第五段 教材観 「なんらの悪因ぞ」という言葉で、豊太郎はエリスとの出会いが不幸の始まりであると考えたことがわかる。ただし、これは2年後の船中でである。当時はそうは思っていなかっただろう。また、「不幸」とは何を指しているのか。エリスが発狂したエリスを残して帰国しなければならなかったことか、エリスのおかげで出世の道を踏み外したことか。 ドイツの狭い日本人社会では、男女の関係はすぐに広まる。ましてや、エリート留学生と場末の舞姫の恋である、しかも、豊太郎は留学生仲間に妬まれていた。その噂はすぐに官長の耳にはいる。豊太郎をよく思っていない官長は豊太郎を切る絶好の機会だと思ってすぐに公使館に連絡する。あとは、事務的に流れてクビになる。 これは、上司に逆らうことが社会的にどういう意味を持つかを知らずに反抗した豊太郎の責任である。また、危険な状況で舞姫とのスキャンダルがどういう結果をもたらすかを考えずに交際を始めた豊太郎の責任である。幼い関係ならいいと思っていたかもしれないが、豊太郎は状況をあまりにも甘く見過ぎていた。 即刻帰国すれば帰国の旅費を出すというのは国の温情である。当然残留すれば援助は打ち切られる。豊太郎は、帰国すれば学問が成就せずに汚名のみ残ることになり、出世の道はない。残留するにしても学問を続ける学費を得る手だてがない。 いずれにしても、学問を続けたいというのが豊太郎の夢である。それで、身を立てたいという贅沢な願いである。今の状況ではどちらも成り立たない。また、母親の期待もある。女手一つで育ててくれた母の恩に報いるために、出世して帰国しなければならないという宿命がある。 そんな中、2通の手紙が来る。母の手紙と母の死を知らせる親族の手紙である。 母の手紙はこれが最初ではないだろう。また、豊太郎も留学後まめに母に手紙を出していたのだろう。最近の手紙には、自我に目覚めて、歴史や文学に興味を持ったこと、官長に自分の意見を主張するようになったこと、もしかしたらエリスとの交際も書いたかもしれない。マザコン豊太郎はそれぐらいのことは書きそうである。だから、母の最近の手紙には、最近の豊太郎の体たらくを叱咤する内容も書いてあったのだろう。 そして、母の最後の手紙の内容は、母の死の原因は何か。母の死は豊太郎への諫死で、それを告げる手紙だという説がある。豊太郎の解雇を知って、夫や先祖に申し訳ない、また豊太郎を死を以て諫めるために自殺するのである。 しかし、手紙は船便だから早くても1か月かかる。とすれば、それ以前に豊太郎の解雇を知らなければならない。ところが、豊太郎が解雇を言い渡されて1週間の猶予を得て思案している内に母の手紙を受け取る。とすれば、母の手紙は、豊太郎の解雇を知る前に書いたことにならざるを得ない。 とすれば、母の最後の手紙には、ことさら新しいことが書かれているわけではなく、いつも来る手紙が母の死によってたまたま最後の手紙になったということになるだろう。そして、母の死は病死である。しいて内容を推察すれば、最近の自分の健康状態や豊太郎の変化を憂う内容が書かれてあったのであろう。 母の死を豊太郎がどのように受け止めたのか。自我に目覚めていい気になっていた自分を反省しもう一度やり直そうと考えたのか、母の期待や母のために帰国しなければならないという重荷がとれて解放的になったのか。いずれにせよ、心の大きな支えを失ったのは事実である 一方、エリスとの関係はどうだったか。エリスが免官を察知した時、それが自分のせいであると知り、母には免官を内緒にするように言った。エリスの母は豊太郎の官費が目当てであって、解雇された豊太郎とエリスの交際を許さないであろう。これは、エリスが学資目当てでなかった証である。エリスは豊太郎との愛情生活を望んでいたのである。 豊太郎もエリスとの愛欲生活に入る。帰国か残留かの人生最大の岐路にありながら、豊太郎の思考はエリスへの愛欲の前に停止してしまった。この時も、エリスとの出会いの時と同様に、恍惚状態になっていた。この時、豊太郎が母の死を知っていたのかどうかの時間的な順序は分からない。母の死を知ってのことなら不謹慎となるのだろうか。また、肉体関係後に母の死を知ったなら、エリスが母代わりになったのかもしれない。 そうした豊太郎のモラトリアムを助けたのは、エリスが同居できるように計らってくれたことと、後に豊太郎の運命を再転換させる相沢が職を紹介してくれたことである。これからしばらく辛いけれども楽しい生活が始まる。豊太郎にとって、都で母と暮らした3年間以来の、束の間の安息の日々である。 しかし、豊太郎の脳裏にいつもあるのは学問である。それは「我が学問は荒みぬ」と2回も繰り返していることからわかる。この情念は、今はマグマのように豊太郎の奥底に眠っているが、いつ爆発するかわからない。 指導のポイント 人生の岐路に立った豊太郎が悩んでいるのは学問の成就であることを確認する。その大きな要因であった母親の死の意味を考える。にもかかわらず続くモラトリアムについても考える。また、現実には母親は死んでいないのに小説の中では死んだことにした理由も考える。 書いてないことは大問で、書いてあることの確認は小問で質問する。 展開(板書は緑色)(質問は赤色) 1.「学習プリント第五段」を配布する。 2.「ああ、なんらの悪因〜運びを妨ぐればなり」を口語訳し、舞姫チェック1〜8をさせる。 3.「7.エリスとの幼い交際が始まる」をまとめ、質問する。 ・悪い結果をもたらす原因であったと回想している ・エリスとの交際が原因になって免官になったことを後悔しているのか。 ・エリスを発狂させたことへの後悔か。こちらは先を読まなければわからない。 ・今後の展開に注意する。 4.「8.免官になる」をまとめ、質問する。 1)原因 ・エリスとの交際を、留学生仲間が中傷し密告したから。 ・官長がすぐに公使館に報告したから。 ・第四段で書いていた「冤罪」に当たる。 ・今まで営々として築いてきた栄光が、はっきりした形で崩れた。 ・状況を甘く見過ぎていた。 ・自我に目覚めた代償。 2)条件 a)帰国→旅費を支給する。 b)残留→援助を断ち切る。 ↓ ・一週間の猶予をもらう。 大問5 なぜすぐに帰国を決意しなかったのか? ・免官になって帰国しても出世の見込みがないから。 ・エリスとはまだ幼い関係しかないので未練はない。 ・母の期待を裏切ったまま帰国できない。 ・残留して学問をすれば道が開けるかもしれない。 5.「9.母の死を知らせる手紙を受け取る」を質問し、まとめる。 大問6 母の死因、手紙の内容は? ・これまでも頻繁に手紙のやりとりはあったはずである。 ・最近の手紙には、自我に目覚めたことだけでなく、官長に自分の意見を言うようになったこと、留学生仲間とのこと、さらにはエリスのことも書いてあったもしれない。 ×自殺→死をもって豊太郎を諫める。 ・手紙は免官を知って一週間以内に受け取った。 ・当時の手紙は船便である。ブリンジイシィからサイゴンまで20日あまりだから、一か月以上かかる) ・だから、免官を知ってから出した手紙ではない。 ・免官にならないのに、自殺までして諫める必要はない。 ○病死→自分の病気について。出世して、早く日本に帰ってきてほしい。 ・いつもやりとりしている手紙で、たまたま最後の手紙になった。 ・最後の手紙だと思うと、今読んでも涙が止まらない。 大問7 母の死は今後の豊太郎にどのような影響を与えるか? ・急いで帰国する必要がなくなった。 ・心の支えを失った。 ・「舞姫」には手紙が3回出て来て、豊太郎の運命を左右する。その1通目の手紙である。 6.「余とエリスとの交際は〜月日を送りぬ。」を口語訳して、舞姫チェック(9〜21) をさせる。 7.「10.エリスと離れ難い仲になる」を質問し、まとめる。 ・人生最大の危機である。 ↑ ↓ ・免官を知ってもエリスの愛情が変わらなかった。 ・金目当てで豊太郎との交際を認めているエリスの母に免官を知らせると、別れさせ られるので、言わなかった。 ・エリスは豊太郎を金のために愛していたのではない。 ・豊太郎のために同情し泣いてくれる姿が美しくいじらしかった。=母親 ・母亡きあと、母に代わって豊太郎のことを真剣に心配してくれる。 ・深い悲しみで恍惚としていた。 ・教会の前でエリスと出会った時も、恍惚としていた。 ・エリスとの重要な局面では、いつも恍惚としている。 8.「11.運命の日が迫る」をまとめ、質問する。 a)帰国→学問が完成せず出世の見込みがない。 b)残留→学資を得る手段がない。 大問8 豊太郎にとって最大の問題は何か? ・エリスではなく、学問である。 9.「12.ドイツに残留する」をまとめる。 ・相沢→新聞社の通信員の職を世話してくれる。 ・エリス→同居できるように世話してくれる。 ・ここで初めて登場する相沢が、後半のキーパーソンになる。 ↓ ・憂きが中にも楽しい生活を送る。 ・母との都での生活以来、豊太郎に訪れた、束の間の安息の日々である。 10.「朝の珈琲果つれば〜読まぬがあるに。」を読まずに、舞姫チェックで粗筋を確認する。 ・22〜はすべて正解である。 11.「我が学問は荒みぬ」と二回書いていることに注目する。 ・後悔していないように書いているが、実は学問に未練があった。 12.まんが「舞姫」とハーレクインロマンス風「舞姫」を配布する。 13.あらすじを一三〇字以内でまとめさせる。 ・1)エリスと交際が始まり、それが原因で2)免官になり、帰国か残留かを迫られる。そんな折、3)母の死を伝える手紙を受け取る。同情して泣いてくれる4)エリスと離れ難い仲になる。5)相沢とエリスに窮地を救われ、6)ドイツでエリスとつらい中にも楽しい生活を送る。(一一四字) 生徒の感想 ▼母が死んだというのは本当につらく苦しいことだったろうとおもう。けど、豊太郎にとっては決断のきっかけになったし、いいタイミングの死だったと思う。母は豊太郎に最後まで影響を与えたのだなぁと思った。 ▼母親が死んだことで今まで縛られていた糸のようなものが切れた感じがする。 ▼密告も元をただせば豊太郎が留学生仲間と仲良くできなかったから。つまり、自分で蒔いた種。ならば仕方がないことである。母の死は、もしかしたら豊太郎にとっては不運ではなかったのかもしれない。母親に免官の事実を知られずに済んだのだから。少なくとも母親の中では豊太郎は自慢の息子だったはずである。もしこの母親が生きているときに免官を知ったらどうなるか。なんせ原因が女性関係なのだから。ところで、豊太郎との同居をエリスは母親にどうやって説得したかが、若干気になる。おそらく「近くに置いて監視した方が金を搾り取りやすい」といったところであろう。どうやらエリスの母親は金に目が行って、大局を見据える力が衰えていたようである。むしろそういう人間はだましやすい。なんとせ人間の醜さがちらほらと顔を出す小説である。 ▼母が死んで心の支えがなくなったが、そこにエリスという心の支えがあったからこそ、ドイツに残留することができたのだから、学問よりもエリスの方を気にしてくれればなぁと思った。 ▼自分が免官になったのを知ってもエリスの愛情が変わらなかったことはトヨにしたらすごく嬉しいだろう。お金目当てじゃなかったわけだし。 ▼エリスはこんなに豊太郎のために一生懸命になってくれているのに、なんでトヨはまず一番に学問を考えるんだ。エリスはトヨのことを本当に好きなんだと思うけど、トヨは本当にエリスのことが好きなのかなぁ。だって、いつもトヨの方は「恍惚」としていたと書いてあって、本心なのかよく分からないです。 ▼エリスとの交際が始まったことを「悪因」であると豊太郎は回想しているが、自分の心に空いた穴を満たすためにエリスを利用したとも考えられないだろうか。エリスと深い関係になったのだってそのように思う。自分の深い悲しみを紛らわせるためエリスを抱いたみたいに感じた。 ▼つらいことがあった時、女は食欲、男は性欲を満たして不安を軽減しようとするって心理学の本で読んだことがある。「この行いありしを怪しみ、またそしる人もあるべけれど」と書いてあるけど、トヨの場合はしょうがなかったと思う。 ▼問題は豊太郎だ。現実に愛しているのは「学問」なのに、俗に言う「恋に恋している状態」で、エリスの事を本当に愛していると勘違いしているんじゃないだろうか。初めて彼女ができた中学生みたいに。 ▼この時帰国していれば、全く違った人生を彼は歩んでいたと思う。今となっては豊太郎はなにかすごく後悔しているようだが、この時帰国していればいたでまた後悔していたんだろうと思う。 ▼こういう人生を見ていると、別に幸せでなくとも平凡な日常生活をこれはこれで楽しいと思えてくる。 ▼相沢という男がこれからどんなことをするのか、絶対なんか凄いことをしでかしそうだなぁ。幸せは長くは続かないのかしら。 |