教材観 展開 本文 「私が哀号とつぶやく時」
教材観
私の誕生
私は、「奇妙な日本人」であった。朝鮮人の両親の間に生まれたのであるが、その当時朝鮮は日本の植民地になっていて、朝鮮という国はこの世界に存在しなかったからである。こういう意味で、私は生まれた瞬間から時代の「闇」を生きるように運命づけられていた。
阪井先生との出会い
私は、「世間の善」には意欲が持てず、「私の意欲」は「世間の悪」とされていた。その中で、尋常小学校五年生の時の阪井先生との出会いは数少ない「明」であった。阪井先生は、私の本名を呼んだ。私は最初誰が呼ばれているか分からなかったが、自分のことだと気づき真っ青になった。私はそれまで本名を呼ばれたことがなく、通名が本名だと思っていた。そして、「どす黒い憤怒」が吹き上がった。歪んだ性根に差別されたという思いが絡まったからである。冷静に考えると、通名を使っていた私の立場は異常であり、本名を呼んだ阪井先生は正常だった。私は先生に反抗を続けるが、先生も真正面からそれを受け止め衝突を繰り返す。しかし、やがて先生の眼差しの奥の「微笑」に気づく。先生の眼は私に朝鮮人としての誇りを持てと語りかけていた。罰として座らされた講堂のがらんとした空間が私の「心の淋しさ」に呼応していた。本名を知らなかった私は「世界の孤児」であった。心の底は「闇」であった。先生はその闇に光を与えてくれた。先生に謝った私の、日本人に屈したという「悔し涙」は、朝鮮人としての誇りに目覚めたという「嬉し涙」に変わっていった。「私の意欲」と「世間の善」が一致した。私は先生の喜ぶことを自分の意欲にしたいと思った。「日本人らしい日本人であった阪井先生」が、「朝鮮人の私」に、「民族的矜持」の種を植えつけてくれた。しかし、戦争の暗雲は私から阪井先生を奪ってしまった。
W先生との出会い
高等小学校のW先生は、私の本名を目の敵にしていた「『創氏改名』政策の忠実な実践者」であった。阪井先生との出会いによって、私の名前は父が付けてくれた本名以外にはありえないようになっていた。W先生は私のことを生意気な奴と思い、私はW先生への反抗心から、互いに無言であった。W先生は何度も私を殴り倒した。私は、再び「世間の善」を「私の善」となしえず、Wを憎みながら、自分自身を憎しみの中に閉じ込める「孤絶地獄」に墜落した。その孤絶感は、Wを代表とする日本人への「報復心」でもあった。その報復心は、ますます私を「世間の善」から断絶させた。
戦争と私
戦争の時代、最高の「世間の善」は日本のために「戦死」することであった。私は「世間の善」から孤絶していたにもかかわらず、その日本人からの孤絶が極点に達した時、日本人のために「戦死」することを心の中心に据えるようになった。戦争中に日本人に殴打されたことに対する「人間における抑圧と反抗の構図」が、朝鮮人としての誇りという「全体状況を見渡す目」がなくて殴られた「肉体」において受け止められる時、日本人を見返すために日本人より日本人らしく戦死するという「恐ろしい錯誤」が生じる。これは、「状況」を生きる人間につきまとう「錯誤」である。つまり、「人間は状況を生きる存在である」。「状況」を主体的に生きようとすれば、「状況」に翻弄される。日本人を憎むあまり日本人を見返すために日本人のために戦死することは、「悲劇的」であると同時に「喜劇的」でもある。
敗戦と私
日本の敗北は、朝鮮人にとって「解放」という「明」ではある。しかし、私を毎日のように殴打していた教師が私から逃れようとしているのを見て、私は裏切られたと思った。私は、喜べず、激しい怒りに襲われ、人間への深い「絶望」に投げ込まれた。日本の敗北は、私にとっては「暗の中の明」であり、さらなる混沌へと向かう「巨大な無明」の渦であった。私の心の中には大きな穴が開き、恐ろしいほどの寒さに全身を締めつけられ、暗い風の吹き流れる「空洞」になっていた。戦争で死のうと思っていた私の「死の情念」は新たな「闇」の中で冷たく凍った「黒い氷塊」になった。
|