[ 闘 病 記 O <1998年12月〜>]

   彰一郎   

 1998年12月


12月最初の日曜日の6日。祖母の七回忌の法事がありました。
彰一郎は、白血球が高く治療の前でしたので、一緒に連れて行きました。 お寺で法事を終えて、久しぶりに親戚が集まり食事会をしました。大勢の人の中に入るのは病院以外では入院以来初めてでしたので嬉しそうです。 イトコや孫の良が目まぐるしく動くのを終始ニコニコして見ていました。

「彰にも こんな頃があったよね〜」と母
「ついこの間だったんだけど、ホントにお兄さんになったよねぇ〜」と義姉
「彰もこの位の頃は、大変だった。じっとしてなくて 父の法事の時なんか お経を聞いて真似したりしたもの、笑ちゃったよね」
話しているうちにあの頃の彰がどんどん思い出され涙が出そうになります

「早く治してやらなくちゃ」 5年位たって またみんなが集まった時 「あの頃は大変だったけど、元気になって良かったね」 と笑って話せるようにしなくちゃ、新たに心に誓いました。

12月8日からまた次の治療に入りました。
また少し辛い日々が続きます。少し慣れてきたのか、辛いながらも自分で上手く時間を過ごしているようです。ただ食欲がなくなり、病院の食事を食べるのが大変そうでした。 ちょっと不満と言えば、子供達の大嫌いな随注(骨髄注射)位でしょうか。 どの子も今度「随注あるの?」「何回?」と聞きます。
かなり痛いのでしょう。彰もある日「3回もやり直された!許せない!!1回でチャントやってほしいよ〜」と不満を漏らした事があります。
「誰だったの?」
「K先生だよ『あっ ダメだ もう1回』とか言ちゃって、こっちの身にもなってほしいよ」
「先生だってわざとじゃないんだからしょうがないでしょう」
「痛さを知らないから そんなのんびりした事言っていられるんだよ。ホント 痛いんだから・・・」
この随注の事も私にグチを言ったのはこの1回だけです 「また今回も随注 あるのかなぁ〜」 と不安そうに言う事はありましたが、グチを言う事はありませんでした。


12月は 子供なら誰でも楽しみなクリスマスがあります(大人でも楽しみですが)
当初 外泊が出来る予定でしたが、治療の関係で病院で過ごす事になりました
「つまんないなぁ〜 クリスマスに入院してるなんて・・・」
「でも、一生に一度位いいんじゃないの?人間何でも経験だから」
「こんな経験したかぁないよ」
「そうだね 病院じゃサンタも来れないかもねぇ・・・」
「サンタは 来たよ!」
「来たの?どこに?」
「昼間 先生がサンタになって来たよ おやつにはケ−キも出たし。普段外泊 でもケ−キは駄目なのにケ−キが出たよ 超うまかった」
「へぇ〜それは良かったねぇ やっぱり小児病院だから、いろいろ工夫してくれるんだねぇ」

そうこうしているうちに、今度は分校の先生や看護婦さんが手にロウソクを持って歌を歌いながら回って見えました。
小さい子達は、大喜びです。彰は照れてベットで見ていました。 少しでもクリスマス気分を味合わせようとして下さる病院や分校の先生方に心から感謝致します。

このあと告知、外泊と12月は忙しく過ぎていきました。



 <1999年1月


1月4日に病院へ戻ると さっそく次の治療にはいりました。
彰の状態は、慣解といってこの時点で白血病細胞は0になっていました。素人考えでは、せっかく0なのにこれ以上辛い治療をしなくてもと考えてしまいますが、再発を考えて、まだまだ治療は続きます。身体中の白血病細胞を徹底的にこれでもか、これでもかと叩き続けるのです。
その度に良い細胞も叩かれるのですから、たまったものではありません。
彰が亡くなる原因もこの治療です。 高く正常になった白血球を抗ガン剤で徹底的に叩きなるべく0に近くします。そうすればどこかに潜んでいるかもしれない白血病細胞もやっつけられるのです。それを薬を換え何度もくり返します。

ただ正常な白血球も減少させるので、その間病原菌に対する抵抗力がなくなりひとたび感染症を起こすと命取りになってしまいます。
亡くなった後、随分悩みました。 この時点で慣解と呼ばれ,正常な状態になっていたのに薬で殺してしまったのではないか。もちろん専門の先生が治療に当たっているのですから、この方法がベストなのはわかっています。 でも気持ちの中に「せっかく治っていたのに」という思いが消せず、苦しみました。
いろいろ病気の事を調べたりしたつもりですが、もっと知識があればとつくづく後悔します。


1月の中頃、移植部屋から1つ学年が上の男の子が病室に戻ってきました。まだ体調は余りよくなさそうでしたが、体調の良い昼間 2人でお喋りをしていたようです。 彰は、ようやく同じ位の年頃の子が病室に来て嬉しそうでした。
彼は中学3年生で受験を控えていたので、よく勉強をしていました。お父様を相手に英語や数学の教科書や参考書を開いていました。

主人と帰りの車の中で笑いながら話しをしました。
「うちとは対照的ね。私が行ってみると彰とあなたは2人でいつもマンガを読んでて、私はといえばチビちゃんとゲ−ムボ−イをやったり彰とウノをやったり。親がこれだから彰には 望めないねぇ〜」
「それぞれ、やり方があるんだからいいんだよ 彰はかえって親は頼れないから自分で勉強しようと思うかもしれないぞ」
「そうか。そう言う事もあるか・・・・」
それからも主人と彰の会話は、ほとんどがマンガか食べ物の話しでした。どちらかというと私より主人は甘く、今だから言えるのですが、そっと食べ物やジュ−スを持ち込んで彰に渡していました
「お父さん 頭いいんだョ みかんを持って来る時 むく時に匂いがするからってチャントむいてきてくれるんだよ」
彰が得意気に言います。
でも、マクドナルドのハンバ−ガ−にはびっくり どうしたって匂いがするのに 主人は「大丈夫だよ わかんないよ」と言ってききません。 今思うと有り難い事ですが、その時はヒヤヒヤものでした。


この頃は 彰の病症も本当に安定していて死の恐怖≠ネどみじんも感じさせませんでした。




      
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