[ 闘 病 記 Oー3 <1999年4月>]

   彰一郎   


 <1999年4月4日>

3階の病棟に着くと その日の担当の看護婦さんに出会う
「斉藤君 今日は少し調子が良さそうですよ。今テレビをみています」 と 声をかけて頂く。
昨日の状態を考えるとテレビなど考えられなかったので嬉しくて急いで病室に行く。

テレビでは「笑っていいとも」の増刊号をやっていました。 見ているというより眺めているという感じでしょうか
「調子いいんだって」というと首をかしげて 「別に・・・」と言う返事。
「昨日 巨人勝ったみたいよ 良かったね」 主人は巨人の大ファン。その影響で彰も巨人ファンでした。
病室には高橋、松井、清原のテレホンカ−ドを飾っていました。
「中日は?」 「中日も勝ってるみたいよ」 何故か中日の星野監督が好きで いつも中日の事を気にしていました。
「巨人vs中日戦ならどっちが勝ってもいいよ。でも星野監督に勝たせてあげたいなぁ  この人 奥さんが病気で死んじゃったんだよ。かわいそうなんだよ」と言っていた事がありました。


     彰 このシ−ズンは中日が優勝したよ。
      星野監督が胴上げされたよ。良かったね  
     見せてあげたかったなぁ〜                  
     でもお父さんとケンカになちゃったかもね  
     お父さんは とっても悔しそうだったから・・・                  


窓の外は、桜が満開でした。
彰は、体を起こすことが出来ず桜を見せてやる事は出来ませんでした。

「来年は一緒にお花見に行こうね」
「ダサいよ でも行く どこでもいいよ とにかくどっかに遊びに行きたいなぁ」
「そうだね もう少し頑張ろうね」
この約束は果たせなくなってしまいました。 今 思うと不思議な話ですがこの時点でも私の中には彰一郎がいなくなるという事は全く考えていませんでした。

白血病を宣告され5年生存率が60%といわれても、この子だけは大丈夫と何故か思い込んでいました。
ですからこんなひどい状態でも この辛さから少しずつでも助けてやりたいと その事ばかり考えていました。

4月8日にK先生から「逢わせたい人がいるのでしたら呼んで下さい。今夜が山です」と言われた時でも、最後の最後に人工呼吸をして頂いてる時でさえも、きっと何とかなる そう信じていました.

「彰一郎 頑張りなさい。もう少しだから頑張りなさい」
私は いつもあの子にそう言い続けていました 
かあさんは 嘘つきだよねぇ 彰はあんなに頑張ったのに・・・

この日、白血球30 病室でレントゲン撮影をおこなう。
軽い肺炎を起こしていると説明を受けました。 「何かご質問はありますか?」 先生の言葉に「とにかくよろしくお願いします」とだけやっと答えました。

看護婦のTさんは「お母さん、もっと文句を言っていいんだよ。先生しっかりしてよって 命預けてるんだから 強くもっといろんな事言っていいんだから」 T さんは、先日K先生と 彰の治療の事で随分言い争いをされたらしいと 他の看護婦さんから聞いていました。みんなが彰の為に必死になっています そう言う意味では この子は幸せだったのでしょうか。


 <1999年4月5日>

白血球50 とにかく白血球が上がって来てくれないと肺炎にも立ち向かえない。
咳が出始める つらそうで見ていてもつらい  足と手のツボの本を買ってきて 咳が楽になるツボを主人と押す。
「腰が痛い」と言うので腰が楽になるツボを探す。
「K先生にいつまで我慢すればいいか聞いて来て」と言う。
先生はベットまで来てくださり 「2週間頑張ろう そうすれば少し楽になるから。どうだ 頑張れるかな?」
彰は大きくうなずきました。私も2週間の言葉に少し安心しました。

先生と面談室で話をする。 「今の所 急にどうと言う事はありません。大丈夫です 肺炎もさほど悪い状態ではありません。とにかく白血球が上がってくれればなんとかなります」

2週間・・・・ 少しずつでもいい 早く良くなってほしい。


 <1999年4月6日>

白血球370  今日は私の母親の誕生日です。母と娘と良と待ち合わせて一緒に病院へ行きました。
「今日は、あ−ちゃん(私の母親のこと)の誕生日だよ。彰は お祝いするのはちょっと無理だね。
良くなったら何かプレゼントしようね。母さんの誕生日(4月26日)まで には良くなってちゃんとお祝いしてよね」 うなずく。

何か言うが聞き取れない。肺炎のせいだろう 息づかいが荒く しゃべるのも苦しそうだ。
「しゃべると咳がでるから喋らなくていいから 良くなったら話せばいいから」そう言って何か言いたげなのを止めてしまいました。

言いたい事がいっぱいあったのでしょう。 本当に悔いが残ります。

夕方 娘が帰るのを窓の近くでみていると「母さん」と呼びます。
「そばにいて ここにいて」 心細いのでしょう。母親とお姉ちゃんが帰って寂しいのでしょうか
「今ね お姉ちゃんが帰って行くのを窓から見ていたの 大丈夫よ ここにいるから、 頭のタオル 温くなちゃったから洗おうね」 「何か飲む?桃のカルピスかなっちゃん あるよ」 「桃のカルピス」 「お父さんは」 「まだみたいね 電話してみる?」   
「いいよ ここにいて」
「もう来ると思うよ」
恨めしい面会時間の終わりの鐘が鳴ります
「彰 じゃぁ 帰るからね。明日 お父さんお休みだから 一緒に来るからね。 先生に頼んで面会時間より少し早く来るからね」   
彰一郎は、首を横に振りました。
いつもは仕方なくでも「うん じゃぁ ね」と返事をするのに。 この日だけは首を横に振りました。
「彰、 お父さんやお母さんが遅くまでいる子は 重症の子だけだよ。知ってるでしょう? 彰は まだまだ大丈夫なんだからしっかり頑張らなくちゃね」 そういいながら心は揺れます。

でも 彰が一番よく知っています。親が残るという事は どうゆう事なのか。
「わかった?わかったら『うん』とうなずいてよ」  
彰は うなずきませんでした。
「まったく 甘ったれになちゃって。明日は じゃ 10時くらいに来るからね。 今日は 我慢しようね」とわざと明るく言いました。

これが彰一郎との最後の会話です。
なんてひどい母親でしょう。 寂しさや不安ではち切れそうな胸の中 どうしてもっとわかってやれなかったのか・・・
この悔いは今も一日に何度となく責めてきます。

あの日 先生にお願いして一時間でも二時間でもそばについていれば良かった。
これが本当にあの子と交わす最後の言葉になるなんて あの時は考えも及びませんでした。
とにかくあの子が私のそばからいなくなるなんて思っても 考えてもいなかったのです。


     彰  あなたはわかっていたのでしょうか            
     別れのこと・・・ ごめんね 
     何度謝っても許してもらえないよね。           

     母さん この夜の事 
     何度も何度も思い出して胸が痛くて苦しくて
     どうていいかわからなくなります
     でも いくら泣いても悔やんでも
     もう戻れないんだよねぇ
     ごめんね・・・・


      
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