「舞姫」資料



『舞姫』論争

石橋忍月『国民の友』(明治二三・三)
 「舞姫」の意匠は恋愛と功名と両立せざる人生の境遇にして、此境遇は処せしむるに小心なる臆病なる慈悲心ある情送E気なく独立心に乏しき一個の人物を以つてし、以て此の地位と彼の境遇との関係を発揮したるものなり。情葬略情送}も太田なるものは恋愛と功名と両立せざる場合に際して断然恋愛を捨て功名を採るの勇気あるものなるや。曰く否な。彼は小心的臆病的の人物なり。彼の性質は寧ろ謹直慈悲の傾向あり。理に於て彼は恩愛の情に切なる者あり。「処女たる事」を重ずべきものなり。夫れ此「ユングフロイリッヒカイト(処女たる事)」は人間界の清潔、温和、美妙を支配する唯一の重宝なり。故に姦雄的権略的の性質を備ふるものにあらざれば之を軽侮し之を棄却せざるなり。

森鴎外「舞姫に就きて気取半之丞に与ふる書」(『しがらみ草紙』明治二三・四)
 処女を敬する心と、不治の精神病に係りし女を其母に委託し、存活の資を残して去る心とは、何故に両立すべからざるか。昔太田がエリスを棄てたるは、エリスが狂する前に在りて、其処女を敬したる昔の心に負きしはここなりといはば、是れ弱性の人の境遇に駆られる状を解せざる言のみ。太田は弱し。其大臣に話したるは事実なれど、彼にして家に帰りし後に人事を省みざる病に罹ることなく、又エリスが狂を発することもあらで相語るをりもありしならば、太田は帰東の念を断ちしも亦知る可らず。彼は此念を断ちて大臣に対して面目を失ひたらば、或は深く慙恚して自殺せしも亦知る可らず。臧獲も亦能く命を捨つ。況や太田生をや。其かくなりゆかざりしは僥倖のみ。此意を推すときは、太田が処女を敬せし心と、其帰東の心とは其両立すべきこと疑ふべからず



『舞姫』の真実
 
小金井喜美子(実妹)『森鴎外の系族』 
 あわただしく日を送る中、九月二十四日の早朝に千住からお母様がお出になつて、お兄い様があちらで心安くなすつた女が追つて来て、築地の精養軒に居るといふのです。私は目を見張つて驚きました。(中略)
 大急ぎで又お帰りでした。八日お帰りの晩に、お兄様はすぐ其話をお父様になすつたさうです。ただ普通の関係の女だけれど、自分はそんな人を扱ふ事は極不得手なのに、留学生の多い中では、面白づくに家の生活が豊かな様に噂して唆す者があるので、根が正直の婦人だから真に受けて、「日本に往く」といつたさうです。踊もするけれども手芸が上手なので日本で自活して見る気で、「お世話にならなければ好いでせう」といふから、「手先が器用な位でどうしてどうしてやれるものか」といふと、「まあ、考へて見ませう」といつて別れたさうです。
 其晩千住で打合はせての翌日精養軒で、初めて事件の婦人、名をエリスといふのに逢つて話して来ました。心配になるので早速に、
 「どんな様子の人ですか」
 「何小柄な美しい人だよ。ちつとも悪気の無ささうな。どんなにか富豪の子の様に思ひ詰めて居るのだから。随分罪な事をする人もあるものだ。」
 それだけしか話しませんかつた。それからエリスの気持を柔らげ、こちらの様子をも細かに程々話して聞かす為に、暇のあり次第、毎日主人は精養軒に通ひました。(中略)
 かれこれしてゐる中日も立つてだんだん様子も分つたと見え、あきらめて帰国仕様かといひ出したさうです。そこで日を打ち合はせてお兄様もお出になり、色々と相談していつの船といふ事もきまりました。それが極まつてから、忙しいので二三日間を置いて又精養軒へ行つて見ましたら、至つて機嫌よく、お兄さんと一緒に買物したとて、何かこまこました土産物を並べて嬉しさうに見せたさうです。手仕事に趣味のあるといふ人だけに、日本の袋物が目にとまつて種々買つたさうでした。其無邪気な様子を見て来て、
 「エリスは全く善人だね。むしろ少し足りない位に思はれる。どうしてあんな人と馴染になつたのだらう。」
 「どうせ路頭の花と思つたからでせう。」
 帰国ときまって私はほつと息をつきました。旅費、旅行券、皆取り揃へて、主人が持つていつて渡したさうです。
 十月十六日午後に築地へ往き、落会つてお兄様とエリスと三人連れで横浜へ着きますと、お兄さんが早くからすつかり用意して待ち受けてゐられました。夕食後には一緒にそこら散歩して、馬車道、太田町、弁天通などへも往つたさうです。翌朝早く起き、七時に艀に皆乗り込んで、仏蘭西本船まで見送つたのです。人の群の中に並んで立つて居るお兄様の心中は知らず、どんな人にせよ、遠く来た若い女が、望みとちがつて帰国するといふのは、まことに気の毒と思はれるのに、舷でハンカチイフを振つて別れていつたエリスの顔に、少しの憂ひも見えなかつたのは、不思議に思はれる位だつたと、帰りの汽車の中で語り合つたとの事でした。
 エリスはおだやかに帰りました。人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けて居る。哀れな女の行末をつくづく考へさせられました。(中略)誰も誰も大切に思つて居るお兄様にさしたる障もなく済んだのは家内中の喜びでした。(下略)



「舞姫」執筆の動機

渋川驍『森鴎外』 
 当然鴎外は、賀古(相沢のモデル)にエリス問題を打ち明け、いかに対処するかを相談したのにちがいない。そのため賀古は、陸軍省方面の非難を食い止めるために、山県有朋(天方伯のモデル)に事情を打ち明け、助力を求めたのではないだろうか。

平野謙『芸術と実生活』 
 『舞姫』の公表は登志子に対する一種の挑発ではなかったか。いや、登志子への挑発というかたちを通じて、峰子(母)に対する無言の反抗を企てたのではなかったか。スキャンダルもみけしをかえって立身出世の地がために転じたその母親によって代表される家族エゴイズムに心ならずも屈服しながら、その屈服のなかからの反逆として『舞姫』は書かれたのではなかったか。

稲垣達郎『近代文学鑑賞講座』 
 日本の官僚機構への、そしてそれから脱れようとして脱れえずにある美しい人間らしいものを見捨てたおのれ、すなわち豊太郎の「弱き心」への、そしてまた、その弱き心を断絶して官僚機構の中で意識的、行動的に立ち働くおのれ、すなわち相沢謙吉へのいずれともわかち得ぬ「恨み」をモチーフとして書かれたといえるであろう。


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