[ 闘 病 記 I−1 <彰一郎という子>]

    彰 一 郎  

 <彰一郎という子>

小さい頃は とにかく「やんちゃ」という言葉がビッタリでした。 上の子が女の子でおとなしかったせ
いでしょうか  よく「あなたを産んで人格が変わったワ」などと冗談とも本気ともつかない話しをしま
したネ。 産まれる時は大変で 微弱陣痛の為に3日がかりのお産でした。 実際に分娩台に上がっ
た時はクタクタに疲れていて、思わず 「もぅやめます」などと弱音を吐き 助産婦さんに 「入れたんだ
から自分で責任を持って出しなさい」 とすごい剣幕で怒られ半泣きで産みました。

2人目の子は お産が楽だと聞いていたので大きな誤算でした。
そんな辛い思いをして産んだのですから「オギャ−」と言う泣き声を聞いた時は 大感激でした。
すぐに私の横に連れて来てくれたのですが嬉しくて 嬉しくて・・・  あの時の気持ちは今もしっかり
と覚えています。 授乳室でも 他の赤ちゃんに比べてどの子よりもかわいく思えました。

出来る事ならあの頃に戻って もう一度あなたを育てたい。
今度は、病気になどならず いつまでも元気で・・・ 本当にあの頃に戻れたら もっと時間を大切に
して  いっぱい いっぱい 一緒に遊んで 片時も離れずに・・・・
あなたがいなくなってから いつもあの頃の、あの時の、あの時間に戻れたらと思いを巡らせていま
す。 絶対に戻れない時間、わかっているのに また考え込んでしまいます。


彰の「やんちゃ」と言えば思い出す事があります。
3歳まで過ごした所は、一軒家で隣が畑でした。 ある朝 すぐ近所の家のゴミ焼きの為の穴に20本
位の大根が投げ入れられていました。近所の人は その穴を囲んで大騒ぎです。
「誰のいたずらなんだろう」 「ひどいいたずらだ事」などと話していました。
昨日 そう言えば近くの子と2人で彰はどろんこで帰って来ました しかも大根が1本・・・ 
私は家に急いで戻り彰に聞きました「昨日 大根を抜いて穴に入れたでしょう?」
彰は悪びれもせずに 「うん 疲れた・・・」
「え〜 本当にやったの もぅ〜 何やってるのよ」と とにかくビックリ。 急いで畑の方の家に彰を連れ
てお詫びに行きました。
畑の方は とても良い方で 「少しほっぽておいた大根だから別にいいわよ 
良かったらご近所に配って食べてちょうだい でもよく抜いて運んだわね 大変だったでしょう」
「うん、大変だった でも面白かったよ」
「そぅ それは良かったわネ でも もう畑には入らないでね。畑には生きている物がいっぱい居るの
よ踏みつぶしちゃたりしたらかわいそうだら・・・ わかってくれる?」と優しくおっしゃいました
「うん わかった もぅ入らない ごめんなさい」 素直に謝ったものの これが始まりでこの後何度も
「こら−  彰!いい加減にしなさい」 そのやんちゃが治まってきたのには理由があります。

実は私は今の主人と再婚しました。2人の子供を連れて 彰一郎が小学校の低学年の頃です。
彰一郎は 主人によくなつき友達のように仲良く遊び ときはケンカもしていました。 
しかし、娘は少し違ったようです。 私の生き方への反発なのか上手に甘えられないジレンマなのか
また私を主人に取られてしまったという寂しさの反動なのか 中学校に入ると反抗的になり、自分の
子供なのにどうしてよいのかわからずほとほと手を焼きました。
児童相談所へ娘と2人でカウンセラ−を受けに行った事もありました。

私自身 自分がいけなかったのかと自分を責め娘を甘やかし過ぎてしまったのでしょう。娘の反発
はエスカレ−トする一方で 中学校の先生方にも随分ご迷惑をおかけしました。
そんな姉を見てきたからでしょうか 私が1人で泣いている姿を見てたからでしょうか 彰のやんちゃ
はその頃から治まり私や主人にとても気を使う優しい子になりました。


その娘が中学卒業の日 私に妊娠を告げました。
頭を何かで強く殴られたような気がして頭の中が真っ白になりました。
娘は「結婚して子供を産む」といいます。 それからの大変さは並大抵の事ではありませんでした。
もちろん私は女です  母親です 生命がどんなに大切なものか充分にわかっています
しかし今の状態では・・・・ でも とても実の娘に「子供は 降ろしなさい」とは言えませんでした。
しかも相手の子も「一緒に頑張っていきたい」と言ってくれているのですから第一の難関は主人で
した

主人は男です なかなか納得してくれません ましてや娘の将来を考えれば手放しで良かったとは言
えなくて当たり前です でも 私の中では甘えがあり「どうしてわかってくれないのだろう 娘が実の子
じゃないからわからないんじゃないか だったら一緒にはいられない 私はやっぱり娘を守っていか
なければ」などと思い込んでいました。

彰に言いました 「お父さんは お姉ちゃんの事 反対で許せないって言うの でもお母さんは お姉
ちゃんに赤ちゃんを産ませてあげたい お父さんが理解出来ないのなら お父さんと別れようと思う
の」。
「なに言ってるの オイラはイヤだよ。オイラは お父さんとここに残るよ オイラ お父さん好きだか
ら気が合うんだよ オイラの事も少しは考えてよ」
当然の答えです ごめんね 母さんは大切な事忘れてたよね  彰のお母さんでもあるんだよね 大変
な時は 家族力を合わせて乗り越えるんだよね だから家族なんだよね 私は 彰の言葉に目を覚
まされた思いでした もう一度主人とよく話し合い理解してもらい 何とか出産にこぎ着けました。


生まれた子は「良」と名付けられ今では 彰の上をいくやんちゃぶりです。
私や主人は、彰を亡くした後 随分この子に慰められました。 この後も彰に何度かハッとさせられる
言葉を言われた事があります グチで娘ムコの事を 「もぅ 子供がいるんだからあのス−パ−サイヤ
人(ドラゴンボ−ルに出てくる人物)の頭とピアス いい加減に辞めればいいのにね」と 言うと 「あ
んなに若くしてお父さんになったんだよ せめてその位は 許してあげな いとかわいそうだよ そん
な事まで言われたらイヤになちゃうよぉ」   確かにそうだと思いました 思わず 「そうだね真面目
にちゃんと働いてくれるだけありがたいのに そぅだよね」 と 関心して言いました

日頃から娘には「ただでさえいい加減に思われるのだから 服装とか髪型とかはきちんとしなさい」
とうるさく言っていましたが この彰の言葉で少し言うのを控えるようになりました。
入院してからも 最初の頃こそわがままでしたが どんどん強く優しい子になっていきました。
そして どんどん大人になっていきました。
中学の学年主任の先生がお見舞いに来て下さった時に彰が言ったそうです
「姉がいろいろ迷惑をかけ(娘の時もこの先生が学年主任でした)また僕までがお世話をおかけして
しまい申し訳有りません」
先生は ビックリなさったそうです 本当に人に気を使い 気のつく子でした。
けれどちょっと外面が良く 私には甘えてわがままを言っていましたっけ・・・
入院前は悪たれも随分ついていたのでしょう  今となっては それさえも懐かしく恋しくなります。

亡くなってから いろいろな方に言われます 「いつもニコニコしていて明るく挨拶する素直な子だった
よね」 同級生にも 「斎ちゃんの『おはよ〜』が懐かしい 誰にでも斎ちゃんからおはよ〜って声をか
けてくれるんだよね」
私の知らない彰一郎がそこにいます でも、挨拶に関しては本当にちゃんと口にする子でした
特別うるさく言った覚えはありませが「行ってきます」は 多い時には出て行くまでに5回位言います。

「おはよう」「おやすみ」「いただきます」「ごちそうさま」「ありがとう」 どれもはっきりと言う子でした。
入院中も看護婦さんや先生方に 自然と「有り難うございます」と言う言葉が出ていました。
もしかしたらあたなたは一生分の挨拶をして何処かへ行ってしまったのかしら
あなたの「行ってきます」が懐かしいなぁ いくら耳を澄ましても2度と聞こえてきませんね

入院中にもう一つ あの子が言い残した言葉があります
「小学6年生の時 教頭先生が『幸せだと思う者 手を上げてごらん』とクラスのみんなに言ったら
パッと手を上げたのがオイラ1人だったんだよ あの時は一番幸せだったのに今は一番不幸にな
ちゃった やだなぁ〜」
「へぇ〜 彰 幸せだったんだ クラスで1人だけだったの?」
「そうだよ 1人しか手を上げないんだもん カッコ悪かったよ」

私は この言葉が今もとても救いになっています あの時 ああしていれば良かったのにとか こう
していれば良かったとか・・・ その中の1つに離婚・再婚が大きく 心を揺さぶります
でも あの時 彰一郎が幸せだと言ってくれた事が 今の私にはとても救いなのです
彰一郎は あの時 この日をわかっていたのでしょうか わかっているわけなどありませんよね


少し生意気になったある日 車の中での会話です
娘に「そう言えば受験の面接の時『尊敬する人物は?』って聞かれなかった?」
「聞かれなかったと思うよ」
「彰も本とか少し読まないと・・・尊敬する人物なんてわかんないでしょう でもいいかぁ 両親て言え
ばいいよね」
「えっ?両親?尊敬してないヨ?」
「えっ?あなた お父さんもお母さんも尊敬してないの?」
「尊敬なんかしてないヨ でも感謝はしてるヨ」
「ふ〜ん 感謝はしてるんだ でも尊敬されてもいいと思うけど」と少し文句を言いましたが「感謝し
てる」という言葉にチョット嬉しかった母さんです

こういう風にその度 言葉できちんと伝えてくれる子供だったようです その反面 母親の私の方は
誉めたり、おだてたりと言うのが苦手でよく怒られましたっけ・・・
「母の日」、 いつも別にこの日を意識した事はなく カ−ネ−ションを貰えば嬉しいなぁ〜と思う程度
だったのでしょうか
でも今年の母の日は つらい・・・・ 今迄 何気なく見ていた光景でした カ−ネ−ションを抱える子供
達を見かけると、今迄の幸せが改めて思い知らされます。

去年の母の日 今迄の母の日の事は、あまり覚えていないけれど去年の事だけは鮮明に覚えてい
ます。
主人と買い物から帰って来ると、マンションの通路でどこからか帰って来た彰と出会いました。
手には赤いカ−ネ−ションの鉢植えを持っています 「ハイ!」ぶっきらぼうに私に手渡します
「あれ?お小遣いなかったんじゃないの?」
「友達と桃太郎(ファミコンショップ)へ行って要らないカセットを売ってきたんだヨ」
「あっ そうなんだ それは有り難うね 綺麗だね」
「何だよ せっかくそんな思いまでして買ってきたのに もっと喜んでよ まったく〜」
本当はすごく嬉しいのですが、元々照れ屋の私は 喜びを表現する事があまり得意ではなく
子供達によく「もっと喜んでよ」と言われていました
「ワァ〜 ホンと嬉しい!ケイコ(私の名前)感激!」とふざけて言うと
「もぅいいよ 来年は 絶対買ってこないから」と言われてしまいました
本当のホントで 最後になってしまいましたね 母さん すごく嬉しかったんだよ 
きっとわかってくれたよね


入院していると 看護婦さんや先生と過ごす時間が長いので、とても心配になります。
ちょっと無愛想で厳しい看護婦さんをみるとつい聞いてしまいます
「あの看護婦さん 厳しいね 何か言われてない?」
「そんな厳しくないよ そういうふうに見えるだけだよ みんな優しいよ いい人ばっかり」
「嫌いな人 1人位 いないの?」
「全然 ホントいい人ばっかり!」
無理しているとは思えません。 本当にいい方に囲まれ可愛がって頂きました 彰一郎の人徳も
あったと、ちょっと自慢に思っています

こうやって振り返ると 彰一郎という子には 自分の子ながら教えられる事がたくさんあったような
気がします

辛くて、辛くて、切なくて眠れない夜 自分を励ます方法のひとつで、いろいろな想像をします
実は、彰一郎が天国では私の先生で 劣等生の私は下界に降りて来て修業をしています。
先生(彰)は 私を試す為に私の子として生まれてきます。 いろいろな辛い事を乗り越えて、
チャント成長した私を見て最後の卒業試験をして、あなたは先に帰ったのでしょうか 
そうだとしたら私は落第です  この悲しみを乗り越える事が到底出来そうにないから・・・     

   死とは どういう意味があるのでしょうか     
   運命とは どういう物なのでしょうか    
   本当に素直な優しい良い子でした    
    いったい彰一郎が何をしたというのでしょう    
   いくら考えても答えは出ません    
   彰 母さん 本当にあなたが大好きです    
   「今頃誉めても遅いよ」     あなたの声が聞こえてきそうです


      
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