[ 闘 病 記 Oー1 <1999年2月〜>]

   彰一郎   

 1999年2月


2月も安定している月でした。
2月1日に同室の男の子が1人退院となりました。またちょっと淋しくなります。この子はよく彰のベットの所で一緒にゲ−ムボ−イをしていました。まだ小学校1年生ですが「斎藤くん」と呼ぶ姿は1人前のお友達です。

お母さんの話しだと 「この子、今迄は自分のベットからほとんど離れた事がないのよ。いつも誰かが自分のベットの所に来て遊んでいて 自分から人のベットへとかは行かなかったのよ。
なのにお兄ちゃんの所は、みんなで集まっちゃって。お兄ちゃん優しいから、良く遊んで貰ってるの。この子も大好きみたいで」

「彰は下の子だからお兄ちゃん気分なのかな?でも照れ屋だからチャント面倒をみれるのかしら」
最初は「チビばっかりでうるさい」だの「つまんない」だの言っていたのが、いつの間にかいっぱしのお兄さんです。

ある時など、小さい女の子(Mちゃん)が暇で彰のベットでず〜とゴロゴロしていたそうです。
彰はMちゃんがいる為に足を伸ばして横になれず、上の方で小さくなっていたとの事。
看護婦さんが何度かMちゃんに注意してくれたらしいのですが、一向に言う事を聞かず、最後は看護婦さんが強制連行して下さったそうです。

あとでこの話しを他のお母さんから聞いて彰に言いました 「どうして『どいて』って言わなかったの?」
「別に・・・あいつも1人で淋しかったんだろう」
長く入院していると、きっと小さい子の淋しさも心の底から伝わってきたのでしょう。

3月に入り高い熱が出ているような時でも、小さい子が折り紙を持ってベットに来ると嫌な顔をせずに折ってあげていました。
あなたの優しさを神様は何故見離したのでしょう。 それとも見込まれてしまったのでしょうか・・・

この頃、ウノとかトランプをよくやりました。
小さい頃は、負けん気が強く負けると膨れたりする事もしばしばありましたが、そういう事は全くなく、どちらかというと私の方が負けて悔しがり(彰の負けん気の強さは、母さん似のようです)もう1回 もう1回と 何度もやりました。
このくらいから何となく親子逆転の兆しが見えてきました。
「全く しょうがないなぁ〜 ホント 子供なんだから」 彰にはよく言われましたっけ。

それでも妙に子供っぽい所もあり、ある日 「ネェ〜 キャラクタ−の付いたシャ−プペンとか買ってきて」 といいます。
分校で流行っているらしいのです。
「キャラクタ−ってドラエモンとかピカチュウとかの?」
「そう そう そういうのが付いてるやつ」
「えぇ〜 小さい子のじゃないの?」
「今 流行っているんだよ 何でもいいから見つけてきてよ」
「ハイ ハイわかりました 全く小学生みたいなんだから」
何本か捜して持っていってやると、それは大喜びでした。

超甘の主人は、ロッテリアのセットを買うとキャラクタ−が付いたペンを1つくれると言うので、全種類(6種類位?)のハンバ−ガ−のセットを買いペンを集めてやっていました。
こういう優しい所は彰に随分影響していたのでしょう。

子供っぽいと言えばもう一つ面白い話しがあります。
5年程前に家族で行った北海道の話しを病室でしていました。
主人が 「北海道はいいなぁ〜 そうだ 彰、大学は北海道の大学に入ればいいよ」
「え〜 いいの?でも父さんと母さん 仕事はどうするの?」
「ハァ〜・・・?」主人と私は顔を見合わせて吹き出しました。
「バカね 彰、大学は1人で行くのよ 父さんと母さんはたまに遊びに行くだけよ」
「そ〜か だったらイヤだなぁ〜 こっちでいいよ」
そうだよね 入院して離れてて淋しいんだもん あとはず〜とそばにいたいよね。
母さんだってず〜とそばにいてほしいよ。

その時の彰の「イヤだよ」が いつ迄も心に残りました。


2月最後の日曜日、 彰にとっては最後の我が家となりました。
私は月末で仕事が忙しく彰も調子が良いので、安西もんと主人に任せて仕事に出てしまいました。
安西もんと2人でたこ焼きを作りたいと言うので材料だけ用意して家を出ました。
とても楽しかったようで、その後も何度か 「また外泊したらたこ焼きをやろっと」と楽しみにしていたのですが・・・

こうやって綴っていても どの時点でも今日のあの子は信じられません。
あの子は必ず勝つと信じていました。



 <1999年3月


外泊から戻った次の日の3月1日 病院へ行ってみると熱を出していました。40℃と高い熱です。
この頃我慢強くなったのか、病気慣れしてしまったのか、ぐったりしていますが、笑顔で話しをしてくれます。 さすがに食欲は全くないようです。 この熱がこの後この子に大きな影響を与えるとは思ってもいませんでした。

先生のお話では風邪ではないか?と言う事でした。インフルエンザが猛威を振るっていた時期でしたので心配です。
せっかく点滴から離れたのに、また点滴と お友達です。 本人は期末テスト前と言う事が気になっているようで 「教科書を見て何か問題 出して」といつもより少し甘え気味です。
「あまり無理をしない方がいいよ 少し眠ったら?」
「大丈夫だから 何か問題出して 2年の3学期は結構大事だから・・・」 それから1時間程 2人で勉強しました。

3月5日 この日は 仕事がお休みで確定申告へ行き早めに病院へいきました
「あれ ○○君は?」
「うん 1室(イチシス)へ行った」
「えっ どうしたの?チョット調子が悪いのかなぁ?」
「そうみたい よくわからない」ぶっきらぼうに答えます。
ようやく打ち解けてきた1年上の男の子です。 かなりショックだったのでしょう その日はあまり口をききませんでした。
この後、残念ながらこの子はひと足早く黄泉の国へと旅立ちました。

2日か3日後でしたでしょうか。彰が 「○○君 1室にいないよ」と言いました。
「どうして?誰か言ったの?」
「名札がなかった 1室に・・・・」
「そう じゃあきっと少し良くなって他の病院へ移ったんじゃないの。 看護婦さんに聞いてみた?」
「ううん・・・・・」
「じゃあ 聞いてごらん」

ここの子供達には誰かが不幸にして亡くなると、何処か他の病院へ転院した事になっています。
その後、看護婦さんに聞いたかどうかはわかりません。 この日以来 彼の話は一度もしませんでした。

熱の中、何とか期末テストを終えました。 テストの結果はかなり良く、本当によく頑張ったと自分の子ながら感心しました。熱は 40℃、39℃と一向に下がらず抗生剤をかなり投与していました。
先生と何度かのお話では、身体に持っている菌(カビ)で白血球は下がり、体力がない所で悪さをしているのだろうというお話でした。
しかし薬はいっこうに効く気配をみせませんでした。 15日より次の治療に入る予定ですが、入れそうにありませんでした。あまり治療を遅らせるのは危険なので様子を見て次の治療へ入るとの事でした。
この時、すごく不安でした 「こんなに高い熱を出しているのに治療に入って大丈夫なのかしら」 「でも再発をしたら それこそ大変なのだから仕方がないのかしら」 この時の疑問は亡くなってからも何度も主人と話しました。

ついに3月17日 そのまま次の治療に入りました。 熱に加え、治療のしんどさで本当に可哀想でした。
それでも文句ひとつ言わずにじっと耐えていました。

3月25日は終業式です。 休みをとり早目に病院へ行くと、担任の吉田先生にお逢いしました。
「斎藤君 よく頑張りました 良い成績ですよ」
「そうですか 有り難うございます これでいよいよ3年生です。受験迄には退院出来ると思うのでこのまま頑張ってくれればいいのですが・・・」
「大丈夫ですよ。ただここにいると、どうしても受験という緊迫感にかけるので・・・その辺は考えて指導して行こうと思っています」
「そうですか どうぞこれからも宜しくお願いします」 と15分位立ち話をして病室に向かいました。

彰は、私の顔を見るとニンマリして得意そうに成績表を渡します。
「ヘェ〜 良いじゃない よく頑張ったね」 その成績は4と5だけでした。3がなくなったのは初めての事です。
「なんだよぉ〜 もっとビックリしないの?熱があったんだよ〜」 チョット不満そうです。
「だって今 吉田先生と話してきたんだもん。先生が『良い成績ですよ〜』っ て言ってたもん」
「もぅ 全く余計な事を言って〜」
「でも本当によく頑張ったね この調子でこれからも頑張ろうね 主要教科  全て5になったら良いよねぇ〜」
「全く 欲深なんだから〜 もぅそんなの無理だよ〜」
「まあ そう言わずに頑張って下さい」

この日もかなり高い熱がありました。 本人が意外と元気なので救われますが私自身も心配がピ−クに達していて少し限界でした。
いったい この熱はいつになったら下がるのだろう。 
彰は「帰りたいなぁ〜 いつ帰れるんだろう 先生に言ってよ」 と何度も繰り返していました。

「仕事を辞めよう ダメだ 彰についていよう ちゃんと向き合わないと」 何故か胸騒ぎがし、主人と話し合い仕事を止める方向へ持って行く事にしました


      
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