・・・」

「ごめんなさい。先生は どう言ったかわかりませんが私達も長年看護婦をやっていますので様子はわかっているつもりです。血圧も少し下がっていますし・・・もちろん大丈夫だと信じていますが、もしもの時 お母さんがそばについていてあげないと斎藤君も可哀想だし、お母さんも後悔すると思います。差し出がましいと思いましたが、言わせてもらいました。

「向こうの部屋へ補助ベットを用意しますので そうされたらどうでしょう」
「有り難うございます わかりました 宜しくお願いします でも大丈夫ですよね 絶対に大丈夫ですよね」  
「お母さん 頑張りましょう」  
「はい・・・ K先生は手が空いていらっしゃいますか?」
「今は外来だと思います。上がって来しだいお話が出来るようにしましょう お母さんが泊まられる事は私の方から言っておきますので」

その時はとても辛い言葉でしたが、あとから考えると言いづらい事を真剣に話して下さり、彰の事を一生懸命に思って下さったのだと本当に感謝しています。
何度も書きますが、看護婦さんの優しさは心の支えでした。

その日の午後、前の夫の両親がお見舞いに来て下さりました。 
発病の頃から一度お見舞いに来たいと言われていたのです  でも、急に おじいちゃん、おばあちゃんが来ると彰がビックリしてしまうのでは  また髪も抜けて 様子が違うので両親もビックリしてしまうのではないかと考えて「もう少し待って」と先延ばしにしていました。

前の夫は何度か私達の居ない時に来てもらっていました。 離婚してから私も主人も子供の行き来にはうるさくは言っていませんでした 可愛がってくれる人は1人でも多い方がいいと思い、向こうから「どこかへ連れて行きたい」と言われればあまり気にせずに行かせていました。

だた中学に入り忙しくなった事と、また向こうも再婚した事などで少し行き来が少なくなっていた所でした。
それでも入院してからは、何度も病院へ足を運んでくれていたようです。
その朝 偶然に電話をもらいました
「彰の様子は どう?今日 休みが取れたので行こうと思うんだけれど」
「有り難うございます。あまり良くないの 昨日から自己息が出来なくて・・・」
「大丈夫なのか?」
「先生は、大丈夫と言ってるから大丈夫だと思う 大丈夫でなきゃ困る」
「俺の両親 連れていったらまずいかな・・・」
「・・・こういう時は みんなのパワ−がほしいから気を入れてやって・・・彰の為に。 でも 私がいるけど いいかしら」  
「それは かまわないと思うけど、急だからわからないけど連れて行けたら行くよ」と言って電話は切れました。
虫の知らせとは こういう事をいうのでしょうか?
彰は おじいちゃんとおばあちゃんにも別れを告げました。

午後3時 K先生が見え 「お母さん チョットこちらへ」と呼ばれました。
「今晩が山かもしれません。血圧も下がっていますし、心拍数も下がっています。今 大量のプレドニンを投与しました。他の機能に影響がありますが、今の所 これしか方法がありません。本人の体力が明日の朝迄 持ってくれれば 何とかなると思います。ただ逢わせておきたい人がいるのなら、ご連絡をされた方がいいと思います」  
「どういう事ですか?肺炎はそれ程でもないと・・・」
「わかりません。先程のレントゲンの結果では、やはりそれ程悪いとは思えません。こういう例は初めてです。全力は尽くしますので、ご承知下さい」
「何か特別な事が起こっているんですか?今晩を乗り切れば 大丈夫なんですね 何とかなるんですね」
「とにかく朝迄持ってくれれば・・・薬が効いてくれれば、何とかなります。 あとの事は またそれから考えます」

何を聞いても仕方がないのです。 でも私の中に この時も彰の死はなかったように思います。
「朝迄もてばいい 大丈夫だ」心に言い聞かせました。

すぐに主人に連絡を入れ、続いて桧田先生へ連絡をしました。 先生は、転勤先の学校なので電話番号がわからず、 I 中学へ電話を入れました。
電話口には彰が国語を教えて頂いている S 先生が出られました。 事情を説明するとすぐ連絡先を教えてくださり 「実は 今3年1組の担任の I 先生と N 先生(学年主任)がそちらへ向かっているんです。今日は始業式で斎藤君のクラスが決まったので、報告がてら向かったのですが・・・」
「そうだったんですか・・・ 今日は始業式でしたね・・・ わかりました 2人の先生には私の方から説明します」
「お母さん 大丈夫ですか?しっかりして下さい 私達も今から行きますので 頑張って下さい」
「そんな  お忙しいのに 大丈夫です。すいません」
「お母さんは こっちの事は心配しないで斎藤君のそばについていて下さい」

その後  I 中学から校長先生をはじめ、学年の先生がみんな集まって下さいました。ひとり、ひとりが彰一郎に必死に呼びかけて下さいます 「斎藤君 頑張ろう、しっかりね。頑張るんだよ 頑張れ・・・」

桧田先生も来て下さいました。安西もんも来てくれました。
いつの間にか面会時間の夜8時を過ぎ、まわりの方には帰って頂かなければなりません。
でも先生方は「大丈夫ですから」と言って廊下で待機していて下さいました。

夜9時を過ぎ 「本当に大丈夫です。皆さんからこんなにパワ−を頂いて。きっと明日の朝迄 持ちこたえられると思います。きっと大丈夫だと思います。明日の朝 学校の方へ良い知らせの電話をかけますので・・・」 と 病室の外であいさつをしている時 「ママ 来て」と娘が呼びに来ました 先生や安西もんが帰るのが淋しかったのでしょうか? 容体が急変したのです。

K先生が何本も注射を打ちます。
「誰でもいいから何とかして  お願いだから何とかして・・・母さん嫌だから 絶対イヤだから、今迄 頑張ってきたじゃない もう一度頑張って・・・ お願いだから頑張って 母さん嫌よ 絶対イヤよ・・・」

桧田先生も「頑張れ 頑張れ」と何度も声をかけて下さいます。

心臓 停止・・・・

K先生が必死で心肺蘇生をします。
ツ−と横になった心電図が一度だけ動き始めました。
これが彰一郎の私達への最後の挨拶でした。     


      父さん、母さん 頑張ったよ      

      先生、 頑張ったよ   

      でも もう駄目だよ     
      疲れちゃった     

      ごめんね       
             さようなら・・・・・    

あの子の声がどこからか聞こえてきます。


母さん 何も出来なかった。
助けられなかった。

頑張れしか言えなかった・・・・・
「ありがとう」も「ごめんね」もちゃんと言えなかった。  

これからどうすればいい・・・・・

みんなの願いも届かず、あの子は永遠の眠りにつきました。   
その寝顔は穏やかで、少し笑っているような顔でした。

寂しがりやのあの子は大勢の人達に見送られ平成11年 4月8日 午後9時50分 旅立ちました。

病院の庭の桜も散りはじめました。



      
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