[ 闘 病 記 I−2 <中学校の先生>]

    担任の先生  

 <中学担任の桧田先生>


期待と不安いっぱいの中学校生活初日 クラスの割り振りもそうですが、担任の先生も気になるところです。 入学式の日に出会った先生は、若くてエネルギッシュで男の子の彰一郎にはお兄さんのようでいっぺんに気に入ったようでした。
しかも小学校の頃から算数が大好きだったので桧田先生が数学の先生という事になれば学校生活は 自然と楽しいものになっていきました。 「桧田先生がねぇ〜」「桧田先生ったらねぇ」と桧田先生の名前を連発します。

人生の中で 自分の生き方に影響を与える人が何人かいると思いますが彰にとっては桧田先生が最初のそういう人だったのではないでしょうか。

運の良い事に中学2年生のクラス替えでも担任は桧田先生でした。彰の喜びようは相当なものです。又このクラスはまとまりがありとても仲が良く「最高のクラスなのに」と彰は離れなければいけない事をとても悔しがっていました。入院前の体育祭ではクラスが優勝して喜んで帰って来ました。 クラスのみんなは優勝の打ち上げを「彰が退院する迄待っている」と言って下さいました。
結局は出来ませんでしたが・・・・ 3年生になるとクラス替えがあるので、その前に何とか1日だけでもクラスに戻してやりたいと先生は随分力になって下さいました。

2月の終わりの外泊の時 我が家に遊びに来て下さり焼き肉を食べ主人とビ−ルを飲みながら、何とか髪の毛の事を克服させようと説得して下さいました。
3年生になれば修学旅行もあります。 中学生最後の思い出に体調次第ですが何とか参加させたいと思っていました。

主治医の先生も「治療のあい間の白血球の高い時期であれば良い」と言う お話でした。その前に学校へ足を運べるように一番の難関の髪の毛の事を何とか克服しなければなりません。いろいろ話しをして行くうちに彰も大丈夫という確信が出来たのか3月の体調の良い時に先生の許可を頂き、I 中学校へ登校させてもらう事にしました。
まさかその夢も叶わず逝ってしまうなんて・・・ この時 誰も思い付かなかったでしょう

「彰 病気も悪くないよね。だって、桧田先生と家で焼き肉してお父さんとビ−ル飲んで、そんな事なかなか出来ないものね。桧田先生は人気者だから、みんなが聞いたらうらやましがるよ」
「うん」まんざらでもない笑顔です。
この日、先生に彰はプレゼントをしました。 病院の学校で陶芸をさせて頂き、いくつかの焼き物を持って帰って来ていました。どれも良く出来ていて味わいのある作品です。 その中のひとつ、小鉢をプレゼントしました。まさかこれが彰の遺品となってしまうなんて・・・ 本当に自分の病気に対する甘さに腹がたちます。

桧田先生は入院中の彰をよく見舞って下さいました。2週間に1度は、必ず来て下さり学校のお友達の手紙を持ってきたり、クラスや学校の様子をお話したり、最後は必ず将棋をして帰って行きました。 この将棋では彰は最後迄一度も勝てなかったようです。 よほど悔しかったのでしょう。将棋の本を貸して頂き必死で読んでいました。ゲ−ムボ−イの将棋のカセットも買い研究していました。


3月に入り少し熱がある時でも桧田先生の顔を見ると元気になりました。中学校のほかの教科の先生方も「病院の学校とは色々と違うだろう」とプリントを桧田先生に預けて下さったり、わざわざ持ってきて下さったりしましたが、なかなか他の教科のプリントには手が出ませんでした。
でも数学だけは中間テストや期末テストのプリントを貰ったらすぐその場で挑戦していました。
「どうだ今回はチョット難しいかな」
「そうでもないよ まぁまぁだね」生意気な事を言います。
彰一郎は桧田先生を心から尊敬していたと思います。 そして大好きだったと・・・

「3年生になったら担任が替わっちゃうんだよね」
「先生が持った方がいいのかな?」
「もちろんだよ。2年生は半分しか学校に行ってないし 3年生に急に戻って違う先生じゃ不安だよ」
「先生でいいなら何とかしてあげられるように 校長先生や他の先生と話し合ってみるから、きっと大丈夫だと思うよ 他に誰か一緒のクラスになりたい人がいたら言ってごらん。全部は無理だけど少しは希望を入れてあられるから」。

彰は3〜4人の男の子の名前を伝えました。
「女の子はいいのか?誰かいないのか?」
「女は いいっすョ 誰もいないっス」照れて答えています。
あとから私は 何気なく気に入っているだろう女の子の名前を言っておきました。


こうして学校側も先生方も本当にいろいろな事を考え、彰が戻る日の為に力を尽くして下さいました。
3年生の彰一郎のクラスは 素晴らしいメンバ−でした。彰が戻りやすいように本当に配慮して下さいました。
残念ながらこのクラスのメンバ−になった日に旅立ってしまいましたが・・・・ 3月に入り熱が下がらず2年3組へ登校するのは無理となり仕方なく3月の半ば 学校へ彰のメッセ−ジを持って訪ねました。

帰り際 わざわざ玄関迄 校長先生と桧田先生が見送りに来て下さいました。
校長先生:「お母さん 桧田君が言いづらいようなので代わりにお伝えします。実は桧田君 この I 中は今年度一杯という事に決まったんですよ」
「えっ?先生本当ですか?そんな・・・うそですよね。彰一郎になんて伝えたらいいのか私自身も心細くなります。これからどうしたらいのか・・・」
「お母さん お気持ちはわかります。桧田先生自身も斎藤君の事が心残りで お母さんに言い出せないでいたんです。でも 他の学校に行っても桧田先生は斎藤君の事をしっかり見守っていてくれると思いますし、私達もこれからも全力で協力しますので安心して下さい」
「有り難うございます。でも彰に何て伝えたらいいのか・・・」

桧田先生:「斎ちゃんには僕から話します。お母さんは それまで黙っていて下さい。僕は これからも斎ちゃんと関わっていくつもりですし、そのあたりの事を僕の方からきちんと話しますので」
「はい、すいません。あまりにビックリしてしまって 宜しくお願い致します」
「終業式が終わったら逢いに行きますので待っててくれと伝えて下さい」
「有り難うございます」


先生はその後 3月30日 彰一郎の調子が悪くなった日に訪ねて下さいました
桧田先生:「すいません いろいろ整理とかあって来るのが遅くなってしまって・・・ 斎ちゃん どうだ 今日はチョット具合悪いのかな?」
「ええ 今日急に具合が悪くなってしまって 話しもしずらいみたいで・・・」
彰は先生にチョット会釈をしただけで反対側を向いてしまいました
「そうだ 先生 彰の成績表見てやって下さい。すごく良かったんですョ」
「そうですか それは良かった 是非 見せて下さい」
先生にお見せすると 「斎ちゃん 熱の中よく頑張ったね すごいじゃないか これなら学校に戻っ てきても安心だな」

彰一郎は よほど調子が悪かったのかチョット振り返っただけで又 向こう側 を向いてしまいました。
桧田先生:「今日は帰ります。また調子の良い時にゆっくりと来ます。斎ちゃん 今日は もぅ 帰るな」
彰一郎:「有り難うございました」 ろれつのまわらない言葉で話します。
普通じゃない彰の様子に先生もビックリされたようです。

エレベ−タ−の前迄 先生を送りがてら今朝からの様子をお話しました
「僕の転勤の話しは また今度にします。これから僕も少し忙しくなりますが体調が良くなってきたら連絡を下さい。来ますので・・・お母さんも大変だと思いますけど頑張って下さい。何かありましたら何でも言って下さい 力になりますので」
「有り難うございます 今迄は担任の先生なのでつい甘えていましたが、これからもご迷惑をかけるかも知れませんが 彰の事宜しくお願い致します。あの子 先生が大好きなんです」
「わかってます 大丈夫です とにかく体調が良くなり次第連絡下さい」 と 帰って行かれました。

この後 先生への連絡をしたのは、まさかの4月8日  あの子が亡くなる日の夕方です。
先生は転勤先の学校からすぐ駆けつけて下さり、亡くなる時迄手を握り 彰に呼びかけ励まし続けて下さいました。
亡くなった次の日には自分の学校を休み I 中学へ出向き3年生になったばかりの生徒達に彰の死を話して下さったそうです。

亡くなってからも、つい甘えてしまい いろいろ相談に乗ってもらっています。転勤で一人暮らしになられたのですが ご実家がこちらの近くにあるので、こちらへ戻られた時には寄って下さりお線香を上げ、主人のお酒の相手をして頂いています。


彰があと15年たったら こんな男の子になっているのでは・・・? と 思いを馳せる事もあります。


本当に桧田先生が担任の先生で良かったと心から思います。
有り難うございました。



      
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