[ 闘 病 記 Oー2 <1999年3月末〜>]

   彰一郎   

 <1999年3月29日>

職場の上司に仕事を辞めたいと申し出ました。
彰一郎の状態は、熱が続きあまり良くなく、そばに付いていてやりたいと話しました。 上司は状況をよくわかってくださり
「2週間ほど休んではどうだろう?その間 お店の方はなんとか自分達でやっていくから」と言って下さいました。
「今日は もう帰っていいよ」と言って頂いたので さっそく病院へ向かいました。

彰一郎は、この後 治療で白血球が下がる予定なので どうしてもその前に外泊したがったのですが、腎臓の機能が悪く外泊の許可が出ませんでした。  
それでも、面会時間の午後8時を過ぎ9時までねばって再度、腎機能の検査をしてもらいましたが、やはり無理との事で諦めました。
「お母さん 明日から少しお休みを貰ったからそばについていられるから。 明日の朝 調子が良さそうだったら日帰りでもちょっと帰してもらおうよ」 となんとかなだめる。
「朝10時に必ず迎えに来るからね」 この時 あの子があんなに帰りたがったのに・・・と思うと胸が潰れる思いです。
何が何でも一泊 連れて帰ってやれば良かった。 後となって残る悔いのひとつです。
そうして彰は、二度と家に帰る事は出来ませんでした。


 <1999年3月30日>

朝、彰との約束通り10時に病院に着きました。 病棟に上がると婦長さんがびっくりした顔で近づいてみえました。
「誰かお母さんに電話でお知らせしたんですか?」
「はぁ? いえ今日 調子が良かったら主治医のK先生が外室許可を下さると おっしゃったので迎えに来ました」
「はぁ そうですか 残念ながら外室どころではないんですよ。朝、痙攣をおこして・・・ ろれつが少し回らないようなので・・・一人で歩く事も ちょっと無理で・・・」
「どう言う事ですか? 何があったんですか?」
「K先生は 今 外来ですので戻り次第きちんと説明があると思います。本人が一番ショックを受けていると思いますので このまま今日はそばについていてあげて下さい」

病室に入ると心細そうに横になっていました。
おもわず涙が出そうになるのを飲み込んで明るく
「どうしちゃったの? せっかく迎えに来たのに」と言うと不安そうに
「変なんだよ」と、ろれつがまわらない言葉で話します。
「喋りづらいよ・・・」 昨日までは何ともなかったのに、何がこの子に起こったのでしょう。
「あとで先生にちゃんと聞いてくるから。心配しなくて大丈夫だから。きっと薬のせいだよ 2〜3日すれば良くなると思うよ」 口から出まかせな慰めを言いながら心の中では これからどうなるのだろう?と不安は広がる一方です。

午後 K先生が見えて説明を受けました。 抗ガン剤の副作用で小脳に異常をきたしたのかもしれない.
そういう事例があるという説明でした。 もう少し様子をみないとわからない 2〜3ヶ月このような状態が続くかもしれないと言う事を話されました。
歩くのもままならないのにトイレには「自分で行く」と言って聞きません.
仕方なく看護婦さんに手伝ってもらい何とか連れて行きますが大変な重労働で、主人に電話してなるべく早く来てほしいと告げました。
主人が来てから再度先生の説明を受けました。
再発のチェックをする事(再発の可能性が全くないとは言えない事)脳波を取る事などを伺いました。
何か一生懸命しゃべるが聞きづらく何度か聞き直すと
「もぉ いい」と、言うのを辞めてしまいます。

ごめんね 
明日から本当にどうなってしまうんでしょう・・・・


 <1999年3月31日>

相変わらずの様態  脳波の検査をする。 
先生の説明では、異常は認められませんでした。 腎機能がかなり悪くなっているとの事。 
このままだと透析を考えなければとおっしゃいました。これから白血球がどんどん下がって行くというのに この子は耐えられるのでしょうか  白血球を上げる注射をする。
「いつくらいまで我慢すればいい?」と聞かれる
「お母さんが思うには一週間くらいだと思うよ 頑張ろうね」 彰を慰めると同時に自分を慰める 頑張らないと・・・
吐き気がひどく 何度も吐く  全く食べていないので胃液を吐く つらそうだ。



 <1999年4月1日>

自力でトイレに行くのを諦める。ポ−タブルのトイレを病室に運んでもらう。
パジャマのズボンを脱ぐのを助けてやろうとすると 「向こうに行ってよ」と怒る。
「なに言ってるの あなたは私のお腹から出てきたのよ 恥ずかしいも何もないじゃない 全然平気よ」と言うが 
「あっちへ行って」と手伝わせてくれない。 一人で座っていることさえも大変そうなのに。  
つらい・・・・・


 <1999年4月2日>

手で呼ぶので耳を近づけると「お願い 助けて」と、ひとこと。 思わず涙があふれ廊下へ飛び出す。

K先生と出くわし「どうしましたか」と声をかけられる
「あの子が助けてって でも助けられない。私には何も出来ない どうしたら いいの」と泣いてしまう。
「お母さん 落ち着いて下さい。しっかりして下さい。お母さんがしっかり しないと 今が一番大事な時ですから。
斉藤君の前だけでは しっかりして 下さい」

わかっている だけど つらいのです 誰でもいいから あの子を楽にしてほしいのです。
夜、主人が来ると 「父さん かえりたい」と主人に 「わかった 白血球さえ上がれば連れて帰るから・・・父さんがおぶってでも連れて帰るから もう少しだけ頑張れ」 彰は、うなずきました。

私達は、本気で考えていました。 連れて帰ろう・・・ でも、それさえもかなえられない夢となってしまいました。


 <1999年4月3日>

重症患者の部屋へ移る 本人は、最後まで抵抗したとの事。
あの子は この部屋に入り帰って来ない子供のことを知っている。 もちろん他の病院へ転院したと話してあるけれど どう思っているのか・・・

気力が無くなってしまったのか 一気に悪くなった気がする。
今日からオムツを付ける オムツを買える時 体が大きく私一人ではとても無理なので
「誰か看護婦さん呼んでくるね」と 声を掛けると
「AさんかBさんはいないの?」と言います。 どちらの方も私と同じくらいの年齢でしょう。私がいない時は母親代わりに頼っている厳しいけれど優しいお二人でした。
残念ながらお二人ともこの日はいなかったけれど二人の名前は この後何度も口にしました。 どの看護婦さんにも とてもかわいがっていただき本当に感謝しています。

「お父さんはまだ?」 「お父さんに電話してみて」お父さんを何度も口にします。
不安なのでしょう。お父さんが来ると安心したのか眠ってしまいました。



      
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