生きることの意味

高  史 明
 
私の誕生
 日本列島を西下してゆくと、関門海峡がある。私はその海峡の西口に位置する彦島で、この世の生を受けた。一九三二年のことである。ところで、私の両親は、いまの韓国の南端にある金海から、日本に来ていた朝鮮人であった。私は朝鮮人の両親のもとに生まれた朝鮮人である。だが、その私は朝鮮人であると同時に、また、朝鮮人ではなかった。日本人だった。なんともややこしい話である。とはいえ、その理由は、極めて簡明だった。その当時、私の両親が生まれた朝鮮は、日本の植民地となっていて、朝鮮という国は、この世界から完全にないものとされていたのである。いうなれば私の誕生は、“奇妙な”日本人の誕生だった。そしてこの誕生は、歴史のよじれであった。私はいわばその誕生の瞬間から、この時代の闇を生きるよう運命づけられていたのだった。  阪井先生との出会い 1
 世間で善とされることには、積極的な意欲を抱くことができず、自分が意欲するものは、いつも世間では悪とされていた私。この私には、こころの喜びが乏しかった。私は人の子でありながら、人との出会いの喜びに恵まれていなかった。だが、この私にも、素晴らしい人との出会いがまったくなかったわけではない。五年生になったとき、私は阪井石三先生と出会った。先生は眉の濃い、真っすぐな性格の人であった。この先生との出会いが、私の人生の旅路での数少ない、いま一つの《明》である。 
 この出会いは、先生が新しい教室に現われたその最初のとき、すでに始まっていたといってよい。先生は、がっしりした体格の持ち主であった。声も大きかった。私はその声を耳にしたとき、なぜか本能的な反発を覚えた。そして、先生は点呼のとき、その大きな声で私の本名を呼んだのであった。「金天三」という濁声が教室中にひびいた。教室中が静まり返った。当の本人が黙っているのだから、返事がなくてあたり前である。先生はもう一度、一段と声を大きくして「金天三」と呼んだ。その声は私の耳底を打った。一瞬“アホめ”という思いが脳裏をかすめた。“どいつだ”と思ったのである。 
 が次の瞬間、私は全身の血が逆流するのを覚えた。それはまぎれもなく私の本名だった。アホは私自身だったのだ。私はまっ青になった。すると、どす黒い憤怒が、吹き上がった。“あいつめ!”と思う。私は自分の本名を呼ばれて逆上したのだった。何というもつれであろうか。 
 当時、日本の政府は、植民地朝鮮の日本化を推し進めて、ついには朝鮮人固有の名前まで、日本風に変えさせる政策を取っていた。つまり“創氏改名”ということが行われていたのである。それ故のことであろう。私は小学校に入ってから、一度も本名で呼ばれたことがなかった。そして、いつしか私は、日本風の名を自分の本名のように思い込んでいたのであった。つまり、私は自分の立場の異常を、正常にしていたわけである。その私には、 先生の正常な態度は、まさに異常でしかなかった。“こん畜生!”と私は舌を噛んで思いつづけた。“わざわざ金天三と呼びやがって、おれを馬鹿にしやがったな!”その瞬間、私はまさに憤怒の塊になっていたといってよいだろう。私は、依怙地になり反抗的になった。いつまでも返事をしなかった。全員の点呼が終わったとき、先生はまっすぐ私のそばにきていた。「金天三は、おまえだろ」それでも私は返事をしようとせず、ついに廊下に立たされた。                                                阪井先生との出会い 2 
 もともと私は、いくらか性根の歪んだ子であった。それが差別されたという思いと絡まったとき、黒い憤怒の炎が吹き上ったのである。その後、私は単なるいたずらの域を越えて、先生に攻撃を仕掛けた。だが、阪井先生の方でも、負けてはいなかった。先生は、私に何かを言い付けると、私がそれをさぼることを許さなかった。掃除当番から、宿題にいたるまでそうであった。掃除当番をさぼると、翌日は先生が付ききりだった。また宿題は、放課後に改めてやらされるという具合であった。衝突は幾度となく繰り返され、私は罰に何度も立たされた。私はいよいよ反抗的になった。 
 だが、この衝突こそが、その後の出会いを開くのである。先生の眼差しの奥には、いつも微笑があった。私は反抗の日々の中で、やがてその微笑みに気づくのである。衝突が繰り返されれば繰り返されるほど、その先生の眼差しの奥の微笑は、大きくなってゆくかのようだった。そして、ある日、和解のときがきた。きっかけは、私が掃除当番をさぼったことから始まった。私はいつものように罰を受けた。その日の罰は、運動場を十周駈けることだった。私はその罰から逃げ出した、しかし、すぐに捕まり、今度は講堂に座らされた。講堂はがらんとしていた。そのがらんとした空間は、私の心の淋しさに呼応していた。そのとき私の全身に広がった空しさを、どう表現すればいいだろう。その空しさは、すでにそれ以前から、私には感得されていたものであった。私は反抗をつづけながら、それがもとから心身に広がった空しさを、ただ深めるだけのものになっていることをよく知っていた。講堂に闇が訪れてきたとき、私は自分の心身に広がる闇がいっそう深くなるのを感じた。自分の本名を知らなかった私は世界の孤児であった。孤児の心底は闇である。と、闇の彼方から、先生の足音が聞こえてきたのであった。私は先生の足音を聞きながら、鼻をすすった。いつのまにか悔し涙が、嬉し涙に変わっていた。そして、先生がわたしの前に立ったとき、突然私はいったのだった。 
「先生、おれが悪かった!」 
 それは長い葛藤の末の私の敗北宣言であった。先生は私の頭を静かに撫ぜた。私はいまも、先生の掌の暖かさをはっきりと覚えている。その掌は、私の全身を包み込むかのようだった。私はこのとき初めて、人との出会い  に恵まれたのである。“よし!”と私は涙のただ中で思った。その“よし”は、この先生の喜ぶことを、自分の意欲としたいという私の決意であった。長い間、世間の善を自分の意欲としえなかった私。その私の中で初めて、そのとき自分の意欲と世間の善が一つになったのである。その日から、私は変わった。陰気で乱暴者であった私が、少しずつ明るい活発な子になっていったのである。この変化は何か。情熱的でからっと竹を割ったような性格であった阪井先生。そのいかにも日本人らしい日本人であった阪井先生が、朝鮮人の私のこころに、いわば民  族的衿持の種を植え付けてくれたということではなかったろうか。 
 だが、この幸福は長続きしなかった。この幸福の上には、日本による朝鮮の植民地化という不幸が覆いかぶさり、さらに拡大する一方であった巨大な戦争の暗雲が、重くのしかかっていたのである。その折り重なる暗雲は、私のこのささやかな幸せをいっきに押し潰した。私が阪井先生とともに送ることのできた日々は、一年もつづかなかったと思う。五年の学年が修了する前である。ある日、突然に担任の先生が代わった。どんな事情があった  のかはわからない。先生は私たちの前から、その姿を消し去ったのだった。 
 そして高等小学校に進んだとき、もっとひどい先生がいた。その学校には、私の本名を明らかに目の敵にしている先生がいた。Wである。ある日、W先生は、廊下で私と行き違ったとき、ふと私の胸の名札の名前に目を張り付けると、露骨に顔をしかめていったのだ。 
「おまえは、いつまでそんな名前を名乗っているんだ!」                          
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W先生との出会い
 私はそれに対して、どのように答えてよいか分からなかった。阪井先生に出会う前ならともかく、先生との出会いから、本名を名乗るようになっていた私の名前は、父が付けた本名以外ではありえないものとなっていたのである。私は沈黙して答えなかった。すると、W先生は、神経質に苛立ち頬をぴくぴくと痙攣させ、青ざめた。何か言いかけて、逆に唇を噛んだ。重苦しい沈黙がはじまり、私たちは互いに無言のまま別れた。ところで、この無言のままの別れから、次なる不幸が始まった。その後、私はこのW先生に、何度殴り倒されたことであろう。 朝礼で整列しているとき、四つん這いになって床掃除をしているとき、あるいは廊下を歩いているときもあった。彼は背後から近付いてきて、不意に鉄拳を振るうのであった。怒声が飛んでくるのは、その後であった。ときには、殴り倒しておいて、そのまま無言で立ち去ることすらあった。思えば、このW先生は、当時の政府が推し進めていた“創氏改名”政策の忠実な実践者だったのであろう。私はまさに、「抑圧、掣肘、徹底的矯正」の対象にされていたのである。 
 私、またしてもいわゆる世間の善を、自分の善となしえない孤絶地獄に墜落した。私は彼の不可解な暴力を、ただ憎んだ。彼の暴力は、執拗というほかないものだった。そして、その彼に反抗しようとする私もまた、次第に執拗で強情になっていった。私はいよいよ自分の本名に固執した。だが、この反抗から生まれたのは、何であったか。Wに逆らう私の中には、憎しみがあった。私はWを憎みながら、次第に自分自身を、その憎しみの中に閉じ込めてゆくことになるのである。憎しみとは、まさに当の本人を、まずその憎しみの虜にしてしまうものだったといえよう。Wを憎んでゆく私は、自ら自分をその憎しみの暗黒に突き落としてゆく私にほかならなかった。 私は自ら孤絶してゆきながら、ついには誰もかれもがWと同じ隊列にいるように感じるようになった。その孤絶のこころは、いいようもなく暗かった。しかも、その孤絶感はまた、そのまま青白い炎のもえる報復心でもあった。私と世間の善とは、この報復心がどす黒い炎を上げ始めたとき、決定的に断絶してしまったといえよう。そ して、私はどこに墜落することになるのか。  戦争と私
 あの戦争の時代、世間が最高善としていたのは、戦争に身を捧げ、見事に死んで見せるということであった。  Wとの葛藤から、底知れない孤絶感に突き落とされていった私は、その孤絶感が極点に達したとき、突然その死を自分のこころの中心に据えるようになった。人間の憤怒の情念とは、まことに不可解だというほかない。ある日、私は心底からの憤怒に駆られて、不意に声のない叫び声を上げたのであった。“いまに見ていろ! 人を馬鹿にしやがって! 誰が一番立派に死ねるか、いまに見ていろってんだ!”人間のどす黒い情念とは、まさに人間をどこに連れてゆくか分からないといえる。          ちょうど、その頃、戦争は日本敗北の様相を、いよいよ深くしていた。本土決戦ということが、しきりに囁かれはじめ、アメリカ兵の上陸に備えて、海際の山々では壕掘りが盛んに進められていた。私は上陸してくるアメリカ兵との戦闘で死ぬことでもって、自分の真っ黒な情念を解放しようと願ったのである。恐しい錯誤であった。それは人間における抑圧と反抗の構図が、ただ肉体においてのみ受け止められ、全体状況を見渡す確かな目がないとき、しばしば人間を襲う錯誤である。まだ少年でしかなかった私において起きたこの錯誤こそは、状況を生きる人間に付きまとい、いついかなる時代のいかなる人間にも起きる矛盾であり、錯誤だったともいえよう。 
 人間は状況を生きる存在である。それはまた、人間がチエを持つからにほかならない。そして、人間のチエとは、必ずしも自分自身について、さらには自分の生きる状況についても、いつも総体として見通すことはできない。人間のチエには限界がある。いや、人間のチエとは、その対象との関係において、対象把握が正確になればなるほど、その対象との乖離が避けられないチエである。そうであれば、状況を生きるべく運命づけられている人間が、その状況を主体的に生きようとすればするほど、かえってその状況に翻弄されるという事態が起きてきても不思議ではないのである。あの戦争のただ中で、暗い孤絶に追い込まれた私が、その孤絶がどん底にまで至ったとき、かえって自分を孤絶に追い込んだ戦争に、自分のすべてを捧げようと思い込むようになったのは、まさに人間のチエにはらまれている暗黒の現れだったといってよい。人間とは、まさに悲劇的であると同時に、喜劇的存在でもあったのだ。  敗戦と私
 日本が連合国に敗北したのは、一九四五年の八月十五日であった。その日、私の頭上に広がっていた青空には、計り知れない深みがあった。あの果てしなく青かった青空が、その深い沈黙をもって、私たち地上の人間に語りかけていたものは何であったろう。その沈黙は、寒いほど青かった。私たちが、その沈黙に耳が傾けられるのは、私たち自身がまた、深い沈黙と化していたからではなかったか。 
 あの日、私は朝鮮人長屋の暗がりを出て、広い湿地帯の外れに立ち、一人遥かな空を見上げていた。その私の  身辺には、異常なほどの静寂が広がっていた。動員先の工場がお盆の三日連休に入ったのは、前日のことである。それにしても、あの日の静寂は何故であったろう。長屋中が、まるで息を殺したように静まりかえっていた。あのとき父はどこにいっていたのか。また兄の姿がなかったのは何ゆえであったのか。私はその静寂のただ中で、草の生い茂る湿地帯の向こうの小路に、一人の大人が姿を現すのを見えのだった。その大人は、走っているように見えた。いや、踊りながら走っていた。その大人は、集落に通ずるゆるい坂道に差しかかったとき、私の姿に  目を止め、急に怒鳴るように言った。 
「負けだぞ! 戦争は、日本の負けだ!」 
 長屋の白さんだった。白さんは、私のそばを駆け抜けるとき、いま一度怒鳴るように声を張り上げた。 
「負けだ! 日本の負けだぞ!」 
 私はただ呆然と立ち尽くしていた。何故か、全身が、暗い風の吹き流れる空洞になっていた。思えば、まさに  その時、歴史は地球的な規模で、巨大な歯車を回転させていたのである。その回転は、明であった。明でなかったとはいえない。戦争に終止符が打たれたのであり、この日から戦争で死ぬ人はいなくなったのであるから。また、この日を境にして、朝鮮は植民地のくびきから解放されることになったのだから。だが、この明の中には、暗もまた渦巻いていたのであった。この明は、暗の中の明だったのであり、さらなる混沌へと向かう巨大な無明の渦だったのである。 
 私に即していうなら、私はまず、この「負けだぞ」という言葉の意味を理解しなかった。私の中には、勝つという言葉と死ぬという言葉はあっても、負けるという言葉は植え付けられていなかった。負けたとは、どういうことであるのか。そのとき私は、ぎらつく真夏の陽光のただ中に立ち、恐ろしいほどの寒さに全身を締め付けられながら、身動きできなかった。 
 翌日、工場に出たときも、その心身の寒さはなお解けていなかった。そして、がらんとした工場もまた、深い寒さに凍りついていた。眼ばかりがぎらついていた人々の表情も、青黒く凍りついていた。その後、私たちは、間もなく学校に帰ることになった。ところが、久しぶりに帰った学校に満ち渡っていたのも、寒いとしかいいようのない空気であった。私はその学校で、私を毎日のように殴打しつづけていた教師が、私から逃れようとしているのを見た。その教師の姿を見て、私は喜んだか。それが喜べなかったのである。もう殴られる心配がなくなったのだから、喜んでよいはずなのに、喜べなかった。私は心中密かに、あの戦争で死ぬことを覚悟するまでになっていた。それはまだ十三歳でしかない子どもの思いであったが、まさに子どもの思いなればこそ、純なるものであったといってよい。私は私から逃げようとする教師の姿を眼にしたとき、激しい怒りに襲われ、その怒りの渦の中に全身を呑まれていった。その教師は、私から逃れようとするその後姿によって、私のこころに喜びどころか、逆に人間への深い絶望を投げ込んだといってもよいのである。私はその絶望のどん底に、真っ逆さまに墜落した。私の死の情念は、黒い氷塊となったのである。 
 それにしても、朝鮮人の子である者が、しかも毎日のように殴られつづけてきた者が、その抑圧からの解放を意味する日本の敗北に際して、この暗い絶望に全身を捉えられてしまうとは、何ということであろう。歴史の明暗は、私の中では、ただ真っ黒い無明の渦を巻き起こしただけだった。この真っ黒い渦が明であろうか。この明はそのまま、まさしく暗であった。この暗が私の明である。この明は、まさに人間の“生”そのものだといってよいだろう。人間の生とは、暗い混沌の渦である。私は教師に裏切られたと感じた日、学校を止めた。